陸
バイトを終え、帰路についていた雅は、少し薄暗い道を歩いていた。福嗣駅から少し、南へと下っていく。
――…………っ
雅は歩きながらも、うしろを気にしていた。
バイト先のコンビニを出てから、しばらく歩いていると、ところどころで自分を見ている視線を感じていたからだ。
雅はすこし歩みを早めた。
すると、その気配は、雅の歩みを追うよう歩みを早める。
普通なら、雅とまったく関係のないなら、雅を追うようなことはしない。
明らかに自分に用事があるのだろうと思った雅は、あまり人が隠れる場所がないところまで歩くと、その歩みを止め、
「なんかオレに用事ッスか?」
と、うしろを振り返り、気配にたずねた。
「…………っ!」
突然そう訊かれ、気配はその場を逃げようとした。その瞬間――
「逃げても無駄ッスよ。オレ、本気出したら結構速いッスから」
目の前に現れた雅を見て、気配はギョッとし、バランスを崩すと、その場に尻もちをついてしまう。
「お、お前……最近女子高生を捕まえて、ハメ撮りしてるだろ?」
雅はそう言われ、怪訝な表情を浮かべる。口調からして男性であったが、目の前の男性に、雅は見たこともきいたこともない。
まったくの赤の他人であった。
「なに云ってんスか? そんなことするわけないんだけど」
「じょ、冗談言ってんじゃネェ! お前が車に乗せて山奥のプレハブ小屋に連れて、その場でレイプしているっていう目撃証言があるんだよ」
雅は更に眉をしかめる。まったく思い当たるフシがない。
「だけどその目撃証言って、誰かが見ていないとわからないッスよね?」
至極もっともなことを言われ、男性はギョッとする。
「オレがその女子高生を車にむりやり乗せ、山奥にあるプレハブ小屋まで連れて行き、そこでいかがわしいことをしていたのなら、それを目撃している人間がその周辺にいないとダメってことになる。だけどそれってオレがそれを実行していることを知っているか、その現場を見ていないといけないんじゃないッスか?」
雅の推考を聞きながら、男性はスッと立ち上がると、ポケットに手を差し出す。
…………その一瞬だった。
「くっ?」
男性はうしろからの殺気を感じる暇さえ与えられず、グゥと唸った。
雅が一瞬でうしろに回り、男性の腕と首を絞めたのである。
「もうひとつ聞いていいッスか? オレがバイト先のコンビニを出てからずっとつけてたッスよね? ってことはオレが上がる時間を知っていないとそんなことできないんじゃないッスか?」
「…………」
男性はだんまりを決める。雅は掴んでいた腕の強く掴んだ。
「うぎゃぁっ!」
男性は悲鳴を上げ、その痛みから逃れようとする。
「あんた、さっきなにを出そうとしたんスか?」
「お、俺は頼まれてやったんだ。お前を襲うようにって」
それを聞くや、雅は唖然とする。
「誰がそんなことを?」
「それは知らねぇ。俺はお願いされたんだ。最悪抵抗するなら銃を使っても構わないって」
「…………」
雅はすこし黙りこむ。
「へっ? 銃を持っているって聞いた途端怖気づきやがったか……」
男性は不敵な笑みを浮かべる。
「もし、その銃でオレを撃ったとして、あんたはどうなるか考えたことあるんスか?」
「はぁ? 知らねぇな……まぁ俺はすぐに逃げて、拳銃はどっかに捨てるだろうな。もちろん指紋はしっかり拭きとって、東京湾の彼方に放り投げ……んぎゃぁあああああああああっ?」
男性は突然、この世に感じることのない痛みを感じ、悲鳴を上げた。
そして自分を刺す視線を感じたが、そちらを振り向くことができない。
「あんた、自分がどうなるか考えもしないで、そういう危ないものを使おうとしたんスか? てめぇが殺される覚悟もしないで、人を銃で撃とうとしたんッスかっ?」
雅は……人を殺しかねないギリギリの強さで、男性の腕を絞め上げた。
「――あぁがぁっ!」
その傷みに耐え切れず男性は悲鳴を上げ、気を失う。その股は生暖かく濡れていた。
「……ったく――」
