第七章 真の審判と居場所
第七章 真の審判と居場所
静寂が、ロアンの眠りを破った。
目を覚ましたロアンは、無意識に腰の横へ垂れていた腕を伸ばそうとした。
しかし、その手は動かなかった。
そこでようやく気づく。
両手首には、頑丈な手錠がきつく嵌められていた。
どうやら自分を助けた者たちは、これでもまだ安全とは思っていないらしい。
拘束されているのは両手だけではない。
両足にまで枷が嵌められ、まともに歩くことすらできない。
これでは一人で便所へ行くことさえ無理だろう。
「よぉ、起きたか?」
突然、鉄格子の向こうから声がした。
そこには、あの老兵と見知らぬ誰かが座っていた。
物音ひとつ聞こえそうなほど静まり返っていた牢獄で、先に立ち上がったのは老兵だった。
「団長。こいつが例の、化け物みたいな姿になって核獣を殺したっていうガキだ」
老兵は報告でもするように、隣で椅子に座ったままの人物へ話しかける。
「俺が着いたときには変身してるところまでは見てねぇ。ただ、妙な死に方をした核獣の死体があったのは確かだ」
ロアンはその人物へ目を向けた。
だが、牢獄の中はあまりにも暗い。
顔まではまったく見えず、体格から、さほど大柄ではないことが辛うじて分かる程度だった。
やがて、椅子に座っていた人物が口を開く。
その声は、とても穏やかだった。
「そう。でもね、ランスカ。彼をどうするかは、彼という存在が人々にどれほどの恐怖を与えるのか……それを見てからじゃないと決められないわ」
ランスカは隣に座る団長へ視線を向け、露骨に面倒そうな顔をした。
「チッ……めんどくせぇな。分かったよ、団長……さ……ま……」
「ふふっ」
団長はどこか楽しそうに笑った。
「行くわよ、ランスカ。もうすぐ開廷よ。私たちも行きましょう」
その口調には、わずかに命令するような響きがあった。
ランスカはそれ以上何も言わず、彼女の後について牢獄を出ていく。
二人が扉を抜けたところで、入れ替わるように数人の男たちがやってきた。
団長は彼らに軽く笑って会釈すると、そのままランスカを連れて通り過ぎていった。
そして取り残されたロアンは、
ますます何が起きているのか分からなくなった。
数人の男たちが牢へ入ってくる。
彼らはそれぞれ別の位置に立ち、ロアンが妙な真似をしないよう監視を始めた。
ロアンは乾いた唇を舐めた。
「すみません……水を、少しもらえませんか?」
喉がひどく渇いていた。
だが、見張りの一人は冷たい目でロアンを見るだけだった。
「自分が今、どういう立場なのか分かってんのか?」
男は一度言葉を切る。
そして吐き捨てるように言った。
「……化け物」
ロアンの身体が固まった。
化け物。
その二文字だけが、頭の中に引っかかった。
今の自分は……
化け物なのか?
自分は、いったいどれほど恐ろしいものになってしまった?
今の自分に、本当に人間を名乗る資格があるのか?
どうしてミロは、自分を怖がらなかった?
セラだって、こんな自分を守ろうとしてくれた。
じゃあ、今は?
みんなは何をしている?
もう一度、今の自分を見たら……
何を思う?
