花舞う風に散る夢と-5
変化は一瞬だった。
長過ぎる年月を表すように濁っていた枯れ木の色が、艶と水分を含んで蘇る。
大きく腕を広げたように、空へと伸びる焦げ茶の枝。所々顔を出す葉は、瑞々しい緑に色付いて。
蒼穹の空を背景に。滝のように枝垂れ落ちるのは、数多連なり降り注ぐ、小さな真白の花の雨だった。
陽光よりも鮮やかに、舞い散る白が世界を染める。
茫然と立ち尽くす少年と少女が一度瞬きをする間に、劇的なまでに塗り変わる貴色。
再び彼らが目を開いた時、そこに佇んでいるのは最早灰色の枯れ木ではなく、今を盛りと咲き誇る、純白の花の大樹だった。
そうして。
言葉もなく見守る二人の目の前で、ふわりと音もなく空気が揺れて、虚空に新たな人影が現れる。
白いカーテンのその向こう。まるで花から生まれたようなその人は、艶やかな長い髪を靡かせた、薄いワンピースの少女だった。
水晶よりも透き通った美貌は、アレクより少しだけ年下か。髪も服も肌も全てが白いその中で、左耳の上で結んだリボンだけがピンク色をしていた。
――樹精、と。
少年が呟く声がする。
己の元に降り立った真白の少女の細い身体を、両腕でしっかりと抱き止めて。
世界で一番愛しいものを見る顔で、アレクが優しく微笑んだ。
「ただいま。――俺の大切な、ホワイトレイン」
微かに震える白い繊手が、信じ難いものを見るように、アレクの頬へと伸ばされる。その手をそっと握ったアレクが、淡色の目を細めて笑った。
「――アレク」
硝子の鈴が鳴るような声は、抑え切れない感情に揺れて。
ホワイトレインと呼ばれた少女は頬を伝う雫もそのままに、くしゃりと小さく顔を歪めた。
※※※
かつてとある町に、そこそこ有名な名士の一家が住んでいた。
名士の長男は有望な男だったが、アレクという名の次男坊は賢いながらも病弱で、幼い頃からなかなか外には出られなかった。
けれど、そんなある日のこと。静養のためにと家族に勧められて訪れた、亡き曾祖母が大切にしていた別荘で。
アレクは年経た一本の樹と、そして一人の少女に出会う。
『あなた、誰? アリスに少し似てるわ』
彼の一家が所有する別荘の庭の真ん中に、まるで自分が此処にいるのはごく当たり前のことなのだとでも言うように。
太い樹の枝に堂々と腰掛け、足をぶらぶらさせながら曾祖母の名を口にした真白の少女に感じたもの。
それが一目惚れだったのだとアレクが気付くのは、もう少し後の話になる。
それからアレクは、時間が許す限り庭に通うようになった。
少し不健康そうな灰色がかった幹を持つ、花を付けないその樹の名前がホワイトレインだということを、アレクは少女に聞いて初めて知った。
ホワイトレインの樹精である少女の姿は、不思議なことにアレクにしか見えなかった。アリスが生きていた頃も、あの子にしか私が見えなかったのよ。少女はアレクに、楽しげに笑ってそう言った。
『ねえアレク、あなたはこのリボンみたいな色の花を見たことがある? これはアリスがくれたのよ。私この色が好きだわ、こんな綺麗な色の花が、この国のどこかには咲いているんですって』
この庭で生まれて育ったホワイトレインは、外の世界も、また己以外のホワイトレインも知らなかった。
かつて己が咲かせていた白と、庭に植えられた赤や青の色鮮やかな花。それが彼女の見たことがある全てだった。
両耳の上で少女の髪を結ぶ二本のリボンは可愛らしいピンク色をしていたが、アレクは彼女が纏う純白の方がずっと美しいと思った。
『それなら、いつかそれと同じ色の花を見せてあげるよ。両手一杯に満開の花を摘んで、君の前に持って来てあげる』
『ふふ、約束よ! 待ってるからね!』
忘れないようにと、リボンの片方を預かって。
小指を絡めて笑ったあの日を、アレクは今も忘れていない。
アレクが別荘に来て半年した頃、ホワイトレインが花を咲かせない理由を聞いたアレクに、少女は寿命が近いのだと言った。
『随分前に、樹が病気にかかってしまって。多分、もう二年は持たないわ』
寂しそうに告げる彼女にアレクが覚えたのは――残酷なことに、深い安堵だった。
『何だ。それなら俺と同じだね』
横に突き出た枝の上、隣に座った彼女を見て、アレクは笑ってそう言った。
