第9話 冷たいままで
第9話を読んでくださりありがとうございます。
日常の中には、
ほんの少しの“押し間違い”や“読み違い”があって、
それがその日の気分を左右することがあります。
今回は、そんな小さなズレから始まる話です。
仕事では正確に判断できるのに、
家ではなぜかうまくいかない。
その落差の中にある、
主人公の“状態”の揺れを描きました。
皿が、冷たかった。
電子レンジから取り出して、少し触った。中心まで温まっていない。むしろ、端の方が妙に固い。
設定を確認した。
解凍、になっていた。
「......あ」
標が台所から顔を出した。
「今月四回目だよ」
「......間違えた」
「わかってる。あたためで三分、もう一回やって」
結衣はレンジのボタンを押し直した。今度はあたため。三分。扉を閉める。
モーターが回り始める音がした。
解凍は、中から温める。あたためは、外から熱を加える。どちらも温かくなる。結果は似ている。しかし状態が、違う。
≪地上の私は、状態を読み違えたまま押してしまう、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日は朝から、桐島の資料が届いていた。
先日の電話から一週間。前回より分厚い資料だった。
表紙に「SR直通区間利用促進に向けた最適化提案」とあった。
西崎が資料を印刷しながら言った。
「......今回、ちゃんと区間別データが入ってますよ。前回より精度上がってますね」
「見てから話しましょう」
資料を開いた。
確かに精度は上がっていた。SR直通区間の利用者データを月別・時間帯別に分解してあった。混雑率のベースラインも今年度のデータに更新されていた。前回の三点の問題を、桐島はきちんと潰してきた。
ただ。
六ページ目に、ひとつ、おかしな数字があった。
* * *
午前十時、電話が来た。桐島だった。
「先日の資料、修正版をお送りしました。ご確認いただけましたか」
「拝見しました」
「いかがでしょうか。今回は区間別のデータも——」
「一点、確認させてください」
間があった。
「六ページの試算で使っている乗車効率の数値ですが、
これは何を根拠にしていますか」
「......弊社の直通車両の定員をベースに、混雑率を掛け合わせたものです」
「定員は何両編成の数字ですか」
少し長い間があった。
「......十両編成です」
「SR直通区間で現在運用している編成数は何両ですか」
今度の間は、もっと長かった。
「......八両、でしょうか」
「八両です。定員ベースが十両のままだと、
乗車効率の試算が十三パーセント過大になります」
沈黙。
前回とは違う種類の沈黙だった。前回は計算が合わなくなった沈黙だった。今回は、自分が何を見落としていたかを理解している沈黙だった。
「......確認します。一点だけ、教えていただいてもいいですか」
「はい」
「今の時点で、どこを見ればよかったと思いますか」
少し考えた。
珍しい問い方だった。答えを求めているのではなく、どこを見るべきかを聞いている。
「運用記録です。ダイヤ上の編成数と、実際の運用編成数は、
ズレることがあります。今年度のSR直通の実運用記録を見れば、
すぐわかります」
「......実運用記録は、SRさんに請求すれば」
「お送りします」
「ありがとうございます」
電話が切れた。
西崎が振り返った。
「......今日、一点でしたね」
「そう」
「珍しい」
「問題が一つしかなかったから」
西崎が何か言いかけた。やめた。
* * *
午後、実運用記録を桐島宛に送った。
三十分後、短いメールが来た。
≪確認しました。編成数の誤りを修正します。改めてご連絡します。≫
たった、それだけだった。
西崎がモニターを見ながら言った。
「桐島さん、返信早いですね。しかも毎回素直だし」
「学ぶ人間だから」
「時刻さん、なんか桐島さんのこと、好きじゃないですか」
少し止まった。
「好き、ではないかな」
「じゃあ何ですか」
「......信用できる相手だと思ってる」
西崎が「あ、それ時刻さんにとって好きってことじゃないですか」と言った。
答えなかった。
モニターの中で、列車が定刻通りに走り続けていた。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰宅すると、電子レンジの前に付箋が貼ってあった。
標の字だった。
```
あたため → 右のボタン
解凍 → 左のボタン
```
二行だけ。
私は少し、その付箋を見た。
右と左。それだけの話だった。状態を読む前に、位置で覚えればいい。
「......ありがとう」
台所の奥から「うん」と返ってきた。
ソファに座る。時刻表を引き寄せる。今夜はどこを読もうか——ページをめくる手が、少しだけ軽かった。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間十九分。
* * *
次話 第10話「深夜の試算」
第9話を読んでくださり、ありがとうございました。
冒頭の“解凍とあたための押し間違い”は、
主人公が抱えている
「状態を読み違える自分」
を象徴する場面でした。
指令センターでは数字を読み、
相手の沈黙の意味まで正確に掴めるのに、
日常のボタン一つでつまずいてしまう。
その不器用さと、
それをそっと補う標の存在が、
この話の静かな温度になっています。
次話「深夜の試算」では、
仕事の側でまたひとつ、
主人公の“読み取る力”が試されます。




