第五夜 受容
事務所の会議室に、重苦しい空気が淀んでいた。
「……つまり、尊はまだ、完全に力を授かっていない可能性がある、と?」
浜田さんの低い声が、静かに響く。その顔は珍しく険しく、腕組みをしたまま、難しい顔をしている。
誰も何も言わない。
みんな、尊のことを心配しているんだ。それは、痛いほど伝わってくる。
でも、それ以上に、みんな、自分の無力さを感じているんだ。
(私だって……)
あの日、尊が暴走した時、私は何もできなかった。
ただ、尊の名前を呼ぶことしかできなかった。
せっかく、あんなに近くなったのに。
今は、尊の居場所すら、わからない。
そう、詩織さんの言葉よりも、何よりも、私を焦らせているのは、尊の存在が、感じられないことだった。
あの時まで、確かに感じた、熱くて、強くて、優しい魂の輝き。
今は、どこを探しても、見つからない。
「……何か、私にできることは……」
絞り出すような私の言葉に、詩織さんが、少しだけ悲しそうな瞳を向けた。
「……今は、そっとしておくのが一番じゃろう。あやつは、今、自分自身と戦っておる。誰にも邪魔はさせられん」
「でも……!」
「信じるしかない。あやつなら、必ず乗り越えてくれると」
詩織さんの言葉は、優しくて、でも、どこか遠い。
まるで、私とは違う世界を見ているみたい。
その夜、私は、眠れなかった。
天井を見つめたまま、色々なことを考えた。
尊と二人で、福岡や仙台に行って、子供たちを助けて回ったこと。
工場で地下に落ちて、手をつないだ時の、ドキドキした気持ち。
初詣の時、迷子の子を助けた時を思い出す。
そして、
あの日、素盞雄神社で見えた、尊の悲しそうな顔。
(どうして……)
どうして、あんなことになってしまったんだろう。
どうして、尊は、あんなにも苦しんでいるんだろう。
私は、ただ、尊の力になりたいだけなのに。
ただ、尊の笑顔が見たいだけなのに。
(……会いに行こう)
私は、そう決意した。
詩織さんが何と言おうと、浜田さんが止めようと、私は、尊に会いに行く。
だって、私は、尊のそばにいたいから。
翌朝、私は、眠れないまま、尊の部屋の前に立っていた。
コンコン、と、小さくノックをする。
……返事はない。
やっぱり、まだ、塞ぎ込んでいる。
私は、覚悟を決めて、ドアを開けた。
部屋の中は、カーテンが閉め切られ、朝だというのに、真っ暗だった。
重い空気が、私の肌を刺す。
尊の部屋には、いつも、彼の好きな本の匂いがする。
でも、今は、それさえも感じられない。
(……尊?)
私は、そっと、部屋の中へと足を踏み入れた。
読みかけの本が、裏返しに、ベッドの横の床に置いてある。
その隣には、伸縮式の警棒が刺さったホルスターが、乱雑に置かれていた。
いつもは、きちんと整理整頓されているのに。
今の尊は、そんな余裕もないんだ。
ベッドの布団が、大きく膨らんでいる。
その下には、きっと、尊がいるんだ。
私は、ゆっくりと、ベッドに近づいた。
そして、そっと、ベッドに腰を下ろした。
……息を、吸って。
……吐いて。
私の心臓が、ドキドキと音を立てている。
まるで、告白する前の乙女みたいだ。
……でも、今は、そんなことを言ってる場合じゃない。
私は、そっと、布団の上から、尊の胸元に手を置いた。
……暖かい。
微かに、体温が伝わってくる。
でも、リンクは、繋がらない。
尊の心が、見えない壁に覆われているみたいだ。
……それでも、いい。
今は、ただ、そばにいるだけでいい。
私は、そっと、布団の上から、額を押し当てた。
(……尊)
私の心の声が、尊に届くように。
その時、初めて、尊が、微かに反応した。
布団の中で、尊の体が、震えている。
……尊が、何かを言おうとしている。
私は、息を凝らして、耳を澄ませた。
尊の、くぐもった声が、私の鼓膜を震わせる。
「俺は……また、壊す」
