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霧の後に  作者: Eisei3


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第1章 日常

 「何度言えば分かるの! お母さんがいつも言っている事が分からないの? この子は本当に、何だっていうのかしら!」

 秋江がステリックに大声を上げて、長男の隆を怒っている。

 だがこれは、山本家では毎日の習慣に昇華してしまっていて、もうそれは特段珍しい出来事では無くなっていた。

 

 隆は今年、幼稚園の年長になっていた。下には同じく年少の恵と、三歳になったばかりの幸恵の二人の妹がいた。

 秋江は今年で三十四歳になり、専業主婦である。彼女の夫、徹は、彼女より四つ年上で、地元の建築会社の営業をしている。


 秋江は、隆の事が好きになれないでいた。彼が産まれてからこの方ずっと。

 「隆の事を愛せないの」

 事実、徹にそう漏らす事が度々あった。

 「自分の産んだ子供なんだぞ」

 徹はいつもそう言っては、秋江の事をたしなめていた。しかし、その秋江の隆に対する態度は、傍から見ていてもとても尋常では無いなとは感じていた。

 当然、徹は昼間、仕事で家を留守にしていた。だが、自分が家にいない間に行われている、この、秋江の隆に対する過剰とも思えるほどの仕打ちについて、隣家に住む住民の口からその生々しい様子を耳にする機会が、一度ならず間々あったのだった。

 

 「すごい声で、朝から子供の事を怒っているよね。その声に私もびっくりして、そっと様子を窺ってみるのだけれども、お子さんも大声で泣いているし。まさか、体罰の様な事はしていないでしょうがね…。私もあの大声で叱る声を聞く度に、隆君が可愛そうで」

 隣家の夫人は徹に、周りをはばかるかの様に声のトーンを落とすと、そう耳打ちをしてくれた。

 「そうですか…。何かありましたら、またこっそりと、私に教えて下さい」

 徹は、顔をしかめながらそう答えた。


 ある夜、徹は隆と一緒に風呂に入りながら、それとなく母、秋江について聞いてみた。

 「隆、お母さんはどう? 何か変わった事はない?」

 「かあか? ウーン…。別に」

 隆は首を傾げ、そう返事をした。

 「お母さん怒らない? 時々、怒ってぶったりはしない?」

 「いつも大きな声で怒るけど、僕の事ぶったりはしないよ。なんで?」

 「いいや…。何でも無いけれどもね。隆はお母さんの事が好きかい?」

 「怒っている時のかあかは嫌いだけども、普通のかあかは好きだよ」

 「そうかい。…」

 徹はそう言いながら、心の中で少しホッとしていた。 

 そして隆の体を洗ってやりながら、彼の体を見回して見ても、体罰でできた様なアザはどこにも見えなかった。

 隆は無邪気に、湯船に浮かべた青い色の船の遊具で遊んでいる。風呂場の中には白く湯気が立ち上り、隆が遊びながら時々上げる声が、浴室の中に高くこだまして響いている。

 徹はジッと目を閉じたまま、温かい湯船の湯の中に、体と心を溶かし込み漂っていた。


 秋江と徹の馴れ初めは、職場での恋愛結婚だった。事務員だった秋江は、結婚と同時に会社を辞めると家庭に入り、専業主婦になっていた。

 徹は四国の出身であったが、大学を卒業すると同時に今の会社に就職すると、この県に腰を据えたのだった。四国の実家では、長年勤めた役所を定年退職した父と、母が暮らしている。そして徹には妹が一人いるが、既に結婚して嫁ぎ、実家の家を出ていた。

 妻の秋江は東京の出身であったが、徹と同様に大学を卒業後、この会社に就職して徹と出会ったのであった。東京の実家には、彼女の両親と兄が暮らしているが、彼はまだ独身だった。