ロアンの脳裏に、一人、また一人と見慣れた顔が浮かんでいった。
ミロ。
セラ。
ノラ。
グレン。
イライ。
時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。
やがて壁の向こうから鐘の音が響くと、見張りたちが動き出した。
牢の扉が開く。
一人の男が麻袋を取り出し、いきなりロアンの頭へ被せた。
視界が闇に閉ざされる。
反応する暇もなく、ロアンは数人に押さえつけられたまま歩かされた。
どこを通っているのかは分からない。
聞こえるのは、周囲に何度も反響する足音だけ。
どれほど歩いたのだろう。
突然、身体を強く押さえつけられた。
膝が硬い床へ叩きつけられる。
両手も再び拘束され、その場から動けないよう床へ固定された。
そこでようやく、頭に被せられていた麻袋が乱暴に取り払われた。
強烈な光が、一気に視界へ飛び込んでくる。
「っ……」
ロアンは反射的に目を閉じた。
正面にある巨大な窓から、眩しいほどの陽光が差し込んでいる。
暗い牢獄に目が慣れていたせいで、再び目を開けられるようになるまでしばらくかかった。
そして最初に見えたのは、正面に座る裁判官だった。
その周囲には、数え切れないほどの人々。
ざわざわとした声が四方から聞こえてくる。
ロアンは横へ目を向けた。
片側には、つい先ほど会った老兵と、未だ正体の分からないあの団長。
反対側には、同期の仲間たちがいる。
ミロも、セラもいた。
さらにその前方には、上城区の貴族を思わせる身なりをした男が座っている。
王下者の団長だ。
ロアンが状況を理解しようとしていると、法廷の中央から威厳に満ちた声が響いた。
「静粛に!」
周囲のざわめきが徐々に消えていく。
中央に座る男は、ただの裁判官ではない。
正確には、王族の血を引く軍事裁判官だった。
男は法廷の中央に跪くロアンを見下ろす。
「これより、審理を開始する」
「ロアン・カシス」
ロアンは顔を上げた。
「お前の今後の処遇は、この場で決定される。これからのお前の態度、そして一つ一つの発言が、最終的な判断を左右すると思え」
「よって、質問には正直に答えるように」
軍事裁判官は手元の資料へ視線を落とした。
「十年前に発生した核獣の大移動。現在『核獣安定区域』と呼ばれている地域が形成される原因となった事件により、幼少期に両親を失う」
ロアンは何も言わなかった。
裁判官はそのまま読み続ける。
「その後、友人であるミロと共に救済基金会の支援を受け、十三歳で施設を離脱」
「以降、数か月にわたり民間の先駆者として活動し、最終的にミロと共に正規軍へ入隊」
紙のめくられる音が響いた。
裁判官が顔を上げる。
「では、まず王下者団長から意見を聞こう」
反対側に座っていた男が立ち上がった。
王下者団長。
マスター・キス。
その声には迷いがなかった。
「我々は、ロアン・カシスの肉体を徹底的に調査するべきだと考えます」
一拍。
「そして調査終了後、速やかに処分すべきです」
ミロの表情が一変した。
対してロアンは、ただ跪いたままマスターを見つめていた。
「彼の存在そのものが、核獣が人間社会へ潜伏しているのではないかという疑念を生む危険性を孕んでいます」
マスターは続ける。
「実際、ここ数年、人間に酷似した亜種の核獣が相次いで確認されている」
「ロアンの存在が一般市民に広く知られれば、その疑念はさらに膨らみ、最悪の場合、大規模な混乱を引き起こしかねません」
「ならば民衆が真実に気づく前に、その火種そのものを消すべきです」
裁判官は黙って最後まで聞いた。
そして反対側へ目を向ける。
「分かった」
「では、遠征団団長。そちらの提案を」
牢獄で見たあの団長が立ち上がった。
「はい!」
その声が法廷に響く。
「先駆者分支機構、遠征団団長、ミア・カジス。ここに提案いたします」
ロアンはわずかに目を見開いた。
ミア・カジス。
そこで初めて、ロアンは彼女の名前を知った。
ミアは振り返り、法廷の中央にいるロアンを見る。
「遠征団は、ロアンを正式な団員として迎え入れることを希望します」
「そのうえで、我々の管理下で外部調査へ参加させます」
ミアは一度言葉を切った。
