肆
羯磨の遺体が発見されたその日の朝、都内の一角にあるちいさなマンションの一室で一人だけの、賑やかな声が響きわたっていた。
「ちょ、遊火っ! 起こすの遅いよっ!」
髪を整える暇さえ与えず、パジャマから制服に着替えながら、湊は自分の頭上を、申し訳ない気持ちと焦燥といった複雑な表情で浮かんでいる遊火に言い放っていた。
「ちゃんと時間通りに、六時半くらいに起こしてって言ったのに、なんで起きた時間が七時前なの? 揺すって起こしてくれたっていいでしょう?」
「お、起こしていましたよ。だけど湊さまちっとも起きなかったじゃないですかっ! そもそも私は物や人に触れないんですから、揺すって起こすなんてことできないの解かってお願いしていたんじゃないんですか?」
湊の母親が、あきれた表情で二人の口喧嘩を見るや、遊火を手招きする。
「なんでしょうか? 皐月さま」
「ちょっと遊火、まだ話が終わってないよっ!」
遊火は湊の怒りを背に受けながら、皐月のほうへと近寄る。
「…………」
「えっ? そりゃぁ昔からその時間に起きていた皐月さまなら不思議じゃないでしょうけど」
「ちょっと、ママさんっ! 遊火と何の話してるの?」
「あ、あのですね湊さま……皐月さま曰く、自分から起きようって気持ちがないから寝坊するんだって」
「うぐぅっ!」
皐月にそう言われ、湊はたじろぐ。
「それと人に頼む前に、携帯で目覚ましの設定をしていればよかったんじゃないかって、夜中遅くまで起きてるから……」
「あぁもうっ! バスの時間に間に合わないから、あたしもう行くねっ!」
湊は椅子に置いていた学校の鞄を手に取ると、逃げるようにリビングを後にする。その時、ふと思い出したように皐月の方を一瞥するや、
「あ、そうだ。今日の帰り、部活が終わったらちょっと稲妻神社に寄ってくるね。昨夜、聖子おばちゃんから新しいVRゲーム買ったってメールにあったから」
と伝えた。
「…………」
皐月は遊火に声をかける。遊火は皐月に湊の言葉を伝えた。
「…………」
「わかってます。遅れるようなことがないように見てますから」
それを聞いて、皐月はちいさくうなずいた。
「大丈夫だよママさん、門限は守るし、遅くなる時はメールするから。最悪、白ねぇに送ってもらうからさ――ほら遊火早く行こう」
湊はそう皐月に向かって言うと福嗣高校へと出かけたが、皐月にはその声が聞こえてなどいなかった。
湊が慌ただしく出かけていった後、皐月は手を付けられていない湊の朝食を片付けていた。
味噌汁は鍋に戻し、ご飯と焼き鮭は、昼食にチャーハンでも作ろうかと考え、それまでのあいだとして冷蔵庫にしまう。
「それにしても毎朝のことながら賑やかね。あんたが湊と同じくらいの時は静かで落ち着きがあったけど」
現れた毘羯羅が、あきれた表情で皐月に言う。
「私、湊と同じくらいの時は目覚ましとか使ったことなかったし、今でも気付いたら午前三時くらいに目が覚めちゃってるよ」
「まぁ、あんたは結婚して忠治と暮らし始める前までは、夜十時に寝て、午前三時くらいに起床していたのが当たり前だったから身体が慣れちゃってるのよ。まぁ今でも、忠治の帰りを待ってて、気付いたら椅子に座ったまま寝ちゃってるけど」
毘羯羅はクククと含み笑いをする。
それを見て、皐月は膨れっヅラになり、毘羯羅を睨んだ。
「でも、あの子は理解しているから大丈夫だけど、やっぱり耳が聞こえないっていうのはなにかと不便みたいね……私や遊火みたいに人ならぬものの声が聞こえたり会話はできるっていうのに」
それを聞いて、皐月は苦笑を浮かべる。
「まぁそれはしかたがないかな。あの時みんなが止めてるのわかってるのに、私の勝手なワガママで湊を自然分娩で産んだから。もしあの時みんなの言ってるとおり、帝王切開にしてたら安全に、なんの障害もなく産んでいたんだろうけど、でも私は自然分娩の方を選びたかった」
皐月は自分のお腹を擦りながら言う。
「もちろん帝王切開が悪いなんて思ってないよ。でも子どもを産むなら自然に、お腹を切って取り出すより――自然の、本来の方法で産みたかったから」
「昔あんたに水子を取り憑かせたっていう間宮理恵の願いでもあったのかしらね?」
「それはわからないけどね。まぁその代償がこの奇妙な障害だけど」
特に、そのことに対してはあまり後悔はしていなかったこともあり、皐月は毘羯羅との談笑を楽しみながら、洗い物をする。
その時、テレビを点けていたが皐月にはその音が聞こえていない。テロップを見ながら、どういう事件だったのかを察していた。
買い物や用事がある以外はほとんど家にいるような日々だが、それでは世間知らずになってしまうため、耳が聞こえなくなった今でもテレビと新聞には目を通すようにしていた。
テレビではちょうど、羯磨の遺体が発見されたという報道がされていた。
「もしかしてこれのこと? 忠治が未明早くに慌てて出て行ったのって」
「飯塚って新しい部下の人から連絡があったんだって」
「ふーん、それって若い女性?」
毘羯羅は片目をつむり、そう訊ねる。皐月はその問いを応えるようにうなずいてみせた。
「たしか二四歳くらいだって忠治さんが言ってたよ……って、それがどうかしたの?」
「いや、近くに若い女性がいるとさぁ、新しい刺激がほしいと――」
その先を言おうとした瞬間、虎の尾を踏むことすらいとわない殺気を感じ、毘羯羅は言葉を詰まらせる。