 「何で、お母さんの言う事が分からないの! 全く。お前なんか死んでしまえばいいのよ!」

 ある晩、隆のほんの些細な悪戯に、秋江がヒステリックに声を荒らげた。しかも徹のいる目の前で。

 「子供に向かって、何と言う言葉で叱るんだ! もっと優しい別の言い方があるだろう。隆が可愛そうじゃないか」

 徹は、妻が隆に言い放ったその言葉を聞くに耐えかね、彼にしては珍しく、子供達がいる目の前で秋江に向かってそう怒鳴った。

 「貴方は黙っていて。昼間は家にいないくせに。これは私と隆の事なんだからね」

 秋江は悪びれもせず、そう徹に向かって言い返す。

 「昼間いないとは何だ! 仕事に行っているのだから当たり前だろう。もっと子供の気持ちを考えてから、口を開いたらどうなんだ」

 「ほっといてちょうだい。貴方には関係の無い事なんだから…。口出しはしないで」

 「何だと! 俺は隆の父親なんだぞ。口出しをするなとは、どういう事なんだ」

 妻の言葉に、徹が重ねてそう声を荒げると、秋江はフンと横を向いてしまった。リビングのテレビの前では二人の妹達が不安げに、二人のそのやり取りを聞いている。

 「ごめんね…。何でも無いんだよ」

 顔に笑顔を浮かべ、徹は二人に向かってそう優しく声を掛けた。

 この所、毎晩の様にこうしたいざかいの言い合いが、徹と秋江の間で繰り返されていた。いつも隆の事を切っ掛けとして。正直、徹はうんざりとしていた。だから秋江の顔を見る度に、自然と溜息が心の中で洩れていた。

 ”いつからだったのだろうか。秋江との仲がギクシャクし始めたのは…”

 徹は時として、フッとそう囚われる時があった。

 

 結婚前には、秋江のこうした性格は徹には分からなかった。いや、見抜けなかったと言った方がいいのだろうか。秋江はそれくらい上手く、自分のその性格を隠していたのである。

 それを最初に気づいたのは、新婚旅行から帰った空港のロビーで秋江が見せた、ちょっとした出来事だった。

 手荷物カウンターの受付係との、些細な意志の食い違いから小さなごたごたがあった。その時に見せた秋江の言動は、徹の目には秋江が今までとはまったく違う別人として映っていた。というよりは、むしろ彼女の気が違っているのではないかと思えるくらいに、感じさせられてもいた。

 徹はこの時、正直に言って、彼女と結婚した事を内心疑問に思ったというか、ある意味、後悔の様なものが心の中に芽生えてしまったと感じていた。それは、まったくぼんやりとした、実体の無い感情ではあったのだが。秋江の心の中に潜む、別人格を窺い見てしまったという、恐怖心にも繋がりかねない感覚であった。

 だが、もう秋江と結婚して七年余りが経とうとしていたが、新婚時代から長男の隆が生まれるまでは、秋江のその別人の様な性格は、徹の前で表だって現れる事も無かったから、彼も特に気にはしていなかった。それは、多分彼が気付かない所では出ていたのであろうが、秋江はそれほど上手く、徹の前では振る舞っていたと言えるのだろう。

 

 結婚して、間もなく長男の隆が生まれた。秋江の異常とも取れる気性が現れ出したのは、この事を契機としてだった。彼女は隆が成長していく過程において、次第に隆の事を疎い始めていった。とても我が子に接する時の態度とは思えないほどの。   