「彼の力に危険性があることは否定しません」
「ですが同時に、その力は今後の探索と開拓に、新たな可能性をもたらすかもしれない」
裁判官がわずかに興味を示した。
「具体的には、どこを調査するつもりだ?」
「旧都の森です」
ミアが答えた瞬間、法廷のあちこちから小さなどよめきが起こった。
「我々は、人型に近い亜種が頻繁に確認されている旧都の森から調査を始めたいと考えています」
「あの場所は、千年前まで人類の重要拠点だった土地です」
「再調査を行い、必要な改修を施すことができれば、将来的には再び人類の拠点として利用できる可能性もある」
「面積も現在の目光城のおよそ三倍」
ミアは裁判官を見つめた。
「そして何より……近年になって、なぜ人型に近い亜種が急増しているのか。その原因を突き止められるかもしれません」
そのときだった。
「断じて認められん!」
突然、人々の中から声が上がった。
一斉に視線が集まる。
立ち上がったのは、一目で高い身分にあると分かる男だった。
この街の宗教を束ねる大祭司。
「旧都の森は人類の禁域だ!」
大祭司は声を荒らげた。
「遠征団は何年にもわたり、何度もあの場所へ調査隊を送り込んできた! そのたびに多くの死傷者を出しながら、ろくな成果ひとつ持ち帰れていないではないか!」
そして勢いよくロアンを指差す。
「もし、その男が本当に核獣の送り込んだ間者だったらどうする!」
「遠征団と行動させれば、目光城の内部情報だけではない! 軍の配置も、我々の探索方法も、すべて核獣側へ筒抜けになる可能性がある!」
「そんな危険を冒す必要などない!」
「今すぐ殺すべきだ!」
法廷が再び騒然となった。
「大祭司殿」
軍事裁判官の声が、そのざわめきを押さえ込む。
「お静かに」
「ここは軍事法廷です」
大祭司は険しい表情を浮かべたままだったが、それ以上は口を挟まなかった。
裁判官は再び資料へ視線を戻した。
「では、続ける」
一枚、紙がめくられる。
裁判官の目が再びロアンへ向けられた。
「ロアン・カシス」
「生存者から提出された報告によれば、お前たちが卓越種を倒した後……」
そこで、裁判官の声が一度止まった。
「お前は、その核獣の死体を食い始めた」
ロアンの顔から血の気が引いた。
「俺は……」
なぜだろう。
あのときの光景が、突然頭の中へ蘇った。
卓越種の死体に覆いかぶさる自分。
両手で肉を引き裂き、
顔を伏せ、
喰らう。
胃の奥が激しくうねった。
口を開く。
けれど、何を言えばいいのか分からない。
裁判官はそんなロアンを見つめていた。
「答えられないか?」
ロアンは俯いた。
裁判官はそれ以上追及せず、反対側へ目を向ける。
「では、当事者の一人であるミロ・ミキスに答えてもらおう」
一瞬にして、法廷中の視線がミロへ集中した。
ミロの身体が強張る。
彼はロアンを見た。
正直に話すべきなのか。
それとも、嘘をつくべきなのか。
全部、本当のことを話して……
それでロアンのためになるのか?
迷っていると、隣からセラの声がした。
「ミロ」
振り向く。
「正直に話して」
セラは真っ直ぐ彼を見ていた。
「下手に隠したら、余計にロアンの立場が悪くなる」
ミロはしばらく黙り込んだ。
やがて、大きく息を吸う。
「……はい」
そして裁判官を見た。
「ロアンが、核獣の死体を食べたのは事実です」
再び法廷がざわめいた。
ミロはすぐに続ける。
「でも、その前に俺たちを救ったのもロアンです!」
先ほどよりも声が大きくなる。
「あいつがいなかったら、俺たちは何人も死んでた!」
それを聞いたマスターが再び立ち上がった。
「君たちを救ったことと、その後に彼が何をしたのかは別問題だ」
ミロがマスターを見る。
マスターの視線は、中央に跪くロアンへ向けられていた。
「ロアン・カシスは、核獣の死体を食べた」
その声が低くなる。
「ならば我々は、何を根拠に断言できる?」
「彼が人間の死体を食わないと」
法廷が静まり返った。
そしてマスターは、最後の問いを投げかける。
「あるいは……」
「いつか、生きた人間そのものを食わないと?」
ロアンは俯いたままだった。
否定したかった。
そんなことはしない。
そう言いたかった。