「新しい刺激が欲しい……その先がなんだって」
皐月は口調こそ柔らかかったが、その目には殺気が満ちていた。
「な、なんでもないです」
毘羯羅はこれ以上皐月を刺激したら、自分の身が持ちそうにないなと思い、ちいさく謝った。
「まぁ忠治さんが浮気するかどうかは別だけど、あの子が刑事課に配属されるみたいだし、なにかあったら私に連絡してくるよ」
「あの子って……もしかして異動が決まったの?」
皐月が言った人物に心当たりがあった毘羯羅は、信じられないと言わんばかりに目を爛々と輝かせる。
「湊の入学式の最中にね。たしか四月の中旬くらいからだってメールに書いてあったよ」
「そう。だけど少年事件課から刑事課って、結構頑張ったじゃないの」
毘羯羅は笑みを浮かべながら、テレビの方へと見る。
テレビでは遺体が発見された山中の映像が流れており、身元不明の高校生というテロップが出ていた。
「それにしても妙な事件ね。山から転げ落ちたのならわかるけど、まるで上から突き落とされたみたいな死に方だったみたいよ」
「忠治さんたちが調べている事件との関連性は?」
皐月は、キッと鋭い目で毘羯羅に訊ねる。
「それと関係しているかどうかはまだわからないけどね」
それを聞いて皐月は目を俯かせる。
「どうかした?」
「……なんか嫌な予感がするんだよ。ここ最近、妙に人がやったとは思えない事件があったりしているから」
「その事件の犯人は水妹慶太で間違いないだろうけど、それを決定させる証拠が見つかっていない」
「見つかっていないじゃなくて、立証がされないんだよ」
皐月は険しい表情を見せる。
「立証されないってどういうこと?」
「殺された水槌杏子の携帯が初期化されていたと忠治さんが言っていたって遊火から聞いてるけど、本当は壊されていたといったほうが正しいんじゃないかな。だって今の携帯って余程のことがない限りは初期化なんてしないんだよ」
「SIMカードだっけ? その中に個人データが保存されていて、それが盗まれたり壊されていない限りは、違う携帯でも今までと同じように……」
毘羯羅はアッと声を上げる。
「忠治は水槌杏子の携帯を見てるのよね? 見ている以上にその携帯が初期化されていたって言っていた。壊されていたのなら初期化しているなんて言わないもの」
「そう。携帯のデータを初期化するなんてパスワードを知っている本人以外ではメーカー特有のパスワードを知っていないとダメということになる。なら考えられるのは――彼女のスマホと同色同型式のスマホを用意する必要がある」
「それにカードを入れればって……だけどカードには元々の個人データが入ってるわけだし、同じ携帯会社に二重契約なんてことはできないでしょ?」
「そうじゃないよ。今の携帯電話はSIMカードさえあれば違う電話会社の携帯を使うことができる。でもそれは何年か使ってからの話。忠治さんの話だと水槌杏子は小学校高学年のころに防犯のために両親と同じ携帯会社と契約していたみたいだし、それを解約するとは思えない。携帯本体は変えられるけど、だからといって契約会社まで変える必要はないからね」
それを聞いて、すこし考えるや、
「だけど、それだと壊されたのに携帯が初期化されて見つかっているというのはどういうことになるのかしら?」
と首をかしげてしまう。
「つまり、架空人物を捏ち上げるんだよ」
「架空人物って、今はマイナンバーがあるんだから、そんなことできないでしょ?」
毘羯羅があきれた表情で言った時だった。自分と皐月以外の気配を感じ、そちらへと一瞥する。
「いや架空人物じゃなくても、名前を変えることはできるぞ」
とリビングに姿を見せたのは高山信ごと、大威徳明王であった。
「大威徳明王さま、それはどういうことでしょうか?」
「ある条件を充たせば、名前の変更が法律上認められるということだ。つまり皐月の考えは被害者と同じ名前にして、携帯電話の契約をしたということだろう」
高山にそう訊かれ、皐月はうなずく。
「そうだとしても、会社もバカじゃないんですから調べればすぐにわかるんじゃ? それに住所だって違うんですし……あっ!」
毘羯羅は皐月を一瞥する。
「同姓同名なんて世の中探せばいくらでもいるんだよ。問題はどうして殺された水槌杏子と同姓同名だったか」
「それに関してだがな、水槌杏子の父親がある政党の手伝いをしていたそうだ」
「ある政党……?」
皐月は首をかしげる。
「協心党。瑠璃が因達羅に調べてほしいと言っていた、半年前に作られたという政党だ。色々な政党から脱退した政治家が集まって作ったと言われているんだが、どうもその出処が不明でな、一応は元いた政党に不満を以ってのことらしいが、詳しくはまだ調査中らしい」
「そのことを瑠璃さんには?」
「因達羅曰く一応は伝えているそうだ」
皐月はそれを聞きながら、すこしばかり考える。
「高山さん、私たちはもう妖怪を地獄に送検する力も権利も持っていませんから話を聞くしかできませんけど、もしこの事件が妖怪による仕業だとしたらどうするんですか?」
「そうよね。私たち神仏もこっちのことに関しては見ることや助言はできても、手を出すことができないわけだし」
皐月と毘羯羅の言葉を、高山は不敵な笑みで聞いていた。
その態度がすこし気になり、皐月はどうかしたのかと訊ねる。
「いや、すこし心当たりがあってな……」
その目はギラリと光っていた。