第2章 日常2
その日は日曜日で、徹は勤めが休みであった。
昨夜は遅くまで机に向かい、持ち帰った仕事を片付けていたため、今朝は遅くまでベッドの中にいた。
「どうしてなの…」
秋江の大声で怒鳴る声で目が覚めた。枕元の時計を見ると、まだ九時を少し過ぎたばかりの時間であった。
「何だ?」
まだ頭が眠気でぼんやりしていたが、のろのろとベッドから這い出すと、リビングへと階段を下りて行った。
「この子は、何でこうなのかしら。まったく」
リビングでは、秋江が隆を床に座らせて、何時もの調子で大声を上げている。隆は床にうずくまって、怯えた様な表情を見せていた。
「朝っぱらから何の騒ぎなんだ。また隆を叱っているのか。もういい加減にしたらどうなんだ」
「貴方は黙っていて。隆が悪い事をしたんだから。怒るのは当然の事でしょう。今の内から甘やかしたら良くないのよ」
「だからって、怒り方というものがあるだろう。こんな、隣近所にも聞こえる様な大声を張り上げて。近所に見臭いとは思わないが、隆の心というものも考えてやったらどうなんだ。隆はまだ幼稚園児なんだぞ」
「隆が…。隆が私の言う通りにならないのが悪いのよ。みんな、この子がいけないのよ。みんな…」
秋江は顔を上気させ、ヒステリックに声を張り上げた。心の中の狂気の片鱗を覗かせながら。徹は眉を潜めると、秋江から視線を逸らせた。
「この人はどういう育てられ方をしてきたんだろうか。この心の歪みは、普通では無いものだが…」
徹の心の中で、冷めた自分がそう囁いていた。
東京にいる秋江の母親が、子供が産まれるからと、手伝いにこの家を訪れた事があった。
その時の事が徹の頭の中に、今し方の出来事の様にまざまざと浮かんで来ていた。
「徹さん、大変でしょうに」
義母が徹の顔を見るとそう言った。
「いいえ、遠い所を来て頂いて。こちらこそよろしくお願いします」
徹はそう言いながら頭を下げた。
翌日の朝、義母はリビングの椅子に座り、テレビを見ていた。
「お早うございます」
徹はそう挨拶の言葉をかけた。
「お早う」
彼女はテレビの画面から視線を移さずに、そう答える。
「…」
一瞬、徹は違和感を覚えた。が、あまり気にもせずに洗面所に向かった。
キッチンでは、秋江が朝食の準備をしていた。身重の体で端から見てもえらそうな様子が窺える。
「お母さんは、何をしているのだろうか…」
徹の頭の片隅に、小さな疑問符が浮かんでいた。
「秋江の負担を減らすため、来てくれたのではなかったのか?。それなのに…」
義母がリビングから動く気配は無かった。相変わらず、テレビの画面に見入っている。
それからも、秋江の母が積極的に家事に手を出す事は無かった。彼女はリビングの椅子に座ったまま動こうともせずに、テレビの画面だけに視線を向けているばかりである。
徹が家にいない昼の間にも、義母が家事仕事をやっている風にも見えなかった。
秋江が出来ない家事は、帰宅後の徹が疲れた体ながらも片付けていた。洗濯や乾いた洗濯物の取り入れ、トイレや風呂の掃除までもを徹が一人でしていた。
「何をしにお母さんは来ているのだ。物見遊山で来ている訳でもあるまいし」
「幾ら何でも無責任過ぎるのではないのか。母親だろうに」
徹の頭の中で、義母に対する不信感が募っていた。
「やはり、親が親なら子供は子供か」
その気持ちはやがて、秋江の日頃の言動と性格にだぶって、義母を見る目に重なっていった。その意識は日増しに強まり、秋江に対する憎しみもまた、義母の姿にだぶった感情へと移り変わっていったのであった。
「畜生。何様のつもりなんだ…」
何時しか徹の心の中には、秋江の家の血筋に対する憎しみがわき上がって来る様になってしまっていた。だからだろうか、子供達、特に隆の事が余計に可哀想で、不憫に思えるのであった。
やがて、秋江は女の子を無事出産した。だが、家事をする者がいなくなり、家の中での家事一切を徹がする事になってしまっていた。義母はこれまで通り、何もしようとする気配が見えなかった。病院の秋江の面倒と、家での家事が徹の肩にのし掛かって来ていた。
「ふー。仕事を終わってきてこれでは、体が保たないってものだ。子供の面倒も見なくてはならないし。返って厄介者が増えた様なものだ。早くお義母さんには東京に戻ってもらいたいくらいだ」
徹は心の中でそう愚痴をこぼしながらも、家の家事一切を手際良くこなしていった。
そうして秋江が退院し、産まれたばかりの子供の面倒を見ながらも、家の家事を出来る様になって初めて、徹はこれまでの家事仕事から半分位は開放される事ができた。
義母は、それから数日家に留まり、子供の顔を見納めると、やっと東京の実家に戻って行ったのである。
「あの、お義母さんの態度は何だい」
ある日、言葉の遣り取りの食い違いから、徹は秋江に、ついこの言葉を投げ掛けてしまっていた。「しまった!」と、徹は心の中で思ったのだが、既に遅かった。
「何よ! 私の母親なのよ。文句があるの。可愛い孫が産まれるからと、折角来てくれたというのに。貴方に文句が言える権利があるの」
「権利って…。それは無いだろう」
徹はこれまで、自分がこの家の家事一切をやってきた事が頭の中に浮かんだが、喉元にまでこみ上げてきたその言葉をやっと腹の中にしまい込んでいた。口に出せば秋江と喧嘩になる。子供達の前で、醜い秋江との修羅場を見せたくはなかった。
徹は黙ったまま席を立つと、秋江に視線も向けずにリビングを出て自分の部屋に歩いて行った。後ろからは、秋江の何か文句を言う声が聞こえていたが、徹は気にもせずに、ただその声を背中で受け流していた。
窓の外では桜の花が咲き誇り、太陽の心地よい日射しが廊下の窓を通して射し込んでいる。高台にあるこの家の周辺でも、既に春の盛りを迎えていた。




