番外編 結婚式当日
王宮の最奥、陽光に包まれた白亜の聖堂。
今日は、王国中が注目する婚礼の日。
王太子シリル・アルセインと、剣姫リシェル・ヴァルフォード。
かつて「猫」と「拾い主」として過ごしたふたりが、ついに人として、永遠を誓う。
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「……綺麗だ」
扉の前で待っていたシリルは、純白のドレス姿のリシェルを目にした瞬間、息を呑んだ。
赤の瞳も、銀の髪も、今日はいつもよりやわらかく見える。
でもその奥にある芯の強さは、変わらず彼女の中にあった。
「緊張、してますか?」
「……ちょっとだけ。でも、君が隣にいるなら、大丈夫」
彼女はそっと微笑み、シリルの手を握った。
それだけで、すべてが心強くなる。
そういう人だった、最初から。
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扉が開くと、荘厳な音楽と無数の視線がふたりを迎える。
誰もが見守る中、シリルとリシェルはまっすぐにバージンロードを進む。
飾りではない――“本物の誓い”を捧げるために。
列席者の中には、リシェルの父・ヴァルフォード将軍の姿もあった。
かつて感情を見せるなと教えた男が、今日だけは、ほんの少し目を細めて娘を見送る。
その視線を、リシェルは一瞬だけ振り返って受け止めた。
そして、前を向く。
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「王太子シリル・アルセイン。貴殿はこのリシェル・ヴァルフォードを、愛し、支え合い、生涯の伴侶とすることを誓いますか?」
「誓います。命あるかぎり、彼女を愛し抜くことを」
「リシェル・ヴァルフォード。貴女はこのシリル・アルセインを、敬い、寄り添い、生涯の伴侶とすることを誓いますか?」
「誓います。この先どんな日々でも、彼と共に歩むことを」
神官が静かに告げる。
「それでは、誓いのキスを」
聖堂が静まり返る。
ふたりはゆっくりと顔を向け合い、言葉もなく見つめ合った。
リシェルがそっと微笑む。
シリルもまた、優しく目を細める。
それだけで、すべてが伝わった。
唇がそっと重なる。
静かで、やさしくて、
ふたりだけの、深い誓いのキスだった。
キスのあと、ふたりはそっと額を寄せ合う。
リシェルの指が彼の胸元に触れ、心音を確かめるようにそっと押し当てた。
シリルはその手を取って、そっと手の甲にキスを落とす。
誰もが息を呑み、祝福の音楽がまた静かに響き出す。
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婚礼の余韻が残る王宮の一室。
外ではまだ祝宴の音が遠く響いていたが、ふたりが入った寝室だけは、別世界のように静かだった。
シリル・アルセインは、何も言わずリシェルの横顔を見ていた。
白いナイトドレスに身を包んだ彼女は、いつものように凛としていて、
けれど、ベールを脱いだ花嫁としての顔には、確かに“照れ”があった。
「……見すぎです」
「ずっと見てたかった。君のこの姿、俺しか知らないだろ?」
「……恥ずかしいことを、平然と……」
「もう君は、俺の奥さんだから」
その一言に、リシェルのまつげが小さく揺れる。
「……はい。そうですね。私、今日から――あなたの“妻”です」
彼女の声はかすかに震えていた。
でもその瞳は、まっすぐにシリルを見ていた。
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シリルはそっと手を伸ばす。
指先が彼女の頬を撫で、耳の下、首筋へと下りていく。
「……触れても、いい?」
「もう、聞かなくても……いいと思います」
「……やめてって思ったら、言って」
「言いませんよ」
リシェルの声は小さく、けれどはっきりと。
「だって、あなたに触れてもらうことを、ずっと、どこかで望んでましたから」
彼女がそう言った瞬間、シリルの理性が静かに溶け始めた。
「それでも、言わせて。君のすべてを大切にしたいから」
その言葉に、リシェルはゆっくりと目を閉じた。
シリルの唇が、頬に、こめかみに、耳のすぐ下に触れる。
そのたびにリシェルは呼吸を浅くして、けれど逃げはしなかった。
「ドレスの下……どうなってるか、俺だけに教えて?」
「……確かめれば、分かります」
