愛果ナイトメア
一体――どこで外れてしまったのだろう。
一体――何を間違ってしまったのだろう。
一体――どうすれば、よかったのだろう。
僕はただ、彼女の傍にいたかっただけだったのに――。
◇◇◇
「……ん……七芽くん、起きて」
「ん……あぁ……」
誰かの声が聞こえて、身体の揺れを感じた。
目を開けると電子的な光りが嫌と言うほど視界に差し込んでくる。
暗闇の中を照らすそれは、パソコンの液晶画面からのブルーライトであり、残業途中であったことを思い出す。
「しまった……まだ終わってないのに……っ」
デスクトップ右下の時刻を確認すると、深夜一時をまわっている。
数年前からかけた始めた黒縁眼鏡を指で上げて、急いでまた作業を再開させようとした――その時、再び声が聞こえた。
「七芽くん、大丈夫……?」
「あ、ああ……結香いたのか。ごめん、気付かなかったよ……」
右隣を見ると、そこには結香が立っていた。
高校生時代は小柄で可愛らしい印象が強かった彼女も、今ではその可愛さの中に大人としての落ち着きや色気が備わり、とても魅力的な女性となっていた。
ついこないだも、結婚した有名人ランキングで一位に選ばれたばかりだ。
とても綺麗で美しいはずのそんな彼女の顔は、陰を見せ、あまり優れない表情をしていたのが分かった。
「結香、体調でも悪いのか? それなら早く帰って休んでくれ。それと明日は七時からスタジオ入りだから遅れないようにな」
僕はそれだけを伝えると、再びキーボードを叩き出そうと手を伸ばす。
しかしその手に、結香の手が乗っかり止める。
「体調が悪そうなのは七芽くんの方だよ。本当に大丈夫なの……? なんだか前よりもやつれたように見えるけど……ちゃんと食べてるの? 睡眠も十分にとってる?」
「食べてるし寝てるよ。大丈夫だ」
カップ麺やコンビニ弁当ばかりとはいえ、毎日ちゃんと食べてるし。
睡眠だって一日四時間は寝て、合間に昼寝までしている。
コーヒーやエナジードリンクなどを手放せないが、それでも業務に支障をきたすよりはマシだった。
「僕の事は大丈夫だから、結香こそ身体を休めてくれ。仕事に穴が空いたら、それこそ無駄な損失に繋がるからな」
「っ……ごめんね、七芽くん……こんなことになって……」
身に覚えのない結香の謝罪に、僕は首をかしげると、ポキっと音が鳴った。
「一体何の話だ?」
「愛果に……負けて……」
結香は顔をしかめ、そして腕をさすりながら震え出した。
「私が……ライブに成功していれば……せめてステージで倒れさえしなければ、こんなことにはならなかったのに……」
「もう全部終わったことだ。とっくの昔にな」
僕らは愛果に負けた。
その結果、僕は当初の約束通り、黒波墨汁との契約に則って9673プロダクションに在籍してアルバイトとして働くことになった。
雑務から始めさせられて、高校卒業後はどうにかして正社員にまでなることができた。
今現在ではプロデューサー業をしながら、事務所に所属する様々なアーティストやアイドルのスケジュール管理や雑用仕事などを行なっている。
結香は結香で、その後も9673プロダクションに在籍し続け、現在ではアーティスト兼、女優として活動をしていた。
確かに勝負には負けてしまい、毎日激務を追われる身となってしまった僕だったが、それでも唯一救いだったことがあった。
結香の傍にいられるということだ。
今では手の届かない遙か上の存在となってしまった彼女だが、それでもこの職種に務めていれば、少しでも彼女の傍にいられる。
凡人の僕でも、彼女との関わりを失わずに済む。
それだけで、僕にとっては十分だった。
それにもう、僕も結香もただ無邪気に遊んでいられるだけの子供なんかじゃない。
お互い立派な大人であり、やらなければいけない仕事がある。
僕だってまだ今日中に終わらせなくちゃいけない入力が残っているし、結香に関してはもっと忙しい。
テレビに出ていない間でも、現在主演中のドラマの脚本を覚えたり、他の番組の台本をチェックしたりしなければならないし、そもそも睡眠時間が短ければその美しい顔にも支障をきたしてしまう。
今こうして僕と話している時間も、彼女にとっては大きな時間の損失に繋がりかねない。
「とにかくもう帰ってくれ。そうしないと社長にドヤされる」
「……分かったよ。そうだ、七芽くん。こんな時間だしお腹空いてないかな? よければでいいだけどこれ食べ「■■■■■」
「!」
結香の言葉を、黒いノイズのような笑い声が覆い隠した。
驚いた結香は、瞬時に顔を振り向かせると、視線の先――事務所の扉前には、黒い影が浮き上がり、その中から真っ白な顔が現れた。
「はろーぉ、お兄ちゃん♥ まだお仕事終わらないのぉ?」
「愛果……っ!」
愛果はそのスラリとした身体を、曲線を描くようにして壁にもたれかからせながら、僕に対して手を振る。
