8.徳川家康私婚事件 -5
慶長4年5月。
伊集院忠真が挙兵。
島津家が忠真からの調停要請を拒否し、周辺地域の通行を止めるなどの対応を見せたことで、島津忠恒が起こした事件は伊集院家を排除するための計画であり、最早和解は不可能と判断したものと思われる。
上方に召喚されていた忠恒も島津家の要請を受けて九州へと帰国し、伊集院家の討伐に向けて出兵。
これにより島津家最大の内乱である庄内の乱の火蓋が切られた。
家康たちも何もしなかったわけではないが、和睦の調整は上手く行かず、周辺大名への支援依頼も島津家が断ったり、島津家と仲の悪い依頼先が拒否したり失敗に終わっている。
加えて、加藤清正が伊集院家を裏から支援していたこともあり、被害は拡大し戦は長期化の一途を辿る。
この内乱は翌年の慶長5年3月頃まで続くこととなり、最終的には家康からの再度の和睦要請を双方が受け入れたことで決着。
島津家はこの戦で消耗したことや内乱の再発を恐れたことで、関ヶ原の戦いに大軍を送り込めず存在感を失うという失態を見せることに繋がる。
なお、和睦後も島津家は伊集院家に対する警戒を解いていなかった。
慶長7年8月17日に忠恒は上洛に際して忠真へ同行を命じ、途上で鷹狩りを催した際に誤射という形で殺害。
忠真も警戒していたのか島津家臣の平田平馬と馬を交換していたが、忠恒は平馬の射殺後に改めて忠真を射殺し、後日伊集院家に連なる者たちを粛清している。
この事件に代表されるように、この頃から諸大名の家中で親豊臣派の発言力低下が顕著となり、それに伴って家中での諍いも増加。
今までは秀吉という象徴が居たからこそ何もできなかったが、その秀吉が消えて政権中枢内でも対立が深まるなどしたため、諸大名はここぞとばかりに邪魔な派閥の排除に動き始めていた。
一方、庄内の乱が本格化した頃に、豊臣政権では希望する大名に対して帰国の許可を出していた。
五大老や渡海組を中心に、領内の仕事が滞留していた大名たちの多くがこれを機に自領へ帰国。
前田利家の後を継いだ利長は3年は上方を離れないよう遺言が残されていたが、利家死去の後片付けも出来ないまま領地を放置していたこともあり、見かねた家康の勧めもあって帰国する。
上方に残ったのは家康や奉行衆、そして一部の大名だけとなり、五大老・五奉行による合議制は原型を留めなくなった。
そして、この状況に止めを刺す事件が発生する。
慶長4年9月頭。
伏見城で仕事をしていた家康の元に、普段よりも厳しい顔つきをした鳥居元忠が知らせを持ってくる。
「殿。先日帰国された利長様ですが...」
「なんだ?もう上方に戻る目処でもついたのか?」
「殿の暗殺計画に加担しているという密告が入りました」
「...........暗殺?」
家康は元忠の言葉を理解できず、暫くの間身動きひとつ取れなかった。
前田家とは政治的に対立する立場ではあるが、利家・利長とは関係が悪いわけではなく、他の五大老などに比べれば極めて良好と言ってもよかった。
その利長が家康の暗殺を計画すると言われてもにわかに信じがたく、しかも帰国して即座に計画が露見するなど胡散臭いにも程があった。
「いや、どう考えても嘘だろ...。利長殿を排除したい誰かの謀略にしか思えんが」
「それが、この話を知らせてきたのは五奉行の増田長盛と長束正家になります」
「........は?」
家康はますます意味が分からないという顔をする。
五奉行の両名は反徳川家の立場であり、利長とは派閥的に協力関係にある。
その両名が利長を売るような真似をする意味が分からず、本当に暗殺計画に加担しているのであれば黙認する方がよほど自然である。
「殿は9月9日に重陽の節句のため、大阪城にて秀頼様に拝謁する予定です。その際、豊臣家臣の土方雄久と大野治長が殿を討つという計画とのこと。この計画に加担しているのは利長様以外に、浅野長政様や細川忠興様もおられるようです」
「両名ともワシらの派閥だろ!なんで今更暗殺計画なんかに加担するんだ!理屈に合わんだろう」
「仰ることはごもっともですが、まずは当日の備えが必要です。既に兵の増員の手配は進めております。真相解明は乗り切った後に行いましょう。奉行衆の両名にも後日会議の場に出るよう使いを出しました」
「胡散臭い病死や誤射ならともかく、城内で堂々と襲撃するとか、もう少しちゃんとした計画を立てろと言いたくなるな...」
慶長4年9月9日。
家康は兵を連れて大阪城へ赴くが、当然ながら何の事件も発生せず謁見は終了。
大阪城には家康の屋敷が無いため、家康は空いている三成邸に留まり、数日後には長盛・正家両名と話し合いの場が設けられた。
増田長盛と長束正家。
長盛は主に土木を担当しており、正家は主に財務を担当。
長盛の方は比較的家康と交流があり仲は悪くなかったが、正家の方は家康の行動に対して批判的だったため仲は悪かった。