小さな囁き。
それを合図に、指先がリボンをほどく。
静かな布音が室内に落ちると、月明かりがリシェルの肌をやさしく照らした。
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「……きれい」
「言わないでください……自分ではよく分かりません」
「俺には、よく分かる。全部が、愛おしい」
シリルの手が、慎重に、だが確かに彼女の身体に触れていく。
吐息に触れる距離で、ふたりの温度がじわじわとひとつになっていく。
やがて唇が重なり、深くなっていくキスの中で、彼女の手がそっとシリルの背をなぞった。
「……こんなに、優しくされると……」
「なに?」
「こわいくらいに、好きになります」
「それは……俺のセリフだよ」
彼女の胸元に頬を寄せ、シリルはそのままゆっくりと身体を重ねた。
「痛くないようにするから、なにかあったら教えて」
「……大丈夫です。あなたになら、全部預けられますから」
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ふたりの身体が重なったとき、リシェルは小さく震えた。
その震えを受け止めるように、シリルはそっと彼女の額にキスを落とす。
「リシェル」
「……ん」
「好きだよ。これからも、何度でも言う」
「……言われなくても、伝わります。でも、言葉でも……欲しいです」
その願いに応えるように、シリルは動きを止めず、ゆっくりと名を呼び続けた。
夜がふたりを優しく包み込み、重なるたびに心が近づいていく。
触れる。
交わる。
愛する。
どれもが初めてで、どれもが確かだった。
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夜が明ける頃、リシェルはシリルの胸に顔をうずめて、小さく呟いた。
「……次は、私から触れてもいいですか?」
「もちろん。俺の全部、君のものだから」
――それは、ふたりにとっての初夜。
静かに、甘く、そして深く。
愛が“ただの想い”から、“確かな絆”へと変わった夜だった。
朝の陽射しが、ゆっくりとカーテン越しに差し込む。
天蓋のベッド、白いシーツ。
その中で静かに息づくふたりの鼓動だけが、確かな“朝”を知らせていた。
シリルは、目を開けるよりも先に、隣にいる彼女の温もりを感じていた。
(……ああ、本当に夢じゃなかった)
彼の腕の中、すぅすぅと穏やかな寝息を立てているのは――
昨夜、愛を交わし、妻となったリシェル。
白く細い肩が、ほんの少しだけシーツの中からのぞいている。
その肌には、自分の指が触れ、口づけを落とした記憶が残っていた。
「…………」
幸せすぎて、動けない。
それでもそっと身を起こし、彼女の髪を撫でる。
銀色のさらさらした髪。
猫だった頃、顔を埋めていたあの懐かしい感触――今はもう、愛しい妻のものだ。
「リシェル。朝だよ」
やさしく呼びかけると、彼女がもぞ、と身じろぎした。
「……うぅ……眠いです……」
「昨日、がんばってくれたもんね。疲れてる?」
「……がんばったのは……あなた、ですよ……」
「いやいや、俺は途中で完全に理性飛んでたから……」
「……その通りです。びっくりしました……あんなに熱心とは……」
顔をシーツにうずめながら、ぽつりと告げるリシェルの耳は、やっぱり赤かった。
「……でも、嫌じゃなかった?」
「……むしろ、すごく幸せでした」
シリルはため息混じりに笑い、ベッドに身を戻す。
「もうちょっとこうしてよう。君の体温、今朝は特に心地よすぎる」
「……それは、私のセリフです」
「じゃあ、お互い抱き合ったまま、しばらく黙ってようか」
「……はい。でも」
「ん?」
「……たまにでいいので、“好き”って言ってください」
「……ずるい」
「我ながら、甘えてます。でも……言ってもらえると、安心しますから」
「……好きだよ、リシェル。今日も、明日も、何度でも言う」
「……ふふ。結婚して、よかったです」
「うん。俺も、心からそう思ってる」
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カーテン越しに差し込む光は、
かつての猫と剣姫にとって、まぶしすぎるくらいの“夫婦の朝”。
これから何度も、こうして朝を迎えるのだろう。
手をつないで。
名前を呼び合って。
そして、愛を重ねながら――
――その朝は、永遠のはじまり。