第3章 日常3 光
これまで徹の気持ちの中では、秋江との離婚という意識が漠然とは存在していた。だが、三人の子供達の将来の事を考える時、それが歯止めとなって、彼を実際の行動に突き動かそうとする衝動はかろうじて抑えられていた。その気持ちは、子供の父親という彼の立場からすれば当然の事であったのであろうが。
それが、ある日、それまでの徹の忍耐をずたずたに引き裂く出来事が起こったのであった。
それは何時もの様に、秋江が隆をヒステリックに喚き立てる怒声とともに始まった。
「馬鹿。お前なんか死んでしまえ。産まれて来なければ良かったのよ! お前なんか」
秋江の隆に対する言葉の暴力は、徹の目にも日増しにひどくなっていたが、近隣の住民から徹がその事について耳にする機会も多くなっていた。
隣人は徹に声を潜めて囁いた。
「お宅の奥さんはどうかしているよ。お子さんの事を犬猫の様な扱いで怒鳴りながら怒っているし、ぶってもいる様よ。すごい声で泣き叫んでいるしね。貴方は何も知らないの?。昼間は居ないから分からないとは思うけれども…。気を付けた方がいいわよ」
「…そうですか…。何分、目が行き届かないものですから。ご心配をお掛けして申し訳ありません…。何かありましたら、また宜しくお願い致します」
その日の夜だった。徹の目の前で秋江が、隆に罵声を浴びせながら手を挙げ、隆の顔を思い切り張り倒したのである。隆は、その反動でリビングの床に横倒しに吹っ飛んだ。
「おい! 何をする」
咄嗟に、徹は秋江に向かって飛び掛かった。二人とももつれ合いながら、リビングのテーブルに倒れ込んだ。
(ガタン! ドタッ)
椅子が転がるもの凄い物音と、子供の泣き声がリビングの空間に響き渡る。
「お前は! それでも隆の母親か。それが、母親が子供にする態度なのかよ‼」
徹は、はずみで倒れた椅子にもたれ掛かりながら立ち上がると、そう秋江に言い放った。倒れた拍子に膝をしたたか打った様で、右の足に力が入らなかった。
「何だって言うの⁉ 私が…。私が何をしたって言うの。これは全て隆のためなのよ。貴方になんか分からない事なのよ!」
秋江は、テーブルの下に倒れ込んだまま、徹に向かって喚き声を投げ付けてきた。
「貴方になんか…。貴方になんか分かってたまるものですか‼」
秋江は起き上がろうともせずに、そう激しく叫び声を上げている。
「狂っている。この女は…」
徹は引き起こした椅子に腰掛けながら、そう心の中で呟いていた。
「どうすればいいんだ。隆の事を…。俺が仕事に行っている昼間の間の時間を。どうすれば…」
テーブルに体を預け、徹は考えていた。隆を、秋江の暴力から救う手立てを。
「どうすれば…」
良い考えは浮かんでは来なかった。秋江はそのままテーブルの下で、何かを喚いている。
徹は椅子から立ち上がると、リビングの床の上に座って泣きじゃくっている隆の所に歩いて行き、隆の体を抱き起こした。
「よしよし。もう怖くは無いんだよ。痛かっただろうに。もう泣かなくてもいいんだよ。お母さんはどうかしていたんだよ、きっと…」
徹は隆の頭をなぜながら、彼の顔を正面から見詰めた。その唇は痛々しくも、少し切れて血がうっすらと滲んでいる。徹は隆の顔にティッシュを押し当てながら、頭の中で考えていた。
「何とかしなければ。何とか…」
徹の頭に、隣町の児童相談所の事が浮かび上がった。
「そうだ、彼女に相談してみればいいんだ。そうだ…」
翌日、徹は有給を取ると、児童相談所を訪れた。
窓口で、用件を受付の女性に話し、ある女性を呼んでくれる様に頼んだ。そして彼は、事務所の中にある小さな部屋に通された。
そこで彼は少し待たされた後、部屋のドアをノックする音とともに部屋の入り口のドアが開けられた。
「どうもすいません。お待たせしまして」
部屋に入って来たのはまだ若い女性で、胸には顔写真入りのネームカードを付けている。そこには大森和美という名前が印刷されていた。
「今日は、井上さん。お久しぶりです。今日はお子さんの虐待に関するご相談という事ですが、まったく知りませんでした。具体的にお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「大森さん、宜しくお願い致します。実は身内の事で恥ずかしい事なのですが…。貴女がここで児童相談員をしている事を思い出したものですから。実は、私の妻の長男に対する事なのですが。それは……」
徹は大森に、家での、秋江の隆に対する言動と態度について、細かに全てを打ち明けたのであった。
「…、…はい。なるほど…」
大森は、徹の言葉に頷きながら、要点を手元の調査票に記入していく。
「…そうですか、それは可愛そうですね」
彼女は時に、徹の語る言葉に大きく頷き、同情する様な視線を徹に投げ掛けながら彼の訴えを聞き進めていった。
どれ位の時間が経ったのであろうか。徹が全てを話し終えた時、大森が書き移していった徹の話で調査票は真っ黒に埋まっていた。
「まさに児童虐待ですね」
大森はしばらく調査票に目を通してから、考えている様な顔をした後、そう徹に言った。
大森は、徹とは乗馬クラブを通しての以前からの知り合いであった。彼女は今年三十歳になるが、まだ独身だった。
「隆君も可哀想ですね。奥さんとはその事について、良く話し合いはされましたか?」
「いいえ…。とても話し合いになる様な状況ではありません。口を開けば直ぐに、言い争いになってしまう様な状況でして。ここに来たのも、何とかこの状況を打開できればという気持ちがあったからなので…。頼みは大森さんだけなのです」
徹は、大森に改めて今の窮状を訴え掛けた。
「そうですね…。こういうケースの場合は、まず、奥さんの保護者としての責任能力の有無について判断する事が必要ですね。そして、次に、子供の養育責任能力が無いと判断された場合、お子さんに必要な養護措置を取ります。ただ、難しいのは、奥さんの言い分も聴取する必要があるという事で。そのため、この場で直ぐにこうしなさいという判断を下す事は出来ません」
大森はすまなそうに、徹にそう言った。
徹は出されたお茶を一口、口に含むと、湯飲み茶碗をテーブルに置きながら大森に言った。
「大森さん。私がここに来たのは、今の状況を何とかするための手立てが欲しいという、ワラにもすがる様な気持ちからなのです。それほど今の私は追い詰められているのです。隆のためにも、何か良い策は無いのでしょうか?」
徹の言葉に大森は目を閉じ、少しうつむいて考えている様に見える。その顔には、清楚な影が見えている。
「ふー」
大森は、小さな溜息混じりに目を開けると、徹の顔を見詰めながら口を開いた。
「井上さん。隆君にも一番いい方法としては、貴方が奥さんと良く話し合って今の状況を変えていく事なのですが、それができますか?」
「いいえ。昨夜の妻の振る舞いを見て、もうあの人との関係は修復出来ないと実感しました。ましてや隆の事を含めて、子供達を妻に任せる事はとてもできません。大森さん。正直に言って、私はあの人との離婚も考えているのです。もう私は、それくらいの覚悟ができているのですよ」
「……」
大森は再び口を閉じて、何かを考えている顔付きになった。
部屋の中に、暫しの沈黙が訪れていた。
徹は湯飲み茶碗を手に取ると口元に運び、またそれをテーブルの上に ” カタン ” という小さい音を立てて置いた。
そして腕を組むと、大森の顔を見詰めながら、彼女と同じ様に黙りこっくっていた。