だが、言葉が喉で止まった。
自分自身にすら、
分からなかったからだ。
「……分かりません」
絞り出せたのは、それだけだった。
途端に周囲のざわめきが大きくなる。
「分からない?」
マスターが眉をひそめる。
「本人である君にすら分からないのなら、我々にどう判断しろと言う?」
「次に君が食うものが、人間ではないと誰が保証できる?」
「ロアンはそんなことしない!」
ミロが勢いよく立ち上がった。
全員の視線が彼へ集まる。
ミロは拳を強く握った。
「あのとき、俺はあいつのすぐそばにいた!」
「あの白い煙の中に入って、ロアンの手まで掴んだ!」
「それでもロアンは俺を襲わなかった!」
「君を?」
マスターがミロへ向き直る。
「君はロアンと幼い頃から共に生きてきた人間だ」
「仮にあの状態でもわずかに理性が残っていたのなら、君を襲わなかったことなど何の証明にもならない」
ミロが言葉を失う。
「では、あのとき中へ入ったのが別の先駆者だったら?」
「守城者だったら?」
「ロアンが一度も会ったことのない、ただの市民だったら?」
ミロは口を開いた。
だが、何も言えなかった。
分からない。
そのとき。
再びマスターが口を開こうとした、その直前だった。
「だったら殺しゃいいだろ」
法廷が一瞬で静まり返った。
ロアンが顔を上げる。
声の主はランスカだった。
彼は未だ席に座ったまま、表情ひとつ変えていない。
やがて立ち上がる。
「本当にそいつが暴走して人を殺し始めたら、そのとき殺せばいい」
あまりにも平然とした口調だった。
まるで、何でもない話でもしているかのように。
マスターが眉をひそめる。
「簡単に言ってくれる」
「簡単だろ」
ランスカはロアンを見る。
「こいつは卓越種を殺せる」
一拍。
「だから何だ?」
誰も答えない。
ランスカはそのまま続けた。
「俺が今まで卓越種を何匹殺してきたと思ってる?」
法廷が静まり返る。
ランスカはロアンから視線を外した。
「俺からすりゃ、こいつがあの姿になったところで、外に出て核獣を一匹殺すのと大して変わらねぇ」
ロアンは呆然と彼を見ていた。
慰めではない。
信頼でもない。
ランスカは、ロアンが人間なのかどうかを庇おうとすらしていない。
ただ一つ。
極めて単純な事実を口にしているだけだった。
ロアンが本当に脅威になったのなら、
自分が殺す。
マスターはランスカを睨む。
「なら、なおさら話は簡単だ」
「今ここで処分すればいい」
「いや」
ランスカは即答した。
「だから、お前らは面倒くせぇって言ってんだ」
ロアンを指差す。
「こいつが初めてあの姿になったのは、いつだ?」
誰も答えない。
ランスカは軍事裁判官を見る。
「報告書に書いてあんだろ?」
裁判官は手元の資料へ目を落とした。
ロアンが初めて異常を見せたとき、
すでに致命傷を負っていた。
周囲の者たちから見れば、
一度は死んだと判断されるほどに。
そして、
再び立ち上がった。
法廷から徐々に声が消えていく。
ランスカは続ける。
「お前らが今から殺そうとしてんのは、一度死んだ後にあの姿になった奴だ」
「で?」
「処刑したせいで、またあれになったらどうすんだ?」
マスターが口を開いた。
「先ほど、自分なら殺せると言ったはずだ」
「殺せる」
ランスカは一切迷わなかった。
「俺なら殺せる」
ロアンを見る。
「次にどんな姿になろうが、殺せるもんなら俺が殺す」
ロアンの指先がわずかに縮こまった。
ミロの表情も変わる。
だがランスカは気にも留めていない。
いや、
そもそも自分が特別なことを言っているとすら思っていないのだろう。
「問題は、俺がこいつを殺すまでだ」
マスターは黙った。
ランスカが法廷全体を見渡す。
「ここはどこだ?」
誰も答えない。
「目光城だ」
「外に何人住んでる?」
「処刑の途中でこいつがまたあの姿になって、ここから飛び出したとする」
「俺は追いついて殺せる」
ランスカは足元を指差した。
「けど、その前は?」
「十人殺すか?」
「五十人か?」
「百人か?」
「建物を何棟壊す?」
「守城者と王下者を総動員して囲むか?」
その声は、最初から最後までほとんど大きくならない。
「住宅区に逃げ込んだら?」
