とある担当の恋語り
小関視点
その小説を手に取ったのは、本当に偶然のことだった――。
「お堅い小説ばっか読んでないで、たまにはこういうのも読んでみなよ」
井口が勧めてきたのは、一冊のライトノベルだった。担当している作家の作品なのだそうだ。
畑違いもいいところなのだが、今後の仕事の幅を考えて、同僚がどんな作家の下についているか知ることも必要かと目を通すことにした。
それは一人の少年の旅の物語だった。
「僕」という視点で描かれる地下世界は深く暗く、そして人々の心が荒んでいる。
少年自身も地下世界の住人たちの住居確保のために毎日泥に塗れ、下を向いて暮らしていた。
それがいつしか上を向いて、空を目指して歩いていく。
だが、結局は見つけた王国に足を踏み入れることはできなかった。
長年を経て地下世界で生きる少年はモグラのように体質が変化し、眩しい世界では生きていけない体になってしまっていたからだ。
少年は自分を裏切る世界を恨むことなく、ただ静かに涙を落として去っていく。
彼は地下に戻り元の生活を再開する。そして空の王国について尋ねてくる人々にはこう返すのだ。
『何もなかったよ。みんなが望むようなものは何もなかった――』
「どうだった? 売り上げが伸びなくて絶版になっちゃったけど、私はこれすごく好きなんだ」
「べつに。文章は未熟で、最後の言葉もよく意味はわかんなかったな。俺はやっぱ理路整然としたもののほうがいいや」
井口にはそう答えたものの、その小説の内容は不思議と記憶に残った。
ふとした瞬間に思うのだ。自分は今世界をどう思っていて、あれを書いた作者はどう思っているのだろうと。
※ ※ ※
その作家と出会ったのは、井口とたまたま昼食を共にしたときのことだった。
「あっ、先生だ」
駅前のベンチに座っている女性を指して井口がそう声をあげた。
「ほら、前に小関に勧めた本があったでしょ。『遠い空の物語』を書いた先生だよ。私の担当の」
「へえ……」
素っ気なさを装いつつも目を離すことができなかった。
あれがあの小説を書いた本人か。目を離すことができなかったのは、一度会ってみたかったというミーハー心だったのかもしれない。
だがそれ以上にその雰囲気に意識が惹かれた。
彼女の周りだけ時間が止まっているように感じた。動き回る周囲に対して彼女はあまりに静かだった。
ふと彼女の表情が変わる。
ほうっと息を吐いて口元が笑みを作った。視線の先では初々しいカップルが戸惑いながら手を繋いでいた。
彼女の視線が移って目元がやわらぐ。その先には小さな孫と手を繋いで歩く老婆の姿があった。
忙しそうに動き回る宅配便の配達員でさえ、彼女は興味深そうに幸せそうに、そして少しだけ辛そうに見つめていた。
それらを目に焼きつけ終わったのか、彼女が空を見上げる。
静かに目を閉じ続ける彼女の中に渦巻く感情を知りたいと思った。
井口から、あれは彼女なりの創作活動なのだと聞かされて納得する。
「先生はね、自分が醜い存在だって思ってるのよ。だからどれだけ望んでも触れられないし、そばに寄ることができないんだって。先生の書くものはそんな世界への憧れが詰まってるのよね」
きっかけはささいなものだったらしい。
学生時代に本ばかり見ていて気付いたら一人のことが多かったとか、上手く友人同士の輪に入れなかったとか。
「原因がささやかすぎて先生にもこれが原因ってのはわかんないみたい」
友達がいないわけではなかったが、気付くと息の詰りを感じていたそうだ。
知らず知らずの間に、自分以外の世界がきれいで触れがたいものなのだと感じるようになっていたのだという。
「子供っぽい幻想だって先生自体もわかってはいるのよ。でも入っていくことができないの。触れたくても触れられない、愛しい世界。あの物語の主人公そのものよ」
『遠い空の物語』で感じたものの正体は、哀しいまでに世界を愛しいと感じる心だった。
――そりゃあ、俺にはわかんないわ。だって俺の中には存在しえない感情なんだから……。
世界の理屈をわかったような顔をして歩いてきたような人間にはない感性。拙い文章で叫んでいたのだ。世界を信じていると。
「先生のお父さんがこれまた堅ぁい頭の人でね、引きこもっていてろくに稼いでもこないような娘なら家を出ていけって言っちゃったみたい」
本人としては娘を鼓舞するつもりだったらしい。
彼女はその言葉を聞いて、それまで書き溜めていた長編小説を賞に出して見事金賞を取り、賞金を手に家を出てしまったそうだ。
「そのときの先生の言葉がまた笑えるんだけど、『引きこもったままでも金は稼げるんで。今までお世話になりました』ですって。とても気の小さい人間の言う言葉じゃないわよね」
確かに引きこもりの女が言う言葉ではない。それに一度金賞を取ったくらいで渡り歩いていけるほど小説の世界は甘くはないというのに、踏みとどまって作家でい続ける根性も。
そう感じたが、その愉快さにまた小説を読んだだけでは感じられなかった興味を引かれた。
井口が「先生っ」と手を振って走っていく。
一度びくっと肩をすくめた彼女は井口の姿を確認して安心したように笑みを浮かべた。
同性同士なのに笑いかけられる井口を羨む感情が発生している時点で、俺は彼女に好意を持っていたのかもしれない。
少しのやり取りを経て井口が俺のほうを指す。
紹介でもしてくれるつもりなのだろうか。