自分の病に回復の見込みがないことを、彼はずっと前から悟っていた。けれど、治らない病に感謝したのは、きっとこれが初めてだ。どちらが先に逝くにせよ、きっと長くは待たなくて良い。
恋した少女を置いて行くのも行かれるのも、アレクは絶対に御免だった。
真っ正直にそれを言うと、彼女は数秒アレクを見て、やがてくしゃりと顔を歪めた。
まるで泣いているような顔で、馬鹿ねえ、と笑う少女のことが、アレクは世界で一番愛しいと思った。
その夜、ホワイトレインが初めてアレクの前で花を付けた。
ここ十年ほど花を付けなかったホワイトレインが季節でもないのに満開の花を咲かせたことに使用人たちは驚いていたが、アレクはその理由を知っていた。
この花は、蝋燭の炎が燃え尽きる直前、一際強く輝くのと同じことだ。
幾千万と降り注ぐ、星屑のような小さな花は、誰よりも純粋で壊れやすい彼女の心のようだった。
やっぱりどんな色鮮やかな花よりも、彼女の白が一番美しい。そう思って、アレクは愛しい少女の前で、艶やかな花に口付けた。
残り少ない命を使い切ろうとするかのように、ホワイトレインは毎日花を付けた。
庭での逢瀬は毎日行われ、二人はいつも枝に並んで空を見た。少女は吸い込まれそうな晴れ渡った青空よりも、炎のような夕焼けを好んだ。
けれどある日、久々に高熱を出したアレクが幾分体調を回復させ、医師と使用人の制止を振り切って部屋を抜け出した時。
十日振りに訪れた庭に、ホワイトレインの樹はなかった。
庭の真ん中に残っているのは、掘り返された庭の跡と、雨に洗い流された白い花弁。
目の前の現実が理解できず愕然と立ち竦むアレクの胸倉を掴んで、見舞いに来ていた父が叫んだ。
『いい加減にしなさい、アレク! 母さんも兄さんもお前のことを心配している、お前はこの別荘に来てから体調が悪くなる一方じゃないか! 毎日毎日あの気味の悪い樹を見に来ていることを、私たちが知らないとでも思っているのか!』
叫ぶ父は心から自分を案じているのだと分かったけれど、アレクはそれを素直に受け入れることなんて出来なかった。
だって、父の不安は誤解なのだ。
アレクの体調が悪化した時期は偶然だし、ましてやホワイトレインのせいなんかじゃ絶対にない。
ホワイトレインが花を咲かせたのはアレクの命を吸い取ったからではなく、自分自身の命を注ぎ込んだからだ。美しいと褒めるたびに、真白の少女は本当に嬉しそうに笑っていた。
ホワイトレインがいなくなってから、アレクは頑なに本邸へ戻ることを拒んだ。
多分、そのまま別荘で死を待つことも出来た。けれどアレクはそうしなかった。
曾祖母アリスが我が子のように大切にしていたことで知られるホワイトレインは、不吉と思われつつも焼かれることなく、人の来ない山中に植え替えられたそうだ。使用人の話からそれを探り出した日、アレクは少ない旅荷物を纏めて家を抜け出した。
酷い親不孝をしていることは分かっていた。けれど、このままホワイトレインに会えなくなる方が、彼にはずっと嫌だった。
生まれて初めて足を踏み入れた山で、彼は幼い頃から暇に飽かせて読み漁った書物の知識を元に、何とか歩みを進め続けた。
彼女に預けられたリボンを握れば、ホワイトレインのいる場所は、何故かぼんやりと感じ取れた。まるで彼女が自分を呼んでくれているようで、怪しさよりも歓喜を感じた。
そうして山道を歩いている時、鮮やかに咲き乱れる花の群生地を見つけたアレクは、思わずそこに立ち寄った。
崖に面したその一角。ふわふわと風に揺れる背の低い花々は、彼女に預けられたリボンと同じ、愛らしいピンク色をしていた。
一刻も早くホワイトレインの元に行きたいと思っていたアレクは、ここで初めて歩みを止める。
この花を彼女に見せたいと、感じたそれは抑え難い衝動だった。それらが以前図鑑で見たメルファーナという名の花であったことが、その感情に拍車をかけた。
――そうして、両手一杯に花を摘んで。
立ち上がろうとしたアレクの手から、その時リボンがするりと落ちた。
地面に落ちたピンクのリボンは、風に煽られて飛んでいく。
アレクは反射的に追いかけて――
そこが崖の傍であったことを、思い出した時には全てが遅かった。
※※※
――ぱちん、と目の前で何かが弾けたような気がして、枯れ葉色の少年は我に返った。