正家は官僚としての能力が高く、豊臣家の蔵入地や検地の実務を担当していただけに、先日家康が行ったような領地の加増・減封に関しては、越権行為であるとして極めてうるさかったことが原因である。
その正家が家康暗殺計画の情報を提供するなど信じられなかったが、家康と正信たちの前には見間違えるはずもなく正家が座っていた。
「このたびは家康様の暗殺計画が未然に防げたことを喜ばしく思います」
家康や正信と顔を合わせるなり、正家がいきなり話し始める。
ただ家康や正信からすれば、そもそも疑わしいことこの上ない情報であり、さも事実であるかのように話を進める姿には違和感しかない。
「正家殿、ちょっと待って欲しいんだが...」
「家康様。戸惑われるお気持ち、この正家十分に理解しております。先日の三成様の襲撃事件同様、政権の重要人物の身に危険が及ぶなどあってはならないことです。しかし、謀というものは常に存在するもの。ましてや、今回は利長様や長政様などの政権中枢の者たちが関わっております。先日の武断派は無罪となりましたが、やはり後に続く者が出ないよう、一罰百戒然るべき処罰が必要かと思われます」
「いやいやいや、言いたいことは分かるがその計画自体がだな...」
「また、先日の襲撃事件では伏見城が包囲される始末。大阪城に滞在していた他の大老は手を出せずにおりましたが、これが大阪城であれば秀頼様の身はどうなっていたことか。加えて、他の大老たちは先日さっさと帰国しており、豊臣政権そのものに対する忠誠心にも疑問が持たれております。これを受け城内からも、このままでは秀頼様のご安全を確保できないという声が上がっている始末」
「確かにあの時は対応に不備があったとは思うが、帰国自体は奉行衆も納得して....」
「そこでここは1つ、家康様に大阪城へ入って頂くのはどうでしょうか?」
「ワシが大阪城へ!?」
正家の唐突な提案に対し、家康だけではなく同席していた正信たちも驚き慌てる。
家康は現在伏見城に入っているが、この状況すら本来は許されないものであり、ましてや豊臣家の本拠地である大阪城に入るなど専横以外の何物でもなかった。
当然ながら提案している正家にもこのような権限は無い。
家康は正家が正気なのかを問おうと長盛の方を向くが、長盛からは更に衝撃的な発言が飛び出してきた。
「このたびの提案は北政所様もご了承されておられます」
「北政所様が!?」
秀吉の正室である北政所は現在大阪城内に住んでおり、豊臣家において最も発言力の強い人物の1人である。
その北政所が言うのであれば誰も反対することはできない。
ただ、その北政所がこの話を進める理由が不明だった。
驚いて何も言えなくなる家康に対し、長盛はそのまま話を続ける。
「北政所様は西の丸に住まわれておられますが、このたび京都新城へと移ると仰られています。家康様には空いた西の丸に入って頂ければとのことです」
「そこまで話が進んでいるのか...」
「また、家康様が入城後、しばらくした後に正家様は帰国される予定です」
「そ、それはつまり...」
つまり、正家と長盛の言いたいことは、利家亡き後の前田党を解体し、家康への権力の一本化を進めろという提案である。
利長でも派閥を維持することは可能だろうが、前田党は利家個人に対する敬慕から成り立っている面もあり、事実利家亡き後はあっさりと問題を起こしている。
奉行衆からすれば問題を起こすような派閥は先んじて処理しておきたい対象でしかなく、家康の対抗馬として力不足なのであれば、これを機に家康に権力を一本化した方がマシであると考えてもおかしくはなかった。
細川家は徳川家の派閥だが一方で前田家とも仲が良く、徳川家に仕えるよう踏み絵を試すことが目的となる。
また、浅野長政も家康の私婚事件の際には反徳川家の立場となっており、中途半端な立ち位置の者の排除という意味合いがある。
豊臣家臣の両名に関しては完全に濡れ衣となるが、家康の入城に際して反対しそうな者たちを追い出しておくためには必要だった。
この状況で正家が帰国となれば、大阪城に残るのは家康と、比較的仲が良い長盛だけとなる。
五奉行には前田玄以が残っているが、伏見城に滞在する時間が長く、派閥的な意味で言えば中立的な立場を取っていたため、実質的には2人だけで政権を差配することになる。
しかし、当然ながらこういった謀略としか見えない行為は家康の名を落とすものであり、正家と長盛は家康にその覚悟があるのかを問うているのだった。
家康は滝のような汗を流しながら正信たちの方を振り返るが、正信たちも完全にしてやられたという苦悶の表情を見せていた。
専横と呼ばれながら豊臣政権の舵取りを担うかどうか。
年初から騒動に振り回され続けてきた家康に対し、トドメとばかりに大きな爆弾が投げつけられた。