(下)
あれから、幾年か経って男は一人、今も妻と暮らした家にいる。
妻がやってくれていた、家や庭の手入れなんて始めのうちは何もできなかった。
料理だって妻の書いたレシピを真似てみても決して美味しいと思えず、総菜ばかりになった。
呆れた娘や息子が、時折やってきて掃除に家事にと手伝ってくれるのがありがたい。
「ほらお父さん、煮豚よ」
「おう、……母さんが好きだったなあ」
娘が作ってくれた煮豚を前に、ぽろりと零す。
滅多に妻の事を語らない男だが、娘の前では時折こうして思い出してしまった事がこぼれ出る。
だが、娘の方は違ったらしい。きょとりとした顔をしてから、呆れたように笑った。
「やぁね、お父さんったら。お母さん、別に煮豚好きじゃないわよ?」
「なんだって? だって、記念日のたびにアイツは……」
「それ、お父さんの好物じゃないの」
「いや、まあそうだが」
妻の作る料理はどれも旨かった。その中でも時間をかけてじっくりと煮込んだ煮豚は特に絶品だと男は思う。どこの店で食べるよりも、絶対に美味しいと思った。
家族ができてから外食と言えばファミリーレストランで、でも金がかかってたまらないと零したらその次から妻がご馳走を作ってくれるようになり、そしてそれがいつの間にか当たり前になっていた。
ケーキだけは、男が買うのが常だった。
「昔ね、お父さんに叱られたでしょう。母さんを困らせるなって。ほら、あたしが反抗期だった頃……懐かしいわね」
「そんな事もあったか」
「あの頃はね、私立中学に受験もさせてもらって色々お金かかってた時期で……でも子供だからわかんなかったのよね、あたし。周りは裕福な家の子ばっかりで、旅行とかブランドものとか持ってる子も少なくなくて」
「そうなのか?」
「それでね、なんでうちは同じようにできないのかってあの時お母さんに文句言っちゃったの。お母さんはね、お父さんが一生懸命に働いてくれてるんだからっていつも言っててね……今ならよくわかる」
結婚したからね、と笑う娘は、妻によく似ていた。
だけれど、妻よりももっとお転婆な娘のその言葉に、男は目を白黒させるだけだ。
娘は男の知らない妻の事を、たくさん知っていた。むしろ父親として、夫として男が知らないはずがないといった風だった。妻は、子供たちに男がどれだけ家族のために苦労をしてくれているのかと常々言い聞かせていたらしい。
だが、家のローンや子供の学費、そのほか諸々家計は苦しかったらしく節約もしていたんだそうだ。だから妻の服が少なかったのかと今更、気が付いた。
今更過ぎて、男は愕然とした。
自分の稼ぎは、少なくないと思っていた。だが実際に金の管理は妻に任せっきりだったし、部下や上司と飲みに行く際には大目に払わねばならない日もあってその時に手を出せばいつだって出してくれていたから気が付かなかったというのは言い訳にもなりそうにない。
働く事にしたのは、そうせざるを得なかったのだろう。
それに胡坐をかいて、偉そうに働く事を許してやるから家事の手を抜くななどとどの口が言っていたのか。今更あの時の表情の意味が理解できて、男はつるりと己の顔を撫でた。
時には娘の同級生の保護者達と、洒落たレストランなどに誘われる事もあったそうだが都度断っていて、そのせいで娘も肩身が狭かったのだと知ってそちらにも驚いた。
そのくらい、と思ったが今思い返せば洒落たレストランとやらはランチでもそれなりの値段が必要で、節約をしている妻がその分を家族に回したいと思ってもおかしくはなかった。そのくらい家族思いの妻だった。
だが周囲はけち臭い、しみったれた女だと卑下の対象になったようだ。そのあおりで娘が悔しかったのだろうという事は男にも理解できた。
「今となってはお母さんの方が正しいと思うわねえ」
おなかをさする娘のそこに、宿る新しい命。
小さくて、自分の後をついてはやれ抱っこしろおんぶしろとまとわりついて時には鬱陶しいと思ったくらいだった娘は、すっかり母親の顔をしていた。
「お母さんは、お父さんが大好きだったからねえ」
「……」
「弟が大きくなったらお母さんをお嫁さんにしてあげるって言った時には、お父さんがいるから無理よってフってたもの」
「そ、そうなのか」
それは知らなかった。
自分は振り返ってみれば、良い夫ではなかっただろうに。そんなに愛してもらえていたなんて、不思議でならない。妻の愛情に甘えて甘えて、甘えていた事すら娘に教えてもらわなければ気づけなかったような男なのにと思うが、娘はそんな様子に気が付かないようだった。