「そのままハインストまで暴れながら突っ込んだら?」
今度こそ、
誰も口を開かなかった。
「俺はこいつを殺せる」
ランスカはもう一度言った。
「でもな」
「俺が殺すまで、お前らが一人も死なねぇなんて保証はできねぇ」
マスターの表情が険しくなる。
「つまり、危険だから何もしないと?」
「誰がそんなこと言った?」
ランスカはミアへ目を向けた。
「団長」
それまで座っていたミアが、その一言を聞いてゆっくり立ち上がる。
ランスカは再び軍事裁判官を見た。
「こいつを遠征団に渡せ」
ロアンが目を見開く。
「街の中に置いとくから面倒なんだ」
「外へ連れていけ」
「監視する」
「あの白い煙が何なのか調べる」
「どうして人間や核獣が、こいつを怖がるのかも調べる」
「それから……」
「またあの姿になるのかどうかもな」
マスターがすぐに問い返した。
「再び暴走した場合は?」
ランスカは彼を見ることすらしなかった。
「殺す」
一切の間もない。
「俺が殺す」
ミロが勢いよくランスカを見る。
ロアンも同じだった。
そこでようやくランスカは、再びロアンへ視線を向ける。
「こいつがまだ人間なら、自分で証明させりゃいい」
「違うなら……」
わずかな間。
「核獣として処理する」
その声は、恐ろしいほど落ち着いていた。
ランスカにとって、
本当にそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
そこでミアが口を開いた。
「遠征団は、ロアン・カシスを引き受けます」
軍事裁判官を見る。
「我々の管理下で彼の肉体、能力、精神状態を調査し、人口密集区域から離れた場所で行動させます」
「彼の行動については、私が責任を負います」
裁判官はすぐには答えなかった。
視線をランスカへ移す。
「本当に処分が必要になった場合は?」
ランスカが眉をひそめた。
いい加減、同じことを何度言わせるつもりだ。
そんな顔だった。
「さっきから言ってんだろ」
彼は中央に跪くロアンを一瞥した。
「そのときは俺が殺す」
再び、
法廷を沈黙が包んだ。
誰も反論しない。
ランスカの言葉を冗談だと思う者もいなかった。
ロアンは跪いたまま、その男を見ていた。
今でも分からない。
ランスカは自分を助けようとしているのか。
それとも、
ただ単純な事実を告げているだけなのか。
自分がまだ人間である限り、
生きていていい。
けれど、
いつか本当にその境界を越えてしまったなら。
向こう側で待っているのは、
ランスカだ。
軍事裁判官は長い間、何も言わなかった。
机の上に置かれた資料を、一枚、また一枚と確認していく。
法廷は静まり返っている。
ミロは緊張した表情で裁判官を見つめていた。
マスターは席へ戻り、険しい顔のまま黙っている。
大祭司も何度か口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
ミアだけは、その場に立ったままだった。
先ほどから表情ひとつ変えていない。
やがて、
紙をめくる音が止まった。
軍事裁判官が顔を上げる。
「ロアン・カシス」
ロアンの身体に力が入った。
「現時点では、お前が人間としての資格を失ったと断定するだけの証拠は存在しない」
「よって本法廷は、お前を核獣として処分することを認めない」
ミロの目が大きく見開かれる。
しかし、次の言葉でその表情はすぐに固まった。
「ただし」
「お前の能力、肉体の異常、そして暴走時に生じる危険性は、すでに通常の正規軍が管理できる範囲を超えている」
裁判官はミアを見た。
「よって、遠征団団長ミア・カジスの提案を採用する」
ミアが静かに頭を下げる。
「本日をもって、ロアン・カシスの身柄を遠征団へ移管する」
ロアンは目を見開いた。
「遠征団の管理下にある間、肉体の変化、能力、精神状態、その他すべての異常現象を記録すること」
「許可なく遠征団の監視下から離れることを禁ずる」
「同時に、遠征団の一員として外部探索及び調査任務へ同行せよ」
裁判官は一度言葉を切った。
そしてランスカへ視線を向ける。
「ロアン・カシスが再び暴走し、人類に対する制御不能な脅威となったと判断された場合……」
