6.豊臣政権の崩壊 -3
6月20日。秀次はかねてからの喘息が悪化し寝込む。
秀次には別に従医がいたが、病状の悪さに見かねた家臣が官医の曲直瀬玄朔に往診を求めた。
しかし、玄朔はちょうど体調を崩した天皇の治療の真っ最中だった。
天皇の体調が回復してきたということもあり玄朔は秀次の元に往診するが、間の悪いことに今度は天皇の容態が悪化。
これにより秀次は天皇の診療よりも自らを優先させたと見なされ、豊臣政権から関白の地位乱用の疑いをかけられる。
事情を説明するよう秀次には伏見城への出頭命令が下るが、秀次は聚楽第から離れずこれを無視してしまう。
そして、この時期から秀次が謀反を起こそうとしているという噂が広がり始める。
7月3日。秀次の元に、石田三成を始めとする奉行衆が伏見城から訪れる。
三成らは秀次の過去の振る舞いや、最近の噂などについて秀次の家臣を詰問。
秀次も対応し、謀反の疑いを否定した上で誓紙をしたためた。
7月8日。再び伏見城からの使者が訪れ、秀次に伏見城へ出頭するよう改めて促す。
秀次は伏見城へ赴くが、秀吉の会見後に高野山へと足を進めそのまま出家する。
出家は秀吉からの命令ではなく、あくまでも秀次の自発的な行動に留まる。
同日中に秀次の妻や子供が捕らえられ、11日には丹波亀山城へ移送される。
7月12日。秀次が高野山に留まるにあたっての、禁則事項などをまとめた命令が正式に発行。
これにより、秀次の出家と関白の地位喪失が周知のものとなる。
7月15日。秀次が高野山にて切腹。
高野山にて控えていた秀次の小姓衆なども殉死。
秀次の首は後日秀吉の元へ送られる。
7月20日。有力大名の連名による、秀頼への忠誠を誓う誓紙が作成される。
これは秀次の切腹に伴う諸大名などの混乱を抑えることが目的だった。
そして8月になると聚楽第や近江八幡山城の破却、秀次の遺児や妻妾、侍女らの処刑が実行される。
眷属が皆殺しになった上、秀次配下の者たちは家老6名の自死を始めとしてまとめて処分された。
特に、秀次を擁護した木村重茲は長男ともども自害を命じられ、秀吉の最古参でもある前野長泰は嫡男景定が自害を命じられたのを追って後日切腹。
奉行衆である浅野長政の長男幸長も能登に配流、増田長盛の次男盛次も秀次の家臣団に入っていたという理由で蟄居を命じられる。
三好吉房は所領を全て没収された上で讃岐に配流と、文字通り政権中枢を担ってきた者たちにも処分が及んでいる。
加えて公家や文化人を問わず、秀次と交流があった人間たちへの処罰も始まる。
財政の困窮から秀次に借金を申し込んでいた大名も多く、こういった者たちにも処罰は及んだ。
秀次の義兄弟である小早川秀秋に至っては、兄弟であれば交流があって当然にも関わらず丹波亀山領10万石を改易となる。
秀吉が関白に就任する際に支援した公家の今出川晴季も流罪となり、まさしく大粛清といった状況だった。
なお、最上義光は1ヶ月前に娘の駒姫を秀次に嫁に出したばかりで、しかも秀次とは顔合わせもしていなかったため家康なども助命を嘆願したが無視され、義光は謹慎処分を受けている。
最上家を筆頭に、この事件において徳川が助命嘆願した大名は多く、これらの大名たちが後の関ヶ原の戦いにおいて徳川方につくこととなる。




