8.徳川家康私婚事件 -1
唐入りからの撤退が進む中、慶長3年10月から12月にかけて、家康は有力者たちの家を訪問し関係構築に努めていた。
また、それと並行して伊達家や福島家、黒田家などと婚姻を結ぶ。
大名間の勝手な同盟や結託を制限しようとする秀吉の意向を受け、これまで家康は交流を意図的に謹んでいた。
その代償として貧弱な人脈や政治基盤が課題として浮き彫りになっていたが、これらの活動はそういった問題を解消しようとする動きの一環である。
しかし、この行為が他の五大老・五奉行の逆鱗に触れた。
家康が勝手に婚姻を行ったことを専横と見なす者いれば、便乗して家康の失脚を狙う者、婚姻先との仲が最悪でこれを機にまとめて叩き潰したいと考える者など、動機は様々ではあるが家康許すまじという点においては共通している。
親徳川派である浅野長政も、仲の悪い伊達家と家康が婚姻を結んだということで、今回は家康を咎める側に回っており、悪い意味で五大老・五奉行が一致団結してしまっていた。
慶長4年1月19日。
家康に対して堀尾吉晴ら三老中が問罪使として派遣される。
容疑は御掟にて禁止されている、許可を得ない婚姻と徒党の形成である。
しかしこれに対し、家康は怒り狂って使者を追い返す。
「意味が分からん!今回の婚姻のどこが悪いというのだ!言いがかりも甚だしい。そのような讒言を誰がしたのか申してみろ。そやつらの方が御掟に反しておるわ!」
当然ながらこれで話が終わるはずもなく、この騒動は豊臣政権内で大炎上することとなり、話を聞きつけた大名たちが伏見城と大阪城に集結する騒ぎとなった。
五大老・五奉行の中でも、家康を大老から失脚させるだけではなく、このまま討つべきという意見が出ており、それに呼応するように兵を動かし始める大名も出始める。
ただ、家康側に参戦した大名には豊臣家と縁故のある大名も多く、大義名分があると考えていた五大老・五奉行たちにとっても想定外の方向へと状況は走り出す。
当時の日本国内では8年近くまともな戦が行われておらず、戦の時代は既に終わったと考えている大名たちも多かったことから、家康を政治的に失脚させることが当初の落とし所として見なされていた。
しかし、唐入りに参戦していた大名や、功績を求める若い大名たちにはそんな考えは通用せず、戦をしてこそ戦国大名と言わんばかりに行動を開始。
当初は家康の私婚を糾弾するという話だったが、当の家康すら状況を把握できないまま、いつの間にか豊臣政権を2つに分けた戦が始まりかねない状況へと突入していた。
2月頭。
この一触即発の事態をなんとかしようと、家康と利家は周囲に隠れて街外れの屋敷で会談していた。
利家は秀吉の遺命に従い1月10日に秀頼を連れて大阪城へと移動していたが、家康が滞在する伏見城からはさほど遠くなかったのが幸いした。
「すまんな利家殿。体調は大丈夫か?しかし、よく大阪城から出てこれたな...」
「病状が悪化して寝込んでいるということにして隙を突いて出てきた。ただ、あまり時間はかけられんぞ」
「この前の婚姻だが、結局あれのどこが悪いのだ?」
「他の大老や奉行衆たちからすると、今回の件は御掟を破る明確な違反行為であるという話だ」
「待て待て待て。婚姻が自由にできないのは承知している。ただ、御掟では秀吉殿の承認が必要であるとなっているだろう。秀吉殿から政権の差配を任されたワシが代行して何の問題があるのだ?」
「...やはりそう考えておったか。家康殿の言いたいことは分かる。ただ、他の者たちはそう考えておらんのだよ」
「では誰が承認するのだ?秀頼殿に任せるわけにもいかんだろう」
「五大老と五奉行の合意をもって代わりとする」
「そんな無茶な話があってたまるか!それこそあやつらの都合の良いように振り回されるだけだろう!それに合意といっても、全員一致で話がまとまることなどほとんど無い。ましてや婚姻ともなれば反対する者は必ず出るぞ。現実的に考えてまともに機能せんだろう!」
家康の反論に対し、利家は頭を抑えながら溜息をつく。
五大老と五奉行の多数決で話が決まるなら、少数派である家康の婚姻など通ることはない。
家康の反応も最もであり、利家もこうなるであろうことは予想していた。
そもそも御掟自体が秀吉という絶対的な権力者の存在を前提とした法であり、その秀吉がいなくなった時にどうするのかは明記されていない。
加えて、大名間の婚姻の許可が降りる条件も明確ではないため、五大老・五奉行の合議制といったところで各人の利害関係で話が決まるのは明白である。
「それに、秀吉殿の遺命によって大名間の婚姻を一時的に凍結する話もある。秀頼殿が成人するまでの10年以上もの間は婚姻を認めないとすれば、子供たちの婚姻に困った各地の大名が怒り狂うのは目に見えておる。全ての婚姻の可否を会議で決めようとすれば、一体どれだけの時間がかかるか考えているのか」
「面倒事や自家に影響が出るとなると会議を拒否する者もいる。婚姻ともなれば揉めるのは必至。最悪、対立する者同士が常に反対し合うことになるだろう」