それは、怯えと諦めが入り混じった、痛々しい響きだった。
自分の手が、自分の力が、大切なものを傷つけてしまうかもしれないという恐怖。
あの日の光景が、彼の中でまだ鮮明に焼き付いているのだ。
私は、その言葉を否定しなかった。
「そんなことないよ」なんて、無責任な慰めは言えない。
だって、尊の力は本当に強大で、破壊的だったから。
「……うん」
だから、私は肯定した。
あなたの恐怖は、間違いじゃない。
あなたが恐れているその力は、確かにそこにある。
布団越しに伝わる尊の体が、ビクリと強張るのがわかった。
突き放されたと、思ったのかもしれない。
でも、違うの。
「でもね……」
私は言葉を継ぐ。
祈るように。誓うように。
「それでも、私はここにいるよ」
壊すかもしれない。傷つくかもしれない。
それでも、私はあなたのそばから離れない。
尊の手が、布団を内側から強く握りしめるのが見えた。
拒絶か、それとも縋っているのか。
私は、迷わずその布団の端を掴んだ。
そして、ゆっくりと、でも力強くめくり上げた。
「……っ」
露わになった尊の姿に、胸が締め付けられた。
部屋の暗闇に慣れた目が、彼の表情を捉える。
怒りではない。
そこにあったのは、深い自己嫌悪と、どうしようもない孤独で濁った瞳だった。
まるで、捨てられた子犬のように、怯えて私を見上げている。
(ああ、もう……)
愛おしさが、胸の奥から溢れ出して止まらない。
この人は、どうしてこんなにも不器用で、優しいんだろう。
私は靴を脱ぎ、そのままベッドへと上がり込んだ。
尊が驚いて目を見開く。
「ま、茉奈……?」
彼の戸惑う声を無視して、私は尊の背中側に回り込むと、そのまま布団の中に滑り込んだ。
狭いシングルベッド。
二人の体が、必然的に密着する。
私は後ろから、尊の背中に抱きついた。
自分の胸を、彼の広い背中に押し当てる。
「なっ、おい、茉奈!?」
尊が慌てて身じろぎするが、私は腕に力を込めて逃がさない。
背中越しに、トクトクと早い彼の鼓動が伝わってくる。
私の鼓動も、きっと彼に伝わっているだろう。
「じっとしてて」
耳元で囁くと、尊は観念したように大人しくなった。
彼の体温が、私の体温と混ざり合う。
少し汗ばんだシャツの匂い。落ち着く、尊の匂い。
(私は、閉じない)
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
神話では、弟の乱暴狼藉に怒った太陽神アマテラスは、天岩戸に引きこもってしまったという。
そのせいで世界は闇に包まれた。
でも、私は違う。
私はアマテラスじゃない。水城茉奈だ。
好きな人が荒れているなら、私は岩戸をこじ開けてでも、彼を照らしに行く。
閉じこもったりなんか、絶対にしてやらない。
「あなたがどれだけ荒れても、壊しても……私はどこにもいかないよ」
腕の中で、尊の震えが少しずつ収まっていく。
私は彼の呼吸に合わせるように、ゆっくりと息を吐いた。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
次第に、二人の呼吸のリズムが重なっていく。
荒々しかった尊の気が、凪いだ海のように静まっていくのを肌で感じた。
しばらくして、尊がゆっくりと体を反転させた。
布団の中で、私と向き合う形になる。
至近距離。
暗闇の中で、銀色の瞳が私をじっと見つめていた。
その瞳から、先ほどの濁りは消えていた。
「茉奈……俺……」
尊が何かを言いかけ、口を開く。
謝罪か、それとも言い訳か。
今の私には、言葉なんて必要なかった。
私は、尊の言葉を遮るように、顔を寄せ――
その唇を、自分の唇で塞いだ。
「――んっ!?」
尊の喉から、驚きの声が漏れる。
唇に触れる、柔らかくて温かい感触。
自分でも驚くほど大胆な行動だった。
