【9】少女と、あの夏の日の
「それなら別に良いわよ」
「え…まじ?」
時は進み、夕方。
先にコンビニ弁当を購入した悠夜はレモンにそれを渡し、自室で待機するよう指示をする。
その後自身の食事も終え、花奈との対面での話となっているのだが。
「本当に?」
「ええ、まぁ見えないってのはすっごくよく分かんないんだけど、悠夜が働いてくれるのなら…。ぁーまぁでも昨日今日での話だからすんごい……何だろ。悪党が急に改心して仲間になる位違和感が凄いわ」
「誰が悪党じゃっ」
そんな感じでレモンの居住許可の承諾は得られた。
魔法についての話も案外すぐに終わっており、その内容としては「誰にも見せない事」これを「悪用しない事」の二つのみ。
もし悪用でもしようとするならば、例え息子であろうと殺す、と本気のトーンで言っていた。
何故だろう、怖いと悠夜が思ったのは見た事のない眼ーー本気の眼をしていたからだろう。
多分今後一切見ることのない目だった。
その後悠夜はレモンを呼びつけ、遅れてだが花奈の前でレモンが出来そうな範囲での家事を実演してもらった。
先ずは台拭き。
台を拭く用のタオルを水に濡らし、台を拭いていく。
その光景は悠夜からすればただレモンが、よいしょよいしょと頑張って机を拭いているだけのものなのだが、花奈が眼を丸くして「信じられない……」と声を上げていた事から超常的に見えている事なのは間違いなさそうだった。
次に洗濯機を回す。
使い方を教えるが、まぁ一発目で分かるはずもなく、レモンは俺に逐一聞きながらボタンを押していき、作動させる。
その光景もまた「本当にいるのね…」と奇怪なものを見るように言った。
実際、傍からみれば怪奇現象と大差ないものだから、並みの反応といった所なのだろうか。
次にレモンは洗濯物を畳んでみせ、掃除機をかけてみせ、最後に上がった洗濯物を花奈と一緒にベランダで干していた。
「ふぅ……レモンちゃんありがとね、すっごく助かっちゃった」
そう誰もいない虚空に向かって声をかける花奈。
その声が掛けられている人物は悠夜の隣で洗濯カゴの取っ手を両手で握りながら立っているのだが、まぁ仕方ないとレモンは言っていた。
加えて言葉を交わせられないと言うのは大層難しい事なのだとも、悠夜はこの場で酷く感じた。
なので悠夜はレモンの言葉を代行して言う。
「……いえいえ、住まわせてもらえるだけでこちらとしてはーーえ、なにっ"たぁ!」
「なになに、どうしたの?」
「……下手な声真似するなってぶん殴られた」
まぁこれは悠夜の自業自得である。
「ほんとにっ、悠夜さんの馬鹿っ」
花奈はそんな話を聞いてひとしきり笑うと、声を落ち着けてから「…改めて、レモンちゃん、これからよろしくね」とそう言った。
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
このレモンの返事と微笑みは、花奈にはやはり聞こえていないのだろう。
物には触れることが出来るのに、誰かに触れられることはできない。その上声も音も誰にも聞こえない。
触れたものが所有物として判断されれば、触れられた物は他人からは見えなくなってしまう。そんな不思議な透明人間のような少女との生活は、こうして実感の湧かないまま静かに始まった。
そして、昨日の今日で起きた劇的な変化もまた、新たな始まりでもあった。
劇的な変化、と言うのはただ同居人が増えた事以外に悠夜と花奈とがまともに喋りあえている、と言う事であり、なんならこの事が一番の変化と言えた。
ただ、まぁ何故今まで話し合えていなかったかといえば特段の理由は無かったんだろう、と悠夜は考える。
と言うのも、実はもう悠夜自身昔の心理状態からはある程度脱していたという事が挙げられた。
それはつまり、昔程誰かと会う事、話し合う事を拒絶しなくなっていたと言う事で、悠夜自身が思う程忌避感はなかったと言う事。そして話す事を容認していると言う事を示唆していた。
まぁ精神状態としては衛生的ではない状態が続いているが。
