7.五大老筆頭 -6
10月頭。
家康たち上方の大名に明軍・朝鮮軍の進軍の知らせが届く。
「明軍・朝鮮軍が3方向から進軍!?今まで動いておらんかったというのに、いきなり動きだとすとは何事だ。まさか秀吉殿の死が露見したか!?」
榊原康政から報告を聞いた家康は驚き慌てる。
しかし国内に報告が届くまでには時間差があり、現地では既に交戦していることからこの場でできることなどなく、渡海組の奮戦を祈るしか無かった。
康政は慌てる家康を無視して、そのまま報告を読み上げる。
「加藤清正殿が守る蔚山城は、日本軍1万人に対し敵軍は約3万人。9月中旬に1度敵軍を追い返しており、籠城の準備が整っていることもあってほぼ守り切れる見込みと。流石、清正殿は戦上手ですね」
「過去に暴れ回ったせいで敵軍からは鬼上官とか呼ばれているらしいな。敵を引き付けるには良いが、討たれでもしたら敵軍の士気が上がって手がつけられなくなるぞ」
「今回は堅守を維持するつもりらしいので大丈夫じゃないですか。仲の悪い小西行長殿とは拠点が分かれているので、方針で揉めることもないですし。敵軍も遠くから囲むくらいが精一杯なら、兵を撤収するのも容易でしょう」
「文禄の役の際には功績を上げようと、勝手に別の国まで攻め込んだ奴とは思えんな。人は成長するものだな...」
家康はそう言いながら手元の紙に蔚山城は安泰と書き記す。
「次に小西行長殿が守る順天城ですが、日本軍1万3000人に対し敵軍は約5万5000人。こちらも9月下旬に交戦し、敵軍に大きな被害を与えて防衛には成功。築上名人と名高い藤堂高虎殿がこしらえただけはありますね。ただ、水陸両面からの攻撃を受けていることもあり、落城することはなくとも、このままでは兵を引き上げるのが困難。撤退の際には水軍だけでも追い払う必要があるので他からの援軍が必要ですね」
「それはいいんだが、行長殿が虚偽の会談で騙されかけたってどういうことだ?」
「あー、戦闘が始まる前に講和の交渉と称して会談を持ちかけられたらしいんですよ」
「ほう。でも、行長殿は過去に似たような話で騙されてなかったか?」
「仰る通りです。案の定、今回も騙されたようでして。周囲の者も最初から怪しんでおり止めたそうですが、行長殿が押し通したそうです。ただ、行長殿も会見場所に向かう途中で、伏兵に気がついて逃げ帰ったというのが事の顛末になります」
「...どうしようもないな」
「しかも話によると、敵軍はまた交渉を持ちかけてきたらしいですよ。なかなか大したものですね」
「...相手もアホなのか?それとも揺さぶりをかけているのか?」
家康は頭を抱えるが、とりあえず手元の紙に順天城には援軍が必要と書き記す。
「では最後の島津義弘殿が守る泗川城ですが...」
「ここは島津家が単独で守りに当たっているというなら、守備についている兵数は7000人くらいか。敵軍はどんなものだ?他と同じなら3万人程度か?」
「...20万人とのことです」
「.........は?」
「敵軍は公称20万人。数を盛るのはよくある話ですが...」
「やり過ぎだろ...。今の明軍・朝鮮軍にそこまでの大軍を維持する能力は無いだろうし、せいぜい多くとも4-5万人といったところだな」
「それでも兵数差はかなりありますけどね。支城は既に落とされており、後は島津家の奮戦に期待するしかありません」
「守りきれなくとも、損害を出さない内に撤退してくれれば良いが...」
「恐らく現地では既に交戦している頃かと思いますが、撤退の指示を告げる使者はまだ到着していないでしょう。そうなると防衛の要所である泗川城を簡単に捨てるとも思えません。ここが落ちれば他の拠点も危うくなります」
「同時攻勢により他からの援軍も期待できず。島津家でも屈指の猛将と名高い義弘殿に縋るしかないな...」
家康は溜息を付きながら泗川城は島津家頼みと書き記す。
「1箇所は安泰。残りの2箇所は厳しそうですが、なんとかなるんでしょうかね」
「きついな。戦線を広げていなかったおかげで防衛の準備は整っているが、代わりに後背地が乏しい。一旦兵を下げて部隊を集結させようにも、敵軍の足を止めなければそのまま攻め落とされるぞ」
「泗川城が落ちると、順天城が釜山から切り離され完全に孤立しますね。海も抑えられていて逃げ場は無し。島津家と小西家の両家大名が討ち死にしたら政権的にはどうなりますか?」
「...行長殿は宗義智と朝鮮との交渉窓口を務めた。ただ、虚偽の報告を重ねて開戦の一端を担ったことを考えれば、討たれたとしてもある意味自己責任として見なされる面がある。しかし、島津家が討たれるようなことになれば、他の大名たちもそれだけの危険を冒したと考えるだろう」
「つまり?」
「渡海組の不満が爆発する」
「その上で恩賞無しって話ですか。内乱が起きない方がおかしいですね」
「不味い、これは不味いぞ...」
撤退の指示を告げる使者が朝鮮に渡るよりも先に、明軍・朝鮮軍が軍事行動を起こすのは家康たちにとって完全に想定外であった。
家康たちは知らないことではあるが、秀吉が死んだ頃には明本国からの増援が到着しており、実際にはたまたま秀吉の死と進軍の時期が重なっただけである。
この時点では秀吉の死はまだ敵側に露見していないが、結果として明軍・朝鮮軍が攻めてくるよりも先に撤退するという当初の目論見は崩壊。
後に四路の戦いと呼ばれる、総勢10万人を超す明軍・朝鮮軍の過去最大規模の反抗作戦が始まった。
そして、現地の大名たちはまずそれぞれの拠点を守りきらなければ、撤退すら出来ない状況へと追い込まれることになる。