当時あった時の幼げな印象はとうの昔になくなり、今彼女を形容するのならば――酷く美しい。
光りすら通さないのではないかと思わせる程暗い深淵の髪の中には、それとはあまりにも対照的なほど白い肌の顔が怪しく写る。
闇に照らされた目は、歪み。鮮血色に染まる唇は、三日月のように裂けて笑っていた。
その不気味なまでも魅力され、今現在でアイドル活動を続ける愛果の人気は凄まじかった。
そんな彼女も、現在では十六歳。
皮肉にもそれは、僕らと愛果が初めて遭遇した歳と同じだった。
結香は愛果の前に立ち塞がるように移動して、僕の視界を覆い隠す。
まるで僕と愛果の視線を合わせないように。
だが――、
「なにしてるのかなぁ、お姉ちゃん?」
気がついた時にはもう、愛果は僕の直ぐ近くに立っていた。
「っ!? 七芽くんから離れろっ!」
「そう怒鳴らないでよぉ。私はただお兄ちゃんを、プロデューサーを迎えに来ただけなんだからさぁ♥」
結香の怒号などどうでもいいとばかりに、愛果は僕の座る椅子の後ろから手を伸ばし、手を僕の身体に這わせて、その真っ白な顔を僕の耳元まで近づける。
「ねぇ、もう帰ろうぉ。大丈夫だよぉ、こんな仕事なんて明日に回しちゃえばいいでしょ?」
「明日中までだから残業してるんだ。愛果こそもう帰れ、未成年が出歩いてていい時間帯じゃない」
「どうせ今日もお兄ちゃんのアパートに泊まるからいいのぉ。ほら早く帰って、いつもみたく愛果を愛してよぉ、お兄ちゃん♥」
「っ!? それは一体……どういうことなの……?」
結香はの表情が一気に驚愕のものにへと変わり、愛果はそれを予想してたかのように、酷く歪んだ笑みを飛ばした。
「あはぁ♥ ヤだなぁ、お姉ちゃん。大人なんでしょぉ? なら大人の男女が愛し合う意味くらい分かるよねぇ♥」
「っ……まさか……そんな……っ!」
「愛果……結香には言わない約束だったはずだ……ッ」
「あっ、ごめんごめん、つい口が滑っちゃったよぉ♥」
僕の怒気を強めた言葉も、後ろの愛果は何の悪びれもせず冗談めかしたような口調で謝罪の言葉を並べるだけだった。
「でも大丈夫。もうこれで口を滑らす必要もなくなったぁ……♥」
「愛果……ッ!」
「一体、いつから……なの……?」
結香は呆然と口を開けて、そんなことを聞いてきた。
僕は急いで愛果を止めようとしたが、何故か身体に力が入らず、口すらまともに動かない……。
やめろ、それ以上の結香に聞かせないでくれ――!
その願いも虚しく、愛果はさぞおかしそうにその真実を口にした。
「あれはお兄ちゃんがここに働きだした頃だから――初めては私がまだ十歳の頃だったかなぁ……♥」
「うっ!?」
結香は口を押さえて、思わずむせかえりそうになっていた。
足は曲がり震えて、今にも崩れ去りそうなる。
愛果の言ったそれが、あまりにも禁忌的で、背徳的で、そして彼女にとって耐えがたい真実だったから。
「あはははぁ!♥ またあの時みたく倒れるのぉ? お姉ちゃん♥」
「愛果……ッ!! あなた……ッ!」
「あはははぁ、本当のこと言われて怒っちゃったかなぁ? でも――」
「!」
愛果はいつの間にか結香の顔の傍に近づいていた。
音もなく、突然現れたように。
「あなたが私に負けたのは事実だよぉ。お兄ちゃんがこうなったのも全部あんたの所為」
「くっ……ううぅ……ッ!!」
「さてと、仕事も終わったことだし、帰ろうかぁ。プロデューサー」
「……全部入力が済んでる……?」
パソコンを見ると、僕が先ほどまでやっていた仕事がいつの間にか終わっていた。
「喋ってるついでにやっておいたんだよぉ。確認してもいいけど、時間の無駄だと思うよぉ?」
愛果の言うとおり、入力しておかなければならない項目は全てを埋まり、書類は完璧に完成していた。
一体、いままでの会話の最中、どこにそんな余裕があったというのだろうか。
恐ろしげに愛果を見る僕に、彼女は怪しく優しく微笑み。
「さぁて、行こうかぁ、プロデューサー……お兄ちゃん……ううん、七芽ぇ……♥」
愛果に流されるまま、なすがまま、僕は立ち上がり荷物をまとめる。
まるで何かの意志に動かされるまま。
そして気がついた時にはもう既に、事務所の外から出てしまっていた。
結香の横を通り過ぎたことすらも、気がつかないくらいに。
「待ってっ! いかないで! 七芽くんっ!!」
もう結香の声は聞こえない。
もう誰の心とも繋がれない。
僕という人間はもう、どうしようもないくらいに、愛果という黒く甘い蜜で深く満たされてしまっているのだから。
等々次で、アフターストーリーは最後となります。
今回は暗かったですが、その分次回はハッピー全開で行きたいと思います。
次回『七芽ハーレム』は、2019年5月20日の夜7時を予定しています。
質問回での質問を募集中です!
感想覧に、【質問】と明記して書いてくだされば、質問回時に七芽たちがお答えします。




