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黒髪巫女と銀髪少年の深淵  作者: 烏刻
第二章 荒ぶる神の試練
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第五夜 受容

 事務所の会議室に、重苦しい空気が淀んでいた。


「……つまり、尊はまだ、完全に力を授かっていない可能性がある、と?」


 浜田さんの低い声が、静かに響く。その顔は珍しく険しく、腕組みをしたまま、難しい顔をしている。

 誰も何も言わない。


 みんな、尊のことを心配しているんだ。それは、痛いほど伝わってくる。


 でも、それ以上に、みんな、自分の無力さを感じているんだ。


 (私だって……)


 あの日、尊が暴走した時、私は何もできなかった。

 ただ、尊の名前を呼ぶことしかできなかった。


 せっかく、あんなに近くなったのに。

 今は、尊の居場所すら、わからない。


 そう、詩織さんの言葉よりも、何よりも、私を焦らせているのは、尊の存在が、感じられないことだった。


 あの時まで、確かに感じた、熱くて、強くて、優しい魂の輝き。

 今は、どこを探しても、見つからない。


「……何か、私にできることは……」


 絞り出すような私の言葉に、詩織さんが、少しだけ悲しそうな瞳を向けた。


「……今は、そっとしておくのが一番じゃろう。あやつは、今、自分自身と戦っておる。誰にも邪魔はさせられん」

「でも……!」

「信じるしかない。あやつなら、必ず乗り越えてくれると」


 詩織さんの言葉は、優しくて、でも、どこか遠い。

 まるで、私とは違う世界を見ているみたい。


 その夜、私は、眠れなかった。


 天井を見つめたまま、色々なことを考えた。

 尊と二人で、福岡や仙台に行って、子供たちを助けて回ったこと。

 工場で地下に落ちて、手をつないだ時の、ドキドキした気持ち。

 初詣の時、迷子の子を助けた時を思い出す。


 そして、

 あの日、素盞雄神社で見えた、尊の悲しそうな顔。


 (どうして……)


 どうして、あんなことになってしまったんだろう。

 どうして、尊は、あんなにも苦しんでいるんだろう。


 私は、ただ、尊の力になりたいだけなのに。

 ただ、尊の笑顔が見たいだけなのに。


 (……会いに行こう)


 私は、そう決意した。

 詩織さんが何と言おうと、浜田さんが止めようと、私は、尊に会いに行く。


 だって、私は、尊のそばにいたいから。


 翌朝、私は、眠れないまま、尊の部屋の前に立っていた。


 コンコン、と、小さくノックをする。


 ……返事はない。


 やっぱり、まだ、塞ぎ込んでいる。


 私は、覚悟を決めて、ドアを開けた。


 部屋の中は、カーテンが閉め切られ、朝だというのに、真っ暗だった。

 重い空気が、私の肌を刺す。


 尊の部屋には、いつも、彼の好きな本の匂いがする。

 でも、今は、それさえも感じられない。


 (……尊?)


 私は、そっと、部屋の中へと足を踏み入れた。


 読みかけの本が、裏返しに、ベッドの横の床に置いてある。

 その隣には、伸縮式の警棒が刺さったホルスターが、乱雑に置かれていた。


 いつもは、きちんと整理整頓されているのに。

 今の尊は、そんな余裕もないんだ。


 ベッドの布団が、大きく膨らんでいる。

 その下には、きっと、尊がいるんだ。


 私は、ゆっくりと、ベッドに近づいた。


 そして、そっと、ベッドに腰を下ろした。


 ……息を、吸って。

 ……吐いて。


 私の心臓が、ドキドキと音を立てている。

 まるで、告白する前の乙女みたいだ。


 ……でも、今は、そんなことを言ってる場合じゃない。


 私は、そっと、布団の上から、尊の胸元に手を置いた。


 ……暖かい。


 微かに、体温が伝わってくる。


 でも、リンクは、繋がらない。

 尊の心が、見えない壁に覆われているみたいだ。


 ……それでも、いい。


 今は、ただ、そばにいるだけでいい。


 私は、そっと、布団の上から、額を押し当てた。


 (……尊)


