10.関ヶ原の戦い -11
関ヶ原の戦いの後、家康は論功行賞や政治の立て直しに奔走していた。
そんな多忙な中、秀忠が家康の居室に入ってくる。
「父上。お忙しいところ申し訳ありませんが、1つお願いがございます」
「なんだ。言ってみろ」
「後の徳川家の者たちのために訓戒を残して頂きたいと考えております」
「なんで今さらそんな話を?訓戒などお前が残せばいいだろ」
家康は筆を止めて秀忠に向き合い、そんな面倒なことはお前がやれと目で訴えかけた。
しかし、秀忠はそれを無視する。
「そうはいきません。天下人徳川家康が残すから意味があるのです。色々と苦労されてきたのですから、何か言い残したいこともあるのでは?」
「今すぐ死にそうな老人みたいな扱いだな...」
「もう60歳になりますよね。いつ死んでもおかしくないかと...」
「ワシはあと10年は生きるぞ」
「毎年内容を更新する形でも構いませんからお願いします」
圧力をかけてくる秀忠を前に、最近手強くなったなと呟きながら家康はため息をつきながら答える。
「そうだな。まず徳川家の当主たるもの...」
「たるもの?」
「諦めが肝心だ」
「...もう少しまともな内容でお願いします」
既にボケ始めていたかという目で見てくる秀忠を前に、家康は至極真剣な面持ちを保っていた。
「待て、これは真面目な話だぞ。お前も色々と経験したと思うが、天下人というのは別格の苦労がある。自分より上の者がおらず、全て自分で決断しなければならん。下の者は命令を聞かずに好き勝手に振る舞うし、そのくせ問題が起きれば上のせいだと囃し立てる。自らの出世や功績を第一に考える者や、気に入らんという理由で誰かと対立する者など、天下や全体のことを考える者など一握りしかおらん。自らが何もせずとも誰かが問題を引き起こし、1つ問題を解決している間に2つ問題が増える。道理に沿って物事を進めても反対したり非難する奴も山程いる。天下人というのはそれらの苦行に向かい合い、1人孤独に耐えねばならん」
「それだけ聞くと全く持って割に合いませんね...」
秀忠は嫌そうな顔をするが、家康も心底嫌そうな顔をしながら続けた。
「その通り。天下人などなるものではない。信長殿や秀吉殿を見て育ち、実際に天下人となったワシが言うのだから間違いないぞ。そんな中で全ての問題に真面目に対応しようものなら、心が荒んで老い先も短くなるか、家臣に厳しくなりすぎて恨みを買うだろう。完璧など目指さんで良い。多少の不備には目をつむり、ほどほどで良いと心掛けよ」
「...苦労を軽減する方法とかありませんか?」
「身分関係なく普通に話ができる者や、苦労話を共有できる者を持つことだな。お前の歳を考えれば、真田家あたりが良いんじゃないか?」
「なるほど。父上が天下人になれた理由は何だと考えますか?」
「運だな」
「運ですか」
少しは役に立つ話をできないのかという目で秀忠は訴えかけるが、家康はこれだから若造はと首を左右に振り全く悪びれない。
秀忠の視線にも負けず、扇子を仰ぎながら話を続けた。
「最初から天下を取ろうなど考えておらんよ。生きるために必死だったのは事実だが、誰かの下で降りかかる問題に対処し続けた結果に過ぎん。周りの者たちが順に失敗していき、たまたま天下人の座が転がり込んできただけだな。秀吉殿か秀長殿があと10年生きていれば、今頃ワシは隠居でもしていただろう。秀吉殿に聞いても同じ答えじゃないか」
家康の話を聞いて一応納得できたのか、秀忠は頷きながら別の質問を投げかけた。
「それで、豊臣家はこの先どうされるおつもりですか?」
「臣従するならそれで良し。あくまでも徳川家の上に立とうとするなら、こちらとしても応じるしかあるまい」
「素直に従いますか?」
「従わないならそこまでの器だったということだろう。前田家のように、形勢不利と見ればあっさりと降る家は手強い。秀吉殿も逆風と見れば考えを固持せず、別の手段を柔軟に駆使していた。家格だの恥だのを掲げ、膝の1つも折れないようでは戦国武将として失格だぞ」
「北条家を思い出しますね...」
「というか、朝廷の中枢を握る大大名という立場で何が不満なんだ。武家の棟梁と関白を兼任する方がおかしいのを思い出せ。豊臣家が上方を治め、関東をワシらが治めるという形の何が悪い」
「それはあちらに言って下さい」
お前も苦労を分かち合えと言わんばかりに話す家康だが、秀忠はあっさりと切り捨てる。
その後も家康は色々と愚痴を言うが全て流されて終わった。
そして一息ついた後、真面目な顔をして秀忠に自分の考えを伝える。
「...まあ、後の者に汚れ仕事を押し付けるわけにもいくまい。ワシが最後の奉公として片付けることにしよう」
「それは私がやります。父上は自分のお歳を考えて下さい」
「だから後10年は生きるって言ってるだろ!」
「70歳超えて大軍の総大将を務められるわけないでしょうが!」
「やれるって!」
「今川義元様のように、天下を取る直前に本陣に突撃を受けて討たれたりしたらどうするんですか!」
「それはもう関ヶ原でやっただろ!あのような失態は2度と見せんわ!」
関ヶ原の戦いの後、家康はすぐに豊臣家の排斥に向けて動き出したわけではない。
実際に家康は秀頼と和解し、豊臣家の家臣という立場を捨てていない。
ただ、豊臣家が西軍についた以上、各地にあった豊臣家の蔵入地を取り上げて分配するのは当然のことであり、家康の権威を示しつつ東軍についた大名たちに恩賞を与えるためにも必要な行為だった。
家康は江戸に幕府を開くことになるが、関ヶ原の戦いにより豊臣政権の中枢が文字通り消滅したことと、豊臣家の本拠地である上方の影響を弱めるという目的がある。
そんな状況において、豊臣家そのものは他の大名よりも格上の扱いを受けている。
また、豊臣家はその後も摂関家の一員として認められており、関白を輩出できる特別な家系として在り続けた。
ただし、ここで問題になったのが豊臣家の対応である。
秀吉の残した大量の財貨と65万石もある領地、独自の官位叙任権などの特権を保有した豊臣家は依然として脅威であった。
そこで、家康は秀頼に臣下の礼を取るよう要請したりしているが、淀殿などがこれを拒否する。
加藤清正らが両家の仲を取り持とうとするが、豊臣家は徳川家に臣従することを受け入れられず軋轢が本格化。
家康は関ヶ原の戦いの時点で既に60歳近くと高齢で、当時の常識からすればそう長くはないと見られており、豊臣家は家康の寿命が先に尽きることに賭けたのかもしれない。
実際、関ヶ原の戦いに参戦した大名の多くが戦いの後に死去している。
しかし、家康はその後も生き続ける。
最終的に事態は両家が戦う大坂の陣へと発展し、関ヶ原の戦から15年後に豊臣家は滅亡することとなる。
そして、大阪夏の陣の翌年元和2年1月21日に家康は75歳で死去。
文字通り豊臣家の最後を看取ってからの大往生となった。




