移住の翌日
穂高が豊科に到着した次の日は、広高とともに市役所に行った。茨城県からの転入届けを出して、さらに家庭裁判所に改名の申し立てを行った。「鈴木 穂高」と書いた小学校のカラーテストや文集、夏休みの宿題があったのが幸いした。読書感想文の名前も、穂高と書いてある。これを理由の一つにすることにした。また、王様という名前のままだといじめの元凶となることも挙げた。
続いて、転入予定の小学校に向かったが、校長から学校内の紹介があった後、来週から学校、と言われて慌てて地元のショッピングモールに不足する文房具類を揃えに行ったのだった。そしてそこには、同級生となる予定の子どもたちが仰山いて、同じような要件で来たのであろうか、「新学期、足らないものないの?」などと父が子に聞く姿が垣間見えた。穂高は、ノート十冊、絵の具などを担いで家にもどったのだが、直後に偶々付いていたテレビには、彼の妹の姿が映っていたのだ。富山市内の特集だった。どうやら妹は富山駅まで上越新幹線、特急はくたか(在来線のもの。ほくほく線、北陸本線経由である。)を乗り継ぎやってきた、と言っていたし、名前も「姫冠」ではなくなっていたはずで、北アルプスの向こうに住み、やはり新たな生活をする我が妹をついつい自分に重ね合わせてしまった。
あの日、僕の家族は全員違うところに住むことになった。信州、富山、千葉、茨城とばらけた具合だが、富山の妹はもう二度と会えるときは来ないと思って、わずかながら涙した。
「偶然に期待すれば良いじゃないか。」と広高が励ましてくれたのが、せめてもの救いだろう。
この話の舞台は今から五年前、2014年の夏の時点で、このときはまだ北陸新幹線がなく、まだ北陸本線が直江津まであったころです。したがって、穂高の妹はときわ路から富山市まで越後湯沢、直江津経由で行きました。この妹の話はいつか詳述したいと思います。