 私の心の声が、尊に届くように。


 その時、初めて、尊が、微かに反応した。


 布団の中で、尊の体が、震えている。


 ……尊が、何かを言おうとしている。


 私は、息を凝らして、耳を澄ませた。


 尊の、くぐもった声が、私の鼓膜を震わせる。


「俺は……また、壊す」


 それは、怯えと諦めが入り混じった、痛々しい響きだった。

 自分の手が、自分の力が、大切なものを傷つけてしまうかもしれないという恐怖。

 あの日の光景が、彼の中でまだ鮮明に焼き付いているのだ。


 私は、その言葉を否定しなかった。

「そんなことないよ」なんて、無責任な慰めは言えない。

 だって、尊の力は本当に強大で、破壊的だったから。


「……うん」


 だから、私は肯定した。

 あなたの恐怖は、間違いじゃない。

 あなたが恐れているその力は、確かにそこにある。


 布団越しに伝わる尊の体が、ビクリと強張るのがわかった。

 突き放されたと、思ったのかもしれない。


 でも、違うの。


「でもね……」


 私は言葉を継ぐ。

 祈るように。誓うように。


「それでも、私はここにいるよ」


 壊すかもしれない。傷つくかもしれない。

 それでも、私はあなたのそばから離れない。


 尊の手が、布団を内側から強く握りしめるのが見えた。

 拒絶か、それとも縋っているのか。


 私は、迷わずその布団の端を掴んだ。

 そして、ゆっくりと、でも力強くめくり上げた。


「……っ」


 露わになった尊の姿に、胸が締め付けられた。

 部屋の暗闇に慣れた目が、彼の表情を捉える。

 怒りではない。

 そこにあったのは、深い自己嫌悪と、どうしようもない孤独で濁った瞳だった。

 まるで、捨てられた子犬のように、怯えて私を見上げている。


 (ああ、もう……)


 愛おしさが、胸の奥から溢れ出して止まらない。

 この人は、どうしてこんなにも不器用で、優しいんだろう。


 私は靴を脱ぎ、そのままベッドへと上がり込んだ。

 尊が驚いて目を見開く。


「ま、茉奈……?」


 彼の戸惑う声を無視して、私は尊の背中側に回り込むと、そのまま布団の中に滑り込んだ。

 狭いシングルベッド。

 二人の体が、必然的に密着する。


 私は後ろから、尊の背中に抱きついた。

 自分の胸を、彼の広い背中に押し当てる。


「なっ、おい、茉奈!?」


 尊が慌てて身じろぎするが、私は腕に力を込めて逃がさない。

 背中越しに、トクトクと早い彼の鼓動が伝わってくる。

 私の鼓動も、きっと彼に伝わっているだろう。


「じっとしてて」


 耳元で囁くと、尊は観念したように大人しくなった。

 彼の体温が、私の体温と混ざり合う。

 少し汗ばんだシャツの匂い。落ち着く、尊の匂い。


 (私は、閉じない)


 ふと、そんな言葉が頭をよぎった。

 神話では、弟の乱暴狼藉に怒った太陽神アマテラスは、天岩戸に引きこもってしまったという。

 そのせいで世界は闇に包まれた。


 でも、私は違う。

 私はアマテラスじゃない。水城茉奈だ。

 好きな人が荒れているなら、私は岩戸をこじ開けてでも、彼を照らしに行く。

 閉じこもったりなんか、絶対にしてやらない。


「あなたがどれだけ荒れても、壊しても……私はどこにもいかないよ」


 腕の中で、尊の震えが少しずつ収まっていく。

 私は彼の呼吸に合わせるように、ゆっくりと息を吐いた。


 吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。


 次第に、二人の呼吸のリズムが重なっていく。

 荒々しかった尊の気が、凪いだ海のように静まっていくのを肌で感じた。


 しばらくして、尊がゆっくりと体を反転させた。

 布団の中で、私と向き合う形になる。


 至近距離。

 暗闇の中で、銀色の瞳が私をじっと見つめていた。

 その瞳から、先ほどの濁りは消えていた。


「茉奈……俺……」


 尊が何かを言いかけ、口を開く。

 謝罪か、それとも言い訳か。

 今の私には、言葉なんて必要なかった。


 私は、尊の言葉を遮るように、顔を寄せ――

 その唇を、自分の唇で塞いだ。


「――んっ!?」


 尊の喉から、驚きの声が漏れる。

 唇に触れる、柔らかくて温かい感触。

 自分でも驚くほど大胆な行動だった。

 顔が熱くなるのがわかる。きっと、耳まで真っ赤だ。


 でも、離したくない。


 尊が身を引こうとする気配を感じて、私は彼の首に腕を巻き付けた。

 逃がさない。

 強引に、唇を押し付ける。


 (あはは、何やってんだろ……)


