第七夜 交錯
夜の帳が下りた荒川区、素盞雄神社周辺。
かつての下町の喧騒は鳴りを潜め、今は不気味な静寂だけが支配していた。
俺は、闇に溶け込むようにして、神社の裏手にある雑木林を疾走していた。
足音は立てない。呼吸も極限まで抑える。
感覚を研ぎ澄ませば、周囲の空気の流れすら肌で感じ取れるようだった。
《尊、前方30メートルに熱源反応。歩哨が二人いるわ。右側の死角を抜けて》
脳内に直接響く茉奈の声。
彼女の『広域視覚リンク』が、俺に神の視点を与えてくれている。
俺は指示通りにコースを変え、木々の影を縫うようにして歩哨の背後をすり抜けた。
(……ありがとう、茉奈)
心の中で礼を言うと、すぐに意識を切り替える。
目の前には、無粋なフェンスで囲まれた神社の境内が見えていた。
そこには、帝国の特殊部隊『ゲネシス・キメラ』が設営した仮設ラボと、おびただしい数の武装兵が展開している。
俺の心臓が、早鐘を打つ。
恐怖ではない。これは、武者震いだ。
あの日、制御できずに暴走した力。今日は、それと向き合うためにここに来た。
◇
仮設ラボの中、無機質なモニターの光に照らされた鴫野は、苛立ちを隠そうともせずに指先でデスクを叩いていた。
「……安定している、だと?」
モニターに表示された神域のエネルギー値は、不気味なほど一定の数値を保っていた。
以前観測されたような、爆発的なスパイクは一切見られない。
「はい。周辺住民の感情データにも、大きな変動はありません。恐怖による萎縮効果が浸透しすぎたのか、大きな感情の起伏でも数値に波が現れなくなりました」
部下の報告に、鴫野は冷ややかな視線を向ける。
「恐怖に慣れた家畜か。つまらん」
彼は科学者であり、軍人だ。
彼が求めているのは、神域という未知のエネルギー源を制御し、兵器として運用するためのデータだ。
そのためには、神域を活性化させるトリガーが必要だった。
「ならば、揺さぶるまでだ」
鴫野は冷酷に言い放つと、顎で檻の方をしゃくった。
そこには、午前中に捕獲された動画配信者の若者たちが、猿ぐつわを噛まされ、怯えた目で震えていた。
「被験体を境内に引きずり出せ。神域の中心で、少しばかり派手な『解体ショー』を行う」
「はっ……しかし、境内への突入は最終手段かと」
「構わん。人間の絶望と死が、神域にどのような影響を与えるか。そのデータが取れれば、代わりはいくらでもいる。科学に犠牲はつきものだ」
鴫野の言葉には、一片の慈悲もなかった。
彼にとって人間とは、ただのタンパク質の塊であり、データの源に過ぎないのだ。
◇
境内に引きずり出された若者たちが、必死に命乞いをする声が聞こえた気がした。
猿ぐつわ越しの、くぐもった悲鳴。
兵士の一人が、無造作にナイフを抜き放つ。
その光景が、茉奈のリンクを通じて俺の脳裏に飛び込んできた。
(――ふざけるな!)
理性が弾け飛ぶ音がした。
俺は隠密行動を捨て、地面を蹴った。
爆発的な加速。
フェンスを飛び越え、境内に着地すると同時に、俺は右手を突き出した。
俺の手から放たれた衝撃波が、ナイフを振り上げた兵士を吹き飛ばす。
兵士は受け身も取れずに石畳に叩きつけられ、動かなくなった。
「なっ……敵襲!?」
「どこから現れた!」
周囲の兵士たちが慌てて銃を構えるが、俺は止まらない。
若者たちの拘束を素手で引きちぎり、安全な茂みの方へと押しやる。
「走れ! 振り返るな!」
彼らが逃げ出したのを確認する間もなく、銃声が轟いた。
俺は即座に反応し、空間を歪めるようにして弾道を逸らす。
スサノオの力。
以前のような、怒りに任せた黒い奔流ではない。
もっと鋭く、静かで、重い力。
俺は兵士の懐に飛び込み、その腕を掴んで関節を極めた。
ボキリ、と鈍い音がして、兵士が苦悶の声を上げる。
俺はそのまま彼を盾にして、別の兵士からの射撃を防いだ。
(殺さない……!)
心の中で、強く念じる。
こいつらは『ゲネシス・キメラ』。遺伝子操作された強化兵士だとしても、元は人間だ。
もしかしたら、無理やり改造された被害者かもしれない。
そう思うと、トドメを刺すことができなかった。
武器を壊し、手足を狙い、戦闘不能にする。
それだけに徹した。
だが、その甘さが、戦況を徐々に悪化させていく。
「ターゲット確認。捕獲、または排除せよ!」
ラボから増援が次々と現れる。
重装甲のパワードスーツを着込んだ兵士たちが、包囲網を狭めてくる。
「くっ……!」
数が多い。
一人を無力化している間に、三人が襲い掛かってくる。
殺す気でやれば、一瞬で片付くかもしれない。
あの黒い雷を使えば、この場を一掃できるかもしれない。
でも、それをすれば、俺は――
迷いが生じた一瞬の隙を、敵は見逃さなかった。
背後から迫った重装甲兵のハンマーが、俺の脇腹を捉える。
「がはっ……!?」
強烈な衝撃に、視界が明滅する。
俺は石畳の上を転がり、受け身を取ろうとして失敗した。
激痛が走り、息ができない。
(しまっ……た……)
顔を上げると、無数の銃口が俺に向けられていた。
ラボの入り口には、冷ややかな目をした男――鴫野が立っているのが見えた。
「甘いな。その甘さが、貴様の命取りだ」
鴫野が指を鳴らす。
兵士たちが引き金に指をかけた、その時だった。
――ドォォォォォォンッ!!
