上野駅
「穂高。上野駅に着いたよ。」
「え、松本さん。」
あの旅行者は、苗字を松本といった。名前は広高といい、ようだ。そう緑の電車の中で聞いた。彼の妻は愛花とも車内で聞いた。いまは名古屋やら岐阜までやはり青春18きっぷで出かけているらしい。
「松本さん、じゃなくて、名前で呼んでもらっても別にいいよ。たしかに俺は松本だけどな。」
—まもなく上野、上野、終点です。地下鉄線、京成線、山手線、京浜東北線、宇都宮線、高崎線、新幹線はお乗り換えください。—
それで寝ぼけていた頭が漸く覚めた気がする。ここから京浜東北線に乗り換えて東京、中央線で高尾、甲府、小淵沢、松本、大糸線で豊科と行くらしいが、まだまだ遠いなあ。どうやら二百キロメートル以上離れているようだ。甲府ですら百キロあるが、それでも半分未満なのだ。
この上野駅というのは、東北本線、常磐線、信越本線、北陸本線といった北方に向かう路線のターミナル駅である。駅前にはしょっちゅう全国に向けて報道される上野動物園もある。ただ、穂高はときわに向けて延びる路線の沿線に住んでいたはずなのに、行ったことがないという。存在すら知らなかったらしい。
「穂高って、もしかして東京都にすみながら、ほとんど外の世界を知らなかったのか。」
「強ち間違いじゃないよ。なかなか学校以外に外に出て行けなかった。とても貧乏で、食事も玄米に漬物しかなかったの覚えてる。あと、学用品もまともに買ってもらってなかった。見るに見かねた校長先生が、一万円分の鉛筆、ノート、消しゴムをくれたほどだった。本も買ってもらえないから、やはり校長先生が毎年百冊の小説を買ってくれた。貸し切りの電車やバス代が払えないから、遠足なんか行ったことがないし、一駅分のきっぷも買えないから、最寄りの駅から十キロも離れた大型のショッピングモールまで徒歩で往復したほど。で、大型のピザやハンバーガーをこれでもかと食べる。それが二日分の食事と見做されてたから、食事なんかは毎日給食を十杯おかわりしてなんとか腹を持たせていた。」
――広高自身はそんな生活苦は味わったことがない。ここまでの道を味わった子どもがいること自体、彼は知らなかったのだ。
北へ向かう鉄路を電車が行くなか、彼は資本主義社会のあり方を考え直さずにはいられなかった。なぜ「金持ちの金持ちによる金持ちのための政治」というものがあらしめられているのだろうか、と。
広高は愛花に電話して聞いてみた。
「今連れて来てる男の子が壮絶な過去を背負って生きてきたそうだ。具体的には、食事代がギャンブルやパチンコ、タバコや酒に消えるから、学用品や小説もまともに買ってもらえず、校長先生に買ってもらっていたそうだ。」
「え、そんなに貧乏だったの?」
「初乗り運賃のきっぷすら買えないほどまでに困窮していているのに、賭博に金使うから食事がご飯と漬物、以上とか。」
この事実は、愛花にまで響き渡った。