 最初徹は、彼女が育児ノイローゼに罹っているのではないかと心配をしてみたりした。しかし、その答えは、秋江のこの一言ではっきりしたものとなった。

 「隆の事が好きになれないの。愛する事が出来ないのよ」


 徹は、妻と子供を連れ、四国の実家に帰省する事もしばしばあった。実家では彼の両親が、彼らを暖かく迎えてくれた。

 「隆。大きくなったな。恵も可愛くなって。元気でなによりだな」

 徹の父は二人の孫を見て、嬉しそうに目を細めながら言った。

 「秋江さんはどうだね?。子育ては順調かい」

 そう秋江にも尋ねた。

 「別に。どうって事はありませんよ」

 秋江は義父に向かって、そうぶっきらぼうに答えて見せた。

 「……」

 父と秋江の会話は途切れたまま、二人の間に気まずい空気が流れていた。

 「向こうではね…」

 徹が父との会話に割り込むと、違う話題について話を始めた。


 秋江が奥の部屋に引っ込み、父と徹だけになると、父が徹に向かって小声で囁いてきた。

 「徹。秋江さんはいつもああなのか。ちゃんと子供の面倒を見られているのかい。愛想もないし、ぶっきらぼうだしね」

 「ふー‥。そうだね、いつもあんな感じかな。特に、隆が生まれてからは、相当変わったと思うよ」

 徹はため息混じりにそう返事をした。

 「そうかい。私はあの人を好きになれないね。歳を取ってからも、あの人には世話になりたくないと思うよ。何となく心の中が変というか、言ってしまえば、狂気の様なものを隠し持っている気がするんだけれどもね」

 父は続けてそう言った。

 徹も秋江に対して、父と同じ感情を感じてはいたが、父の気持ちをはばかい、その場ではその事を口には出さなかった。ただ黙って、父の杯に酒を注いだだけであった。そして、徹も杯の酒を一気に飲み干すと、小さな溜息を一つ小さくこぼしたのだが、彼の父はその事には気がついていない様だった。


 秋江の性格は勝ち気で、どちらかと言うと傲慢なタイプである。更に言えば、男勝りの性格をしていると言えるのであろう。

 普段の生活でも、徹との間でほんの些細な事を原因として諍いを招く事が多かった。こんな時、徹の頭の中には、あの新婚旅行の時の秋江の醜態が過ぎるのだった。

 「何で俺は、この女と結婚したのだろう」

 そんな時はいつも、心の底で、誰かがそう囁き掛ける声が聞こえた。

 「何で…」

 徹の心は既に、冷め掛かっていたのかもしれない。ただ、子供達の事だけが心配で、表面上は秋江との夫婦関係を保っていたのだろうが。

 そうは言っても男と女との関係は面白いもので、秋江との間には三人の子供ができていた。もうとっくの昔に二人の関係は既に冷め切ってしまっていたというのに。


 三人の子供は徹にとって、可愛く掛け替えのないものであった。休日には、子供達を連れて家族で遊びに行く事も多かったが、そこでも、徹は子供達の気持ちを考えて、秋江と表面上はいい夫婦を演じて見せていたのであった。

 「とおと、だっこして」

 「私も」

 子供達が徹に、そうねだって甘えて来る。普段、昼間は家にいない事から尚更の事、子供達は彼に接して欲しいのだろう。秋江は子供達を甘やかす様な事は普段からしてはいなかった。むしろ、子供達には厳し過ぎたとも言える。まだ子供達が幼いというのに、年相応の接し方を子供達にしてあげてはいなかった。だから余計に子供達は徹に、甘える対象としての親として、期待を持って接したがったのではないだろうか。少なくとも徹には、そう思え、だからこそ一層子供達の事が不憫で、愛おしかった。


 「だからねえ。ちょっと聞いてよ、旦那がねえ……」

 秋江が電話口に向かって、大きな声で話をしている。相手は、いつもの女友達だった。彼女は、秋江と同い年で、既に結婚して子供もいたが、亭主の首根っこを牛耳り、酷いかかあ天下の家庭を築いていた。彼女の亭主は彼女に頭が上がらず、言われるままにされていた。だから喧嘩も起こらず、端から見ただけでは平和な家庭を営んでいる様には見えていた。

 この女友達が、裏で、秋江に余計な知恵を吹き込んでいた。だから益々秋江はつけ上がっていたのである。

 徹はいつも、秋江がこの電話をしているのを苦々しい気持ちで見ていた。それを察しての事であろうか、秋江は徹がいる事をもはばからずに、これ見よがしに大声で話し込んでいた。

 「またいつもの電話かよ。まったく、性懲りもなく。悪知恵を吹き込まれて、益々小利口になるばかりだな」

 徹はその様子を横目で眺めながら、そう心の中で呟いていた。秋江の長電話は、取り留めもないまま、まだ終わる事無く続いている。秋江の高笑いの笑い声を部屋の中に響かせて。

 徹は黙ったまま、自分の部屋へとリビングを出て行った。口元を堅く結んだまま。

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