雅は男性を絞めていた手を放すと、男性のズボンのポケットを探る。財布を手に取ると、その中身を見た。
別に盗むためではなく、男性の身元を調べるためである。
――光明寺龍彦……まったく聞いたこともない名前だな。
雅は男性……光明寺の財布を彼のポケットに直すと、顔を叩き目を覚まさせる。
「う、うぅん……」
目を覚ました光明寺は朦朧とした目で雅を見る。
そして目の前に雅がいることを気付くや、飛び上がり、その場を逃げ出した。
「ちょ、聞きたいことが――まぁいいか」
逃げていく光明寺を呼び止めようとしたが、すでに光明寺は目の届かないところまで逃げており、雅はそれを追いかける気にもならず、途方に暮れる。
――それにしてもいったいどういうことだ? 誰かがオレに罪をなすりつけようとしたってところはたしかだろうな。
考えても埒が明かないと思い、雅は自宅へと帰っていった。
それから十分ほど歩くと、何十年も建っているような古い木造アパートが雅の目に入った。
そのアパートの大きな門の脇に『□ーポ・□な□□』と、ところどころ文字の掠れがあり、かろうじて読める文字はほとんどなかった。
雅はそのアパートの階段を上がり、二階の隅の部屋の鍵を開けると、真っ暗だった部屋に明かりを灯した。
「ふぅ……」
雅は自分の部屋に入ると、制服から部屋着に着替え、キッチンの方へと入っていく。そして冷蔵庫の中を確認し、豚肉ともやし、冷凍していたご飯を取り出し、調理を始めた。
料理を完成させると、それを居間のちゃぶ台に持って行き、テレビを見ながら、遅い晩食をはじめた。
「それにしても、今日は不思議な日だったなぁ」
雅は帰宅中に襲ってきた光明寺のことを思い出す。
「ぜんぜん会ったことすらない人に襲われるって」
億劫な気持ちになり、雅はためいきをついた。
テレビでは発見された水槌杏子の事件について話をしていた。
『警察の発表では、被害者は山奥にあるプレハブ小屋に連れていかれ、その場で殺されたのではないかと』
キャスターの言葉に、雅はどこかで聞いたことがあるなと感じる。
「これかあの男性が言っていたことってのは……っても、まったく思い当たらないから、なんとも――」
雅はふと言葉を止める。そして振り返ると、そこにはスーツ姿の男性の姿があった。高山信である。
「――いつからいたんスか? 高山さん」
「お前が帰ってきた時にな」
高山は淡々とした口調で言い放つ。
「あんた、人の部屋に勝手に入ってなにやってんスか? 今家にはオレしか住んでないから大丈夫ッスけど、もしおふくろが家に居たらどうするつもりだったんスか?」
「うむ。しかし今日は妙な目に遭ったようだな」
「もしかして、見てたんスか?」
雅は驚懼するように高山に詰め寄った。
「お前には人とは違う力があるからな、こちらとしてはお前の身になにかがあっては困る」
「……まぁ高山さんがおふくろの昔からの知り合いで、オレのことを頼まれているってのは知ってますけど、それじゃぁ部屋の電気を点けるくらいのことはしてくれないッスか?」
「ふむ。今度からはそうしよう。もっとも家庭の事情を知らぬ家主はお前がなにかよからぬことをしていると思っているようだが」
高山にそう言われ、雅はためいきをつく。
「あの新しい管理人、おふくろを見たことがないからオレが一人で暮らしていて女の子を連れてよからぬことをしてるんじゃないかって陰口を言ってるらしいんスよ。大体そんなのいるわけないじゃないッスか」
高山は愚痴をこぼす雅を見遣る。
「ところでお前に聞きたいのだがな、四月一日はたしかバイトのシフトが入っていたな。その日の晩、店長である水妹慶太はなにをしていた?」
「なにをしていたって、店長はいつもどおり店の売上とか、仕入の確認とかのデスクワークをしていたッスよ?」
雅はどういうことだろうかと首をかしげた。
「その日、お前になにか言っていたか?」
「いや、特になんも言ってないッスね」
その時のことを思い出しながら、雅は口を動かす。