夜空を引き裂くような轟音と共に、蒼い閃光が地上へと降り注いだ。
それは正確に、俺を取り囲んでいた重装甲兵たちに降り注いだ。
「ぐわぁぁぁっ!?」
強烈な電撃が走り、兵士たちが吹き飛ぶ。
舞い上がる砂煙。
その中心に、一人の影が立っていた。
バチバチと音を立てて放電する特殊警棒を構え、肩で息をする少年。
「……また、一人で背負い込んで……!」
煉だった。
彼は怒ったような、それでいて泣きそうな顔で俺を睨みつけ、叫んだ。
「僕もいるんです! 勝手に一人で終わろうとしないでください、尊さん!」
その言葉が、痛む体に染み渡るように響いた。
ああ、そうか。
俺はまた、間違えていたのか。
俺は痛みをこらえて、ゆっくりと立ち上がった。
隣に並んだ煉が、力強い視線を向けてくる。
「道は、僕が切り拓きます。だから尊さんは……」
「あぁ。終わらせる」
言葉はいらなかった。
俺たちは同時に地面を蹴った。
煉が駆ける。
彼の放つ蒼い雷撃が、扇状に広がり、前方の敵部隊を麻痺させる。
『道を切り拓く』力。
彼の雷は破壊じゃない。俺の足を止めないための光だった。
その切り開かれた道を、俺は疾走する。
麻痺して動けない兵士たちの間をすり抜け、本丸である鴫野へと肉薄する。
「なっ……! 馬鹿な、たかが人間が……!」
鴫野が驚愕に目を見開く。
俺の体から溢れ出す力が、以前とは違う質のものに変わっていることに気づいたのだろう。
怒りや憎しみではない。
仲間を信じ、共に戦うことで生まれる、澄んだ力。
俺は右手に力を収束させる。
黒い波動が、球体となって凝縮される。
「神威……!」
俺は鴫野の足元の地面に向けて、その力を叩きつけた。
空間が歪み、強烈な重力波が発生する。
鴫野と、彼の護衛たちが、見えない巨人の手で押しつぶされたように地面に縫い付けられた。
「ぐぅっ……! こ、これは……!」
鴫野が呻く。
俺は彼を見下ろし、静かに告げた。
「人間は、データじゃない。心があるから、強くなれるんだ」
煉が追いついてくる。
周囲の敵は、彼の雷撃によってあらかた無力化されていた。
鴫野は悔しげに歯噛みすると、懐から発煙筒のようなものを取り出した。
「チッ……残光め……不確定要素が多すぎる。撤退だ!」
彼がそれを地面に叩きつけると、猛烈な白煙が巻き起こった。
煙が立ち込める中、残存兵が最後の抵抗を試みる。
その瞬間、鴫野の腕に仕込まれた自爆装置が起動音を響かせた。
「くっ……終わりだ、全てを巻き込む……!」
死を覚悟したキメラ兵の意識が光る。
尊は迷わず手を伸ばした。右手から黒い神威が広がり、空間を歪める。
――球体状に圧縮される重力場が、自爆の爆風を内側で潰した。
爆発は腕のキメラ義手ごと押し潰され、轟音だけが残る。
兵士たちは動けず、煙の中で息を潜めるしかなかった。
地面に押し付けられた鴫野の目に、尊の姿が浮かんだ。
瞳には痛みと怒りが宿るが、手は震えていない。
「……貴様は、敵まで守るのか」
鴫野の声には、驚愕と苛立ちが入り混じっていた。
尊はゆっくりと地面に膝をつき、傷ついた体を支えながら答えた。
「守るのは……お前じゃない。この場所だ」
その言葉が、空気を震わせる。
鴫野の顔にわずかな苛立ちと屈辱が浮かぶ。
重力場は静かに消え、爆風は完全に封じられた。
残されたのは、破壊された機材と、静かに息を潜める兵士たちだけ。
静寂が境内を支配する中、尊はゆっくりと立ち上がった。
隣で煉が駆け寄り、肩を貸す。
「……尊さん、大丈夫ですか?」
「ああ、助かったよ、煉。お前が来てくれなかったら、やばかった」
互いに目を合わせ、短く頷く。
空には月光が差し込み、荒川区の夜を柔らかく照らしていた。
――その背後、煙の向こうで地面に伏せた鴫野の瞳には、悔しさと不満が渦巻いていた。
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