「お父さんはいつだってそばにいてくれるのよ……って言ってたよ。ご飯作るの失敗しても食べてくれて、次の時に気を付ければいいって許してくれたって笑ってた。うちの旦那なんてまた失敗したのかって文句言うのよ? まったく誰のおかげで安心して帰ってこれると思ってるのかしらね!」
「……ああ、まったくだ」
家を綺麗にしてくれたのは、当たり前じゃなかった。
掃除って大変だよなと男はやり始めて知った。窓ふきなんて、面倒でたまらない。
庭が綺麗だったから、いつだって眺めるのが楽しかった。
雑草を抜くのがこんなに大変だと思わなかった。よくきれいにできていたなと思う。
料理だって、材料一つで変わるものだと知った。
余らせないように、無駄にしないようにと思っても上手にできない。
全部全部、妻がいてくれたから、居心地の良い『家』だった。
今となっては、欠片もそれが見えない家だ。それでも妻がいてくれた、妻が愛してくれた『家』だった。
「母さん、ケーキ好きだったか?」
ぽつりと尋ねると、娘は食後の茶を用意しながら「どうだろ」と小首を傾げた。
記憶を辿っているようだが、娘も答えに困っているようだった。だがそれは、男にとって十分な答えだった。
「……今日はもういいぞ。お前も腹を冷やさないようにしろ。母さんと違って、おれは気が利かないからな」
「あの人と同じでお父さんには期待してませんー」
「生意気だなあ、お前は」
「お母さんみたいにお淑やかにはなれなかったねえ」
笑う娘は、少しだけ寂しそうだった。
視線が、写真に向かう。仏壇に飾られた妻の写真は、家族で撮った数少ないうちの一枚で、嬉しそうに笑っていた。
娘が去った後に、仏壇の前に座る。
よいせ、なんて声が出るあたり自分もすっかり歳をとってしまったと男は苦笑して、写真を見つめた。
「……もっと、話せばよかったなあ」
何も知らなかったよ、お前は苦労していたんだな。
おれと結婚して、幸せだったのか。
ファミレスで、ラーメンで満足してくれたんじゃない。
安物のケーキで大喜びしてたんじゃない。
それは家族としての愛情があったから、夫といたからそれでよかった、そういう事でいいんだよな。
そう小さな声で問いかけても、答えは当然あるはずもない。
だんだんと涙声になる男は、それでも今更になって気が付かされてどうしてよいのかわからなかったのだ。
「母さん」
大人しくて、文句を言わなくて、上司の紹介だから結婚した妻だった。
愛情がなかったわけじゃない、一緒にいて、沈黙が苦じゃなくて、穏やかで自分も幸せだったのだ。
だがそれを伝えたことは、一度としてなかった。当たり前のものだといつの間にか思い込んでいた。そうじゃないと、今日娘の言葉で気が付かされて、愕然とした。
どうして今まで気が付かなかったのだろうかと思うが、今思ってもそれこそ今更だ。
安上がりで良い女、そう思った自分を殴りたい。
良い女だったから、安物で済まそうとする情けない男を愛情で包んでくれていたのだ。
「お前は、本当に……、良い女房だよなあ……」
写真の向こうで笑う妻は、男に肩を抱かれて恥ずかしそうにしていた。
確か数少ない家族旅行で、記念写真を撮るやつがいて息子がねだって撮ったのだ。友達に自慢するからと言われて男は渋々だが了承した。
高い金を払うのだから良い写真を撮ってくれよと軽口を叩いて、そうしたらカメラマンが妻の肩を抱いてくれと言うからそうしただけだった。
今にして思えば、もっと手を繋いだりすれば良かった。
入院中も、そうしていると妻が喜んでいた事を思い出す。ああ、どうして自分はこうも遅れて理解するのだろう。
「おれもさ、お前が女房で幸せだよ」
愛している、その言葉を口にした事もなかった。
今更、写真に向けて言う自分はどれほど愚かで滑稽なのだろう。そう男は思ったが、零れる涙は暖かかった。
己の妻は、なんと良い女だと世界中に今なら自慢もできるというものだ。
止めてくれとあの世から懇願されそうだから口にはしないけれど。
「まだもう少しだけ、待っていてくれるか」
孫を見たら、お前に伝えに行くから。
それから、一緒に見守ろう。
今までできなかった分、手を繋いで一緒にいよう。
許してくれるなら。お前がそばにいてもいいと言ってくれるなら。
男はごしごしと袖口で目元を拭い、よっこらせ、と立ち上がる。
「茶でも淹れるか」
庭先で、桔梗の花が揺れていた。それを一瞥して口元を緩めると、男はゆっくりと台所へと姿を消した。
あの日、病院で渡せなかった花だった。
知らずに買った、妻が好きだという花だった。
庭先で、唯一枯らさず、欠かさず世話をしている花であった。
これにて完結です。
とある夫婦の、何気ない人生でした。