いずれにせよ、だから話しかけられれば返答に努めるし、必要そうであれば頑張って話しかける姿勢ではいた。お金をもらうときも、それを返そうと声を張ったときも、おばぁちゃんに助けを求めるときもその姿勢が表れていた。
しかし、事ここにおいて悠夜と花奈はお互いに長い期間普通に話すと言う事をしなさすぎて距離感や家族間での話題などが上手い具合に考えつかなかった。それだけでなく、両者ともだから半ば諦めて、状況はそのままに普通の会話をしようとせずに暮らしていた。
詰まる所お互い長話をする事を牽制し合っていたと言う事だ。
そんなとっつきにくさが充満する常日頃に喋らなくちゃいけないという状況を作り出したレモン。その存在によって二人の溝は半強制的に取り除かれる事となり、それにより、こうして話し合えるようになっていった。
案外関係性というものは簡単に変える事ができてしまうんだなと、それを通じて悠夜は実感する。
それから日々は過ぎ、悠夜は特訓に励んでいた。
レモンにやらないといけない、そう言われたからだ。
ただ、そうした日々を送っていると連日のハードなトレーニングが日常の主題であるかのように見えるが、実際は日中アルバイトに勤しみ、夜の空いた時間でトレーニングをしている。そのため、どちらかと言えばサイドメニューのようなものだった。
悠夜が勤めるそのバイト先というのは、ヨモギ公園から徒歩20分程度の所にあるコンビニ。居酒屋やコールセンターなど、苦手で不器用ながらも色々なバイトを転々とし、そうして最後に落ち着いたのがその店。
この店には会計ロボットが立っている為、混み過ぎなければお客さんと顔を合わせる必要が殆どなく、基本裏方の仕事で1日を終える事ができ、シフトもかなり融通を利かせてくれる。
変に堅過ぎず、居るだけで疲れてしまうような職場じゃ無い事も決め手の一つとなっていた。
そうして一年。
あっという間に過ぎた日数の中に詰まった経験の数々。その中でもやはり際立って見えるのは魔法という力。
「はぁ……」
今ではしっかり魔法の知識を身につけ、魔法の威力や大きさは初めて使った時よりも強大に、そして巨大なものに調整をする事ができるようなっていた。
また、レモンが強制する筋トレによって放置していたぶよぶよのお腹も少しずつ減っていき、それとなく割れ目が見えるようになってきていた。
こんな事が本当に魔法を使うのに筋トレをするのが必要なのか些か疑問ではあるが、レモンが強制するのだから仕方ないと惰性ながらも悠夜は筋トレを続けている。
そんな感じで何だかんだ辛い思いもするけれど楽しい一年。
変わったというより変えられた、ただの自己満から始まった生活がこんなにも順風満帆と言えるほどに膨れ上がり、順調に物事を運んでくれていると言うのは、今の悠夜自身でも中々に信じられない話だ。
でも、充実している感は否めない。
働いていない頃よりも、下手で駄目ながらでも働いている今の方が疎外感は少なかった。
頑張れている気がした。
社会に近くなった気がした。
顔は見えないけれど、それでも良かった。
負担を軽減できるようになったから。
ただ、それと共に悠夜はレモンと出会う1年前から思っていた『変わりたい』という願いが簡単に叶ってしまっている現状に幾ばくかの恐怖を抱いていた。
上手く行きすぎて怖かった。
順調の二文字に集約してしまう生活が怖かった。
良い事には悪い事がついてくる、それが鉄板だからだ。
まぁとはいえ、何れにしてもそれはただの感想で、なんの根拠もないもの。恐れるだけ無駄なのは分かってる。
けど、しこりは消えないものだ。
結局そんな感想文を誰かが親身に聞いてくれるわけでもなく、今日も今日とて今日という1日が始まる。
(うしっ…行くか)
レモンと出会って1年程が経った平穏な日常の1ページ。
クーラーが良く効く、2046年の夏の日。
玄関のドアを開けるだけで直撃する熱波。
やはり今年も暑さは相当キツイものになりそうだった。