「遠征団に現場での処分権限を与える」
ミロの表情が曇った。
ロアンは何も言わなかった。
その言葉が何を意味するのか、
もう理解していた。
裁判官は最後にロアンを見る。
「ロアン・カシス」
「この判決に異議はあるか?」
ロアンは、拘束された自分の両手を見た。
生きられる。
少なくとも今は……
まだ、生きていていい。
「……ありません」
裁判官が木槌を手に取った。
「では、判決を言い渡す」
木槌が振り下ろされる。
乾いた音が法廷に響いた。
「ロアン・カシスの身柄を、遠征団へ移管する」
「以上をもって閉廷とする」
その言葉が響いた瞬間、
法廷全体がようやく呼吸を取り戻したかのように、四方から一斉にざわめきが湧き上がった。
ミロはすぐにロアンのもとへ向かおうとしたが、そばにいた者に止められる。
マスターはもう何も言わなかった。
ただ席を立つ前に、一度だけロアンを深く見つめた。
大祭司は険しい顔のまま、法廷を後にする。
ロアンはまだ、その場に跪いていた。
見張りが近づき、床に固定されていた拘束具を外していく。
ロアンは顔を上げた。
人々の間を抜け、
ミアがすでに法廷を出ようとしている。
その後ろにはランスカ。
出口へ差しかかったところで、
ランスカがふと足を止めた。
振り返り、
ロアンを見る。
ただ一度だけ。
そして何も言わず、
扉の向こうへ消えていった。
◇
休憩室の扉が閉まった。
カチャリ。
ミアは扉の前に立ったまま動かなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
「はぁぁぁぁぁぁぁ…………」
身体から骨でも抜け落ちたかのように、
長い長い息を吐き出した。
法廷ではあれほど真っ直ぐ伸びていた肩が、一瞬にして落ちる。
そのまま近くのソファまで歩いていくと、
倒れ込むように身体を投げ出した。
「疲れたぁ……」
後ろに立つランスカは、
そんな彼女をじっと見ていた。
その顔は、
時間が経つほど露骨に不機嫌になっていく。
ミアはソファに顔を埋めた。
「本当にマスターに持っていかれるかと思った……」
「…………」
「大祭司が急に立ち上がったときなんて、もう笑顔保つので精一杯だったし……」
「…………」
「でもまあ、ちゃんとこっちに来てくれてよかったぁ……」
「…………」
そこでようやく、
ミアは背後から突き刺さるような視線に気づいた。
ゆっくり顔を上げる。
ランスカが、
ものすごく嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。
「……何?」
「お前」
「うん?」
ランスカはミアを指差した。
「二度と俺に『団長様』なんて呼ばせんな」
ミアはぱちぱちと瞬きをした。
ランスカの額には、今にも青筋が浮かびそうだった。
「めんどくせぇんだよ」
一瞬、
休憩室が静まり返った。
「ぷっ」
ミアが吹き出した。
「でも、さっきはちゃんと言えてたじゃない」
「黙れ」
「団長……さ……ま……」
わざと先ほどのランスカの口調を真似してみせる。
ランスカは即座に背を向けた。
「帰る」
「ちょっと、待ってよ」
「帰る」
「ランスカ」
「呼ぶな」
「ランスカ~」
「うるせぇ!」
ミアはソファの上で声を上げて笑った。
だが、
ランスカが本当に扉の前まで行ったところで、
その笑い声が少しずつ消えていった。
「でも……」
ランスカの足が止まる。
ミアは自分の手を見た。
法廷にいた間は、
一度たりとも異変を見せなかった手。
けれど今なら分かる。
指先が、
ほんの少し震えていた。
「ありがと」
ランスカは振り返らない。
「街ん中であのガキ殺すのが面倒だっただけだ」
「うん」
「それに、本当に暴走したら俺が殺す」
「分かってる」
ミアはソファへ深く身体を預けた。
「だから、私も引き取るって言えたの」
ランスカはしばらく黙っていた。
やがて休憩室の扉を開く。
「自分が何拾ってきたのか、本当に分かってんだろうな」
扉が閉まった。
部屋にはミアだけが残された。
その顔から、
ゆっくりと笑みが消えていく。
目を閉じ、
もう一度だけ長く息を吐いた。
「……私も知りたいわよ」