一瞬前まで見ていた光景が幻のように遠ざかると同時に、周囲の光景が一気に現実味を帯びる。
そこにはもう、恋人と引き裂かれて広い庭で泣き叫ぶ青年もいなければ、嘆きながらも独り静かに枯れ逝こうとする真白の少女の姿もない。
彼らの視界に舞い散るのは、風に泳ぐ純白の花弁。花の雨を透かして見れば、ようやく掴んだ再会に、互いを抱き締めて見詰め合う恋人たちの姿があった。
(……今のは、彼らの記憶ですか。まるで白昼夢の、ような)
無意識に隣へと視線をやれば、見開いた少女の灰色の双眸からはぼたぼたと涙が落ちていて、彼女もまた同じ幻を見たのだと知る。幾分乱れた息を整えながら、少年は少女と繋いだ手にぎゅうと強く力を込めた。
「――ホワイトレイン、約束を覚えてる?」
息を呑んで見守る子供たちの視線の先で、アレクはずっと大事に持っていた箱を真白の少女の手に渡した。
開かれた箱から溢れ出したのは、満開に咲いたピンク色の花の海だった。大きく目を見開く少女に、アレクは悪戯が成功したように笑ってみせる。
「ずっと、君に見せたいと思ってたんだ。果たせて良かった」
左耳の上にだけ結んだ少女のリボンに重ねるように、アレクはメルファーナを一輪差してやる。自らの髪を飾るピンク色の花に、少女は恐る恐る手を触れさせ、そしてぎゅっと眉を下げた。
「――馬鹿ねえ」
零れるように呟いた、澄んだ声は震えていた。
礼も称賛も、素直に口にすることが出来ず。
ただくしゃりと情けなく微笑んで、真白の少女は繰り返す。馬鹿ねえ、アレクは。本当に馬鹿ねえ。
「うん。でも」
まるで幼気な子供のように。
何度も何度も同じ言葉を繰り返す少女の頬を、アレクは怒る様子も見せず、労るように優しく撫でた。世界で一番愛おしい少女の、柔らかな心を撫でた。
「君だって。俺を待っててくれてたんでしょう?」
――まるで、何もかも分かっているとでも言うかのように。
告げたアレクが取り上げた、少女の白い左手には、彼の瞳と同じ色の石で飾られた、シンプルな指輪が填められていた。
大切に大切にされていたことが分かる、傷一つないその指輪に、アレクはそっと唇を寄せる。
「誰もいない寂しい丘に、ずっと一人で取り残されて。一人ぼっちで死んでしまっても。
それでも君は、俺を待っていてくれたんだね」
――謂われのない疑いをかけられて。命を削って咲かせた花を、気味が悪いと踏みにじられて。
それでも彼女は、変わらないままで此処に留まり続けた。
恨むのではなく。憎むのではなく。
ただ交わした約束の記憶に縋って、冥界に渡ることも出来ないまま。
ぽとり、ぽとり、と。
透明な雫が、大地に落ちる。
――ありがとう、と呟いた声は、きっと二人分が重なって。
「――――ずっと、あなたを待ってたわ」
小さく、小さく。
まるで懺悔でもするように。
少女が囁いたその言葉は、溢れる涙に霞んでいた。
ぽろぽろ、ぽろぽろ、泣き続ける大切な少女を、アレクは静かに抱き寄せる。艶やかな髪に頬をすり寄せ、眉を下げた彼の頬に、ほとりと一筋、涙が落ちた。
「五十年も待たせて、ごめんね」
痩せて筋張ったアレクの手のひらが、少女の両頬を包み込む。少しだけ血色の悪いその手の上に、少女の手が添えられた。
こつり、とどちらからともなく、二人の額が合わせられる。
二つの唇に浮かんだ笑みは、同じ感情を刻んでいた。
「――冥の川の向こう側で。また二人で並んで夕日を見よう」
ありったけの想いを宿したアレクの言葉に、真白の少女は心から嬉しそうに瞳を細めた。
「そうね、アレク。それは――」
囁くようにそう答える、少女が返すものも笑みだった。再会してから初めて見せる、何の陰りもない、輝くような満面の笑顔だった。
「泣きたくなるほど、幸せな未来だわ」
同時に一際激しく吹き荒れた風が、白い渦となって二人を包み込んだ。
轟々と吹き付ける風に煽られ、少年と少女のいる場所まで花弁の嵐に呑み込まれる。驚きに体を震わせた少女を抱き寄せ、少年は目を腕で覆って顔を伏せた。
――そうして、子供たちが再び丘の上を見た時、そこにはもう誰の姿もなかった。
全てが夢であったかのような、風一つない静かな空間。
晴れ渡る空を背景に、痩せて枯れ落ちた樹が一本、ぽつりと静かに佇んでいた。