「そうならないための宰相ではないのか!ワシの代わりに秀頼殿の後見人として利家が決めるということでも良いが、少なくとも判断基準を一本化しないとどうにもならんぞ」
「...相互監視という名目で導入された現体制だが、やはり根本的に無理があったか」
「というか、提案した奉行衆がそもそも守っておらんだろう」
「家康殿が物事を決められないのであれば、秀吉殿の遺命を破ることにも繋がる。今回の問題は御掟の文面に穴があることだ。秀吉殿の代わりを誰がどう決めるのかが不明なままでは、法を盾に白黒を付けることもできん」
「というか、その条文を持ち出すのであれば、奉行衆が私的に誓詞を交わしているのはどうなるのだ。あれこそ御掟に反しているだろう。それを無視するのであれば、讒言と言われても仕方ないぞ」
「分かっている。だから某が代表となってここに来たのだ。ここで下手な揉め方をしようものなら、双方が反目しあい合議制が破綻する。加えて、今のままでは戦が起こりかねん。渡海組や若い大名連中にはこれを機に領地を勝ち取ろうとしている節もある。そうならないように落とし所を探さねばならん」
2人は頭を抱えながら意見を出し合う。
家康の行為は軽率と言われても仕方ないが、かといって五大老・五奉行の会議の場で婚姻の話をすれば、別の形で問題が起きていたであろうことは想像に難くない。
そもそも家康は秀頼の義理の祖父になる予定であり、大名たちと婚姻関係を結ぶことは秀頼の将来の政治基盤強化に繋がる。
そのような婚姻に対し拒否を突きつけようものなら、豊臣一門に忠誠を誓っている者たちが黙っているはずもなく、その結果が家康側に参陣した豊臣家と関係の深い大名たちである。
また、今回の家康を厳しく処分するのであれば、奉行衆や他の大老も別の条文違反で処罰しなければならなくなる。
家康と利家は知らないことであるが、秀吉の遺命に反して隠れて徒党を組む誓詞を既に交わしている者もいる。
今回の騒動を傍から見れば、法を破ったように見えなくもない家康を、明らかに法を破っている他の者たちが咎めているという状況であり、間に立たされた利家からすれば頭の痛い状況だった。
戦国時代では利害関係から多少の不法を見逃すことは日常茶飯事であったため、法に不備があろうとも、秀吉という権力者が決定を下せばそれに従うしかない。
しかし、合議制を導入したことによって、豊臣政権では法の解釈や意見が分かれた時に決定を下す能力を失ってしまった。
この問題は家康の私婚事件だけではなく、他の案件でもたびたび浮上し、面倒事になると途端に何も決まらなくなるという状況へと陥ることとなる。
「奉行衆の言いたいことは分かる。しかし、ワシにも言いたいことがあるぞ!あやつらはワシがいなければ万事上手く回ると考えているようだが、そんな考えをしているから敵が多いのだ。中央集権化を進めようとするあまり他家に干渉し過ぎておるし、その割に問題を起こしている上杉家などは放置したままだ!そんなことだから武断派との和解も上手くいかんのだろう」
「武断派の多くは某の派閥に属しておるが、今回婚姻した先には武断派の者も含まれておる。ここで婚姻取消しともなれば、文治派と武断派の対立が更に深まるのは避けられん。そうなれば最早抑えることなどできん」
「そう言われると申し訳ないことをしたな...」
「そう思うなら、此度の件は譲歩して貰えないか?法に不備がある以上は明確な罰は無く、ただ騒ぎを起こしたため反省し、加えて自主的に何かするという形ではどうだろうか?」
「それが妥当なところか...。では、伏見城から出て、別の城に移るというのはどうだ?曲がりなりにも政事の拠点から出ていくのだから、影響力を減らしたと言えるだろう」
「その案でいこう。それと、某と家康殿が相互に訪問し、手打ちにするということにしよう。それであれば周囲を納得させられる。移動先の城はこちらで見繕っておこう」
「よし。後は適当な交渉人を立てて話を持っていくから、大阪城内の根回しは頼むぞ利家殿」
2月5日。
交渉の末、家康が他の五大老・五奉行へ起請文を送ったことで、この騒動は何とか収まることとなった。
この騒動の結果、最終的に家康は他の五大老・五奉行と誓詞を交わすことになるが、公式には無罪放免という結果で終わる。
また、2月末に利家が家康の屋敷を訪問し饗宴を受け、後に家康が利家の屋敷を訪問する約束を取り付けたことで、周囲の者はそれ以上何も言うことができなくなった。
家康からすれば、伏見城から出て対岸の向島城へと移動することにはなったが、秀頼の後見人や五大老という地位を取り上げられそうになったことを考えれば、損害は極めて軽微と言える。
しかし、他の五大老・五奉行からすれば不満を抱く結果であり、参陣した大名たちの中にはさっさと開戦しろという者も多かったことから、この先また揉める可能性が極めて高かった。
しかし、そんな状況を一変させる事件が起きる。
家康の屋敷への訪問後に大阪城へ戻った利家だが、かねてからの病状が悪化し倒れたという知らせが届いたのだった。