 頭のどこかで冷静な自分が呆れているけれど、体は勝手に動いていた。

 尊が本気を出せば、私なんて簡単に振りほどけるはずだ。

 でも、彼はそうしなかった。

 ただ、戸惑いながらも、私の想いを受け止めてくれている。


 しばらくして、私が唇を離すと、尊は酸欠になったみたいに口をぱくぱくさせて起き上がった。

 暗がりでもわかるくらい、顔が赤い。


「な、ななな、何してんだよ、茉奈……!」

「何って……キス、だけど?」


 精一杯の強がりで言い返す。心臓が口から飛び出しそうだ。


「い、いや、それはわかるけど! なんで急に!?」

「尊が、うじうじしてるからでしょ!」


 私は再び彼を抱き寄せた。

 今度は正面から、胸の中に彼の顔を埋める。そして背中からベッドに倒れた。


「言葉じゃ伝わらないなら、こうするしかないじゃない」

「茉奈……」


 尊の手が、恐る恐る私の背中に回される。

 そして、優しく抱きしめ返してくれた。

 その力強さに、安心感がこみ上げてくる。


 尊の鼓動が、さっきよりも激しく打っているのがわかった。

 私の鼓動も、負けないくらい早い。

 どっちの音なのか、もうわからない……


 尊が、そっと首を持ち上げた。

 私を見下ろす瞳が、揺れている。


「……重くないか?」


 その言葉に、私は思わず吹き出しそうになった。

 物理的な重さのことなのか、それとも、彼の抱える運命の重さのことなのか。

 きっと、その両方なんだろう。


 本当に、どこまでも不器用で、愛おしい人。


「……バカ」


 私は返事をする代わりに、もう一度、彼の首に腕を回した。

 そして、彼を引き寄せ、今度は深く、唇を重ね舌を絡める。


 重いなんて、思うわけがない。

 その重さごと、全部私が背負ってあげる。

 だから、あなたは一人で苦しまなくていいんだよ。


 そんな想いを込めて、私は彼を愛し続けた。


 ◇


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 私たちは、互いの体温を分け合うように、寄り添って横になっていた。

 窓の外は日も高く上り、子供たちの声が聞こえ始めている。


 私は、尊の胸に耳を当てながら、昨日の会議の内容を伝えた。

 詩織さんが話していたこと。

 尊の力が、まだ完全ではない可能性があること。

 そのせいで、神域とのリンクが部分的であり未完了であること。


 尊は、黙って私の話を聞いていた。

 私の髪を撫でる手が、とても優しい。


「……そうか」


 全てを聞き終えた尊が、静かに呟いた。

 その声には、もう迷いはなかった。


「俺の力は、まだ半端なんだな」

「うん。詩織さんが言うには、スサノオの力の本質を、まだ理解できてないのかもって」

「本質……」


 尊は自分の手のひらをじっと見つめた。

 そこには、破壊の力だけでなく、何かを守るための力も眠っているはずだ。


「……もう一度、神社に行く」


 尊が言った。

 その瞳には、確かな光が宿っていた。


「逃げるのは、もう終わりだ。あの場所に行って、ちゃんと確かめたい。この力の意味を。そして……」


 彼は私を見て、力強く微笑んだ。


「お前を守れる、本当の強さを手に入れたい」


 その言葉が、何よりも嬉しかった。

 私は、涙がこぼれそうになるのを堪えて、大きく頷いた。


 その瞬間だった。

 窓の外、遠く離れた場所で、何かが動いたような気がした。

 肌が粟立つような、奇妙な感覚。


 (……なに?)


 予感めいた何かが、私の胸をざわつかせた。

 けれど、今はまだ、隣にいる尊の温もりだけを信じていたかった。


 私たちは、新たな試練が待ち受けているとも知らず、互いの絆を確かめ合うように、強く手を握りしめた。

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