彼女の顔が上がってこちらを見て、――「ひいっ」という言葉が似合いそうなほど挙動不審になったと思ったら、首と両手を思いっきり左右に振って彼女は逃げていった。
何もしていないのに振られた気分だった。
がくりと肩を落とさないでいられたのは、彼女との間に何も始まっていなかったから。この一言に尽きる。
「あははっ。先生ったら相変わらずなんだからぁ。ごめんね、小関。あの人、小動物並に扱いの難しい人なんだ」
容易に触れないし、簡単に落ち込むし、すぐに引きこもって出てこなくなっちゃうし、と井口が指を折って数えていく。
「最初なんて笑顔向けただけで怯えられたんだから。大変だったのよ」
今ではすっかり慣れたから甘えてきてくれるんだぁ、とまるで飼い犬の話をするように井口が笑う。
「先生のそばにいるのって癖になっちゃうんだよね。自分がすごくいい人間だって錯覚させられちゃうの。いったん先生の懐に入っちゃうとね、全開で信頼を寄せてもらえるのよ」
疑うことを知らないのよ、そう井口は言った。
「すんごく可愛い人なんだから。もう、私がいないとこの人生きていけないんだろうなぁって感じで」
「それを人はダメ人間と言う」
「あら、ダメでいいのよ。それが先生のいいところなんだから。自分がそれほど世界から否定されてないって知ったら、書く手が止まっちゃうのよ。そういう人なの。先生が自分を否定する分、いっぱい甘やかしてあげたくなるのよ」
彼女が消えていった方向を見る。
脱兎のごとく走っていった彼女の姿はもうどこにもない。
ほんの数瞬の会合は、彼女の小説のようにいつまでも心に残って消えることはなかった――。
※ ※ ※
井口が結婚するため会社を辞めるというので、引継ぎは是非俺にと名乗り出た。
「先生はね、自分がダメ人間だって思ってるから、肩書きとか堅そうなイメージとにすんごく弱いんだよね。最初から自分のペースに持っていくことができれば、もうこっちのものよ」
井口は「愛する作家のためにここまでやっちゃうかぁ」と笑いながらも色々とアドバイスをくれた。
そんなことはないという態度は取ったものの、自分があの小説を気に入ったということはお見通しだったらしい。
「私は他に大事なものができちゃったのよ。ごめんね、先生のことよろしく頼むわ」
もう一番に考えてあげることができなくなったと井口は言った。
「それでもあの人はそれでいいって笑ってんでしょうね」
「ふんっ。わかったような口を。先生が大事なことには変わりないんだから、あの人ダメにしたら許さないからね」
作家としてダメにするな。井口はそう担当者らしく言って、もう一度「頼むわよ」と念を押した。
見掛けで圧倒してやれと着ていったスーツは見事に功を奏し、ペースは完全にこちらのアドバンテージを取った。
その先生は本当に肩書きに弱かった。
担当という肩書きひとつで強引にしろ見知らぬ人間を家にあげ、あげくその日のうちに合鍵を託してしまえる、人間の善性を信じていなければできない行為。
もし相手が悪い人間だったらなんて考えもしないのだろう。
井口の言ったとおり、彼女のそばにいることは癖になる。それを実感するまでにはそう時間はかからなかった。
自分がいないと二日で部屋の中は乱雑になるし、食器は溜まるし、食べるものに尽きたら平気で食べるのをやめるし……。
こいつ、ダメ人間だ。思って片付けに手をだして食事を与えると、きらきらとした目でこちらを見てくる。
「小関さん、マジ神……」
呟きが漏れていることに本人は気付いているのだろうか。――これは甘やかしたくなるわなぁ。
それなりに自分のことができる人間にとっては、このダメさ加減がたまらなくなることを知った。
触れたのは失態だった。
漏らしたため息に、まるで俺に嫌われたんじゃないかっていうような泣きそうな、置いていかれた子供のような顔をするから――。
帰れなんて言われて、そこではいそうですかと帰るわけにはいかなかった。
今帰ればまた逃げるだろう、あんた。
思って強行突破で近寄り、ようやく掴んでもらえた人差し指は熱を持ってうずく。
もっと触れたい、もっと触れられたいと。――でも我慢する。なんのためにあんたの担当になったと思ってんの。いくらだって待つよ。俺は気が長いほうなんだ。
人ごみの中、見知らぬ勧誘男に声をかけられ、びくりと怯えて背中に隠れられた日にはもうダメだった。
――あぁ、ダメだ。この人。俺がいないと。……そんでもって俺もこの人じゃないとダメみたいだわ。
やっかいなのに惚れちゃったなぁ、と空を見上げれば泣きそうな顔をして離れていく。
その襟首を掴んで引き寄せる。
「何やってんですか。人ごみに慣れたいって言ったのはあんたでしょ。付き合ってあげてんですから逃げるんじゃないですよ。恐けりゃ服の裾でも掴んでなさい」
こわごわとでも服を掴んでくる彼女に口が勝手ににやけていくのを手で塞ぐ。
――俺はね、あんたに近づくためなら門外漢のレーベルに首だって突っ込めるし、着慣れないスーツだって着られるし、苦手だったはずの料理だって覚えちゃうんですよ。なにせクソほどあんたのことを愛しちゃってますからね。
それを知らない彼女に優越感が止まらない。
こんな自分が一番クズだよなぁと感じつつ、彼女の息がつけるよう、少しずつ人気の少ない場所に向かって足を進めた。