顔が熱くなるのがわかる。きっと、耳まで真っ赤だ。
でも、離したくない。
尊が身を引こうとする気配を感じて、私は彼の首に腕を巻き付けた。
逃がさない。
強引に、唇を押し付ける。
(あはは、何やってんだろ……)
頭のどこかで冷静な自分が呆れているけれど、体は勝手に動いていた。
尊が本気を出せば、私なんて簡単に振りほどけるはずだ。
でも、彼はそうしなかった。
ただ、戸惑いながらも、私の想いを受け止めてくれている。
しばらくして、私が唇を離すと、尊は酸欠になったみたいに口をぱくぱくさせて起き上がった。
暗がりでもわかるくらい、顔が赤い。
「な、ななな、何してんだよ、茉奈……!」
「何って……キス、だけど?」
精一杯の強がりで言い返す。心臓が口から飛び出しそうだ。
「い、いや、それはわかるけど! なんで急に!?」
「尊が、うじうじしてるからでしょ!」
私は再び彼を抱き寄せた。
今度は正面から、胸の中に彼の顔を埋める。そして背中からベッドに倒れた。
「言葉じゃ伝わらないなら、こうするしかないじゃない」
「茉奈……」
尊の手が、恐る恐る私の背中に回される。
そして、優しく抱きしめ返してくれた。
その力強さに、安心感がこみ上げてくる。
尊の鼓動が、さっきよりも激しく打っているのがわかった。
私の鼓動も、負けないくらい早い。
どっちの音なのか、もうわからない……
尊が、そっと首を持ち上げた。
私を見下ろす瞳が、揺れている。
「……重くないか?」
その言葉に、私は思わず吹き出しそうになった。
物理的な重さのことなのか、それとも、彼の抱える運命の重さのことなのか。
きっと、その両方なんだろう。
本当に、どこまでも不器用で、愛おしい人。
「……バカ」
私は返事をする代わりに、もう一度、彼の首に腕を回した。
そして、彼を引き寄せ、今度は深く、唇を重ね舌を絡める。
重いなんて、思うわけがない。
その重さごと、全部私が背負ってあげる。
だから、あなたは一人で苦しまなくていいんだよ。
そんな想いを込めて、私は彼を愛し続けた。
◇
どれくらいの時間が経っただろうか。
私たちは、互いの体温を分け合うように、寄り添って横になっていた。
窓の外は日も高く上り、子供たちの声が聞こえ始めている。
私は、尊の胸に耳を当てながら、昨日の会議の内容を伝えた。
詩織さんが話していたこと。
尊の力が、まだ完全ではない可能性があること。
そのせいで、神域とのリンクが部分的であり未完了であること。
尊は、黙って私の話を聞いていた。
私の髪を撫でる手が、とても優しい。
「……そうか」
全てを聞き終えた尊が、静かに呟いた。
その声には、もう迷いはなかった。
「俺の力は、まだ半端なんだな」
「うん。詩織さんが言うには、スサノオの力の本質を、まだ理解できてないのかもって」
「本質……」
尊は自分の手のひらをじっと見つめた。
そこには、破壊の力だけでなく、何かを守るための力も眠っているはずだ。
「……もう一度、神社に行く」
尊が言った。
その瞳には、確かな光が宿っていた。
「逃げるのは、もう終わりだ。あの場所に行って、ちゃんと確かめたい。この力の意味を。そして……」
彼は私を見て、力強く微笑んだ。
「お前を守れる、本当の強さを手に入れたい」
その言葉が、何よりも嬉しかった。
私は、涙がこぼれそうになるのを堪えて、大きく頷いた。
その瞬間だった。
窓の外、遠く離れた場所で、何かが動いたような気がした。
肌が粟立つような、奇妙な感覚。
(……なに?)
予感めいた何かが、私の胸をざわつかせた。
けれど、今はまだ、隣にいる尊の温もりだけを信じていたかった。
私たちは、新たな試練が待ち受けているとも知らず、互いの絆を確かめ合うように、強く手を握りしめた。
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