第26話 出自
彼女の四肢は、足元に響く振動を掬い上げた。
前方で狼狽えているパトラの身震い、遥か下で響いている微かな地響き。そこに、獲物を意味する情報は無かった。
彼女の耳は、空気から響く振動をかき集めた。
少し離れた上空を滑空する翼の音と、こちらへと近付く不自然な空気の流れ。折り重なったそれらの情報を、咀嚼する。
彼女の鼻は、自身を取り巻く臭いを選別した。
一向に近づく様子のない気配と、迷いなく突っ込んでくる危険の香り。咀嚼した情報と混ぜ合わせた彼女は、反応する。
彼女の目が、飛び込んでくる影の精を捉えた。
闇の中に閉ざされたはずのミノーラは、しかし、鮮明に影の精を判別している。
もとより白と黒の判別しかできない彼女にとって、微かな光が《《ある》》か《《ないか》》を見分けるのは、そう難しい事ではない。
左後方より飛び掛かった影の精が彼女へと一撃を加えるより速く、彼女は全身をよじる。
槍のように伸びた影が彼女の左足を掠める。
捕まれば全身を拘束される恐れがあるため、接触は控える必要があるだろう。
彼女は追撃を警戒し、足元から伝わる振動をもとに足場を見分け、距離を取りながらも影の精に対峙した。
「……なぜ見える?」
奇襲をしたはずが、距離を取られた影の精は少し警戒したのか単純な疑問を投げかける。
ようやく、やり取りの意味がつながることが、どことなく嬉しくて、ミノーラは微笑んだ。
「ここって明るいですよね? こうして暗くなったので気が付いたんですけど、木々が光っているとは思ってませんでした。これくらい明るければ、深い森の中で月光を頼りに狩りをするのとあまり変わりがありませんので。知ってました? 狼って夜行性なんですよ?」
そう答えながら、足元から漏れている小さな光に目を向ける。
おそらく、先ほどの影の雨に何かしらの仕掛けがあるのだろう。
黒く染め上げることが出来なかった箇所から、ぼんやりと光る枝葉が顔をのぞかせている。
「そっかぁ、知らなかったよ。アナタは狼なんですねぇ。てっきり人間かと。まぁ、どうでも良いことなんですが。取り敢えず、そこ動かないでくれますか?」
「さっきみたいに串刺しにするつもりでしょうか?私はあなたと話し合いたいんですが……パトラさん! この暗闇はコロニー全体に広がっている訳じゃないみたいです。私は大丈夫なので、逃げてください」
ミノーラにとって、この程度の暗闇であれば視界への影響は小さい。
しかし、パトラ達にとってはどうであろうか。この暗闇の中、障害物を避けながら飛行することはできるのだろうか。
恐らく、難しいのではないかとミノーラは考えている。
であるならば、先ほど得た情報の内、翼の音について説明が付く。
「分かりました! すぐに助けを呼んで参ります!」
そんな言葉を聞き、少し安心しかけた瞬間。彼女は背筋の毛が逆立つのを感じ、何度目かの跳躍を余儀なくされる。
しかし、影の精の方が一枚上手であった。
ミノーラが着地するのを待ち構えるように、周囲から例の槍が一斉に伸びたのだ。
「あっ!」
瞬間的に串刺しになると思考した彼女だったが、そうはならなかった。影の槍に実体はなく、代わりに、彼女の体にまとわりついたのだ。
そして、それが何を意味するのか、彼女は一度体験している。
首から下を覆いつくす影。例のごとく、体の自由はきかない。おそらく首輪のお陰なのだろう、首から上への影の浸食は無かった。
「これがあの方が仰られていた首輪ねぇ……。確かに、アタシたちが触れたらひとたまりも無さそう。ねぇミノーラ。この首輪、外してもらえないかしら?」
「ごめんなさい。私はこの首輪を外すことが出来ないんです。たぶん、サーナさんしか外せないと思います」
全身を動かそうと力を籠めるが、全く動く気配がない。手も足も出ないとはこのことだ。
仕方がないので、彼女は会話を試みる。そんな彼女の思惑を知ってか、影の精は会話に食いついた。
「サーナだって!?」
想定外の反応にミノーラも少し動揺してしまうが、食いついてくれたのはありがたい。
少しでも時間を稼げばパトラが応援を連れてきてくれる可能性が上がるのだ。
「サーナさんを知ってるんですか? 私はサーナさんに言われてここに来たんです。この首輪もサーナさんにもらいました」
「この首輪をサーナが……」
そう呟きながら、影の精はミノーラのすぐ傍へと近付いた。かといって何かできるわけでは無いのだが。
「アナタにはあの方に会ってもらう必要がありそうですねぇ」
ミノーラの顔を覗き込むように背を屈めた影の精に彼女は再度問う。
「サーナさんとはどういったお知り合いで?」
その問い掛けに、影の精は短く答える。
「あの子を育てたのは、アタシたちなんだよぉ」