「あぁ、そういえばなんか店長のスマホがオレの勤務中に鳴ったのを思い出したんすけど、その後店長、どこかに出かけていったッスね」
それを聞くや、高山は険しい目を向けた。
「どこに行ったのか聞いたか?」
「いや聞いてないッス。特に気にすることじゃなかったスから」
「口止めをされていたかは」
「ですからなかったッスよ。あぁそういえば入学式の時に強盗が遭ったんすけど、実況見分でしたっけ? 普通だったら長くやるだろうなと思って、その日は休もうかと思ったんスけど、早く終わったみたいで、店長から出勤の催促があったんだった」
雅の言葉に、高山は違和感を覚える。
「それはどれくらいだった?」
「そうッスね。入学式の片付けが終わったのが午後二時くらいで、仕事入りが午後三時にシフトを入れてたッスから、急いでバイト先まで走っていたら人集りができてて、様子を見てると強盗事件が起きていたんすよ。その犯人が捕まって、実況見分があるだろうと思って、しばらくそこら辺をウロウロしていたら、店長から電話があって店に戻ったんス。たしか午後五時くらいに電話が来てたッスね」
――早過ぎるな……普通なら強盗の被害が遭ったとすれば、警察による実況見分や被害の確認に早くても一時間はかかるはずだ。
「雅、お前に電話をしてきた水妹慶太は、その時のことをなにか言っていたか?」
「特に強盗の話はしませんでしたね。というか話題になってもいいのにあまり誰もしなかったんスよ」
雅は怪訝な表情で言う。それを見て、高山は小さく笑みを浮かべた。
「なるほどな、その場にいなかったからお前は聞いていないということか」
「どういうことッスか?」
「私はある事件の調査で、その水妹慶太を調べていたんだ。四月一日に起きた水槌杏子の殺害容疑として水妹慶太の近辺調査を調べていたのだ」
「――って、それって守秘義務とかどうなんスか? 赤の他人のオレに言うことじゃないと思うんスけど?」
「いや、お前にもすこし関係がある。先ほどお前を襲った男性の言動を覚えているか?」
「オレがなんか女子高生をレイプしたとかなんとか?」
「実はな、その被害者である水槌杏子の遺体が発見されたのは四月八日だ。衣服が乱れ、彼女の下着がそのプレハブで見つかっている。遺体は近くの雑木林で発見された。――死後一週間以上経った状態でな」
それを聞くや、雅は激憤の表情を浮かべた。
「高山さん、もし――もし店長がその事件の犯人だとしたら」
「水妹慶太には完璧なアリバイがある。警察が供述した時は海外に出ていたというアリバイだ。しかしお前に話を聞いて確信した」
「店長が海外にって、その日は店長電話で呼び出されるまで店にいたッスよ」
「だが、警察がそれを聞いたことはあったか?」
聞き返された雅はすこし考えると、首を横に振った。
「そういうことだ。それからこれは私の部下の知り合いに調べてもらったことだが、今度の市長選挙の時に出馬する坂本曜生という男には黒い噂があってな――演説のさい、何人かのサクラを雇って、街頭演説の盛り上げを促させ、自分に投票させようとしていたそうだ」
「……それって反則になるんじゃ? ――もしかして、店長がやったっていう事件に警察が調べなかったってことは」
「あぁ、水妹慶太と坂本曜生はつながっているということになる」
雅はテレビの電源を切ると、壁にかけていた革ジャンを羽織る。
「どこに行く?」
「高山さんを疑っているわけじゃないッスけど、もしその話が本当だとしたら、直接店長に訊かねぇと奥歯にササミのカスが挟まったみたいでイライラするんスよ」
雅はそう言うと、部屋を出て行った。
その時に見せた雅の目を見るや、高山は彼を呼び止めようとはしなかった。
――さて、彼になにができようか……あの二人の血を持った彼なら、この案件、解決の糸を掴みとるやもしれぬな…………。
虚空を見上げながら、高山は不敵な笑みを浮かべる。
――しかしあやつの目は、たとえ相手が権力を持った人間だとしても、悪を赦さないというあの男のまっすぐな目であったな。