運命は変わらない
「わ、私···どうして···」
ティアナは自分自身どうしてなのか分からなかった。皇子の姿を見るだけで身体が恐怖で震えるのだ。
「ティアナ?」
レギナルトの手がとうとうティアナに触れようとした。しかし信じられない事にティアナは皇子の手を払いのけてしまったのだった。レギナルトは呆然と払われた自分の手を見たまま固まって言葉を失くしてしまった。傍にいたゲーゼはティアナらしくない態度に驚きの声を上げた。
ティアナは大神官の仰天したような声に、はっとした。また心と裏腹に身体が勝手に動いてしまったのだ。
(アマーリアには皇子を信じている、愛が足りない私が悪い···だからもっと好きになると言ったばかりなのに···どうして?)
ティアナは驚いて紫の瞳を見開いている皇子を直視出来なかった。ただ首を振った。
「ち、違います!私、私は···」
「ティアナ···何が気に入らない?何を考えている?何を隠しているんだ!ティアナ!」
初めは憤りを抑えて問いかけていたレギナルトだったが、とうとう最後は大きな声を出してしまった。
ティアナは何か言って誤魔化そうと思った。例の件は絶対に知られたくない。それを知った皇子が自分以上に悩むのが目に見えているからだ。だから咄嗟に目の前に居たルーベルを例にあげてしまった。
「ど、どうして皇子はルーベルさんの事を···は、反対するのですか?」
「何?」
いきなりそんな話になるとは誰も思わず、ルーベルは話しが自分の事になったから仰天してしまった。大神官と現れた高貴な人物が話しの内容でレギナルト皇子だと言うのは分かった。何やら揉めていたと思ったらティアナの発言で帝国を事実上動かしていると言う皇子の鋭い視線が自分に注がれたのだ。年齢的にはルーベルと変わらないが、その圧倒的な存在から睨まれて生きた心地がしない。
「ティアナ、お前が口を出す問題ではない」
レギナルトの絶対的な言い方にティアナは〝また〟だと思った。先日も皇城の移転問題があって婚礼が延期されるかもしれないと言う大事な話を教えてくれなかった。その時も関係無いと言われたのだ。ティアナは自分の気持ちを言うのが下手だがレギナルトも自分の気持ちを言うのが苦手だ。だからそれがこじれると大変だった。さっきまでの追求がその話題で逸れたから良かったもののティアナは納得出来なかった。
「皇子はいつもそう言うのですね!私は関係無いって!どうしてですか!」
「·········」
レギナルトは答えなかった。どうして?本心を言えばそれこそティアナは自分を恐れるだろう。ティアナが自分以外に関心を示すのが気に入らなかった。愛し過ぎてそれが許せないのだ。この想いは心が通じ合う前と少しも変わらない。ティアナを何処かに閉じ込めてしまいたい。そして自分だけを見て欲しいと言うこの焦がれる想い―――
ティアナはまた前世の記憶を思い出していた。好きなのに愛しているのに自分を物のようにしか見てくれなかった紫の瞳の愛しい人。皇子は違うと思いたい。そして自分が運命を変えたいと思うのに心と身体がバラバラだ。だから口から出る言葉も滅茶苦茶だ!
「皇子は···皇子は私のこと人形か何かだとでも思っているのですか!大人しくただ座っている飾り人形だとでも?気が向いた時にだけ話しかけて貰えるだけで誰にも話しかけられない人形?」
ティアナは違うと言って欲しかった。しかしレギナルトは本心を突かれて表情が変わった。感情をまだ抑えている感じだった皇子が一気に怒気をあらわにしたのだ。
「人形?そうだ···人形の方がまだいいだろう。煩い口も無ければ誰彼と微笑んで回らないだろうからな。私だけを相手にしていればいい!」
レギナルトは言い放つとティアナを無理やり抱き上げた。
「きゃ――っ!何をするんですか!」
「煩い!黙れ!お前は今から人形だ!人形は人形らしく大人しくしろ!勝手に出歩くことも話すことも見ることも許さない!私の部屋で私が帰るのだけを待つがいい!」
「い、いや――っ!放して!」
「皇子!ご無体はお止め下さい!」
ゲーゼが驚き、皇子を止めようとした。しかしそれを無視したレギナルトは抵抗するティアナを横脇に抱えたまま歩き出したのだ。
ティアナは涙で霞む瞳に、柱の影でこちらを見ているアマーリアが映った。やはり運命は変わらないのだろうか?皇子を愛しているから彼の態度が嫌だった。今もどうでもいいと流していればこんな事にはならなかっただろう。
(でも···皇子が好き···でも、こんなのは嫌!)
「皇子!放して下さい、お願いします!皇子!」
レギナルトの腕から逃れようにもびくともしない。まるで無理やり皇城へ連れ去られたあの日のようだった。両親が妖魔の無残に殺された誕生日···忘れられないあの日。あの時と同じく馬に跨った皇子は自分の宮に馬首を向けている。そして雨―――やっと春になったばかりの雨は優しく降ってもあの日の夕立より冷たかった。
ティアナは抵抗し続けた。前はそんな気力も無く気を失ってしまったが今は違う。こんな扱いは嫌だった。でもどんなに抵抗してもレギナルトの腕の力は緩まない。ティアナの身体を痛いぐらい締め付けていた。そして皇子宮に着いてもレギナルトはティアナを開放しなかった。ずぶ濡れのままティアナを乱暴に抱えあげた状態の皇子にドロテーやバルバラは驚いた。
「皇子!嫌っ――放して下さい!嫌っ!」
ティアナは皇子の肩の上で手足をバタつかせて叫んでいる。
「な、何ごとでございます!」
「お前達に用は無い!下がれ!誰も部屋に来るな!」
叩きつけるように怒鳴ったレギナルトは自室へと消えて行った。
「お、伯母さま、いったい皇子はどうしてしまったの?ティアナ様をどうするつもり?」
ドロテーは珍しく気弱に伯母であるバルバラに聞いた。何時もなら皇子に食って掛かる彼女だったが、レギナルトの尋常ではない様子に怯んでしまったようだった。
バルバラもティアナが初めてこの宮へ連れて来られた日を思い出していた。まるであの日の再現のようだった。バルバラは嫌な予感がしてならなかった。
「ドロテー、参りましょう。ティアナ様を助けに」
「は、はい!」
助ける···まさにそんな言葉が適当だと思う状況だろう。二人は決死の覚悟で皇子の部屋へと向ったのだった。
一方、ティアナを肩に担いだまま部屋に入ったレギナルトは内側から扉の鍵を閉めるとやっと彼女を開放したのだった。ティアナは床に泣き崩れてしまった。レギナルトはその様子に瞳をそむけながらも口を開いた。それは怒りが収まったかのような静かな口調だったが内容は恐ろしいものだった。
「私の許可無しにこの部屋から出るのは許さない。もちろん誰かに会うのもだ。この部屋には誰も入室させない···これからはずっと私だけを見て私だけと話せ。いいな?」
ティアナは上から降り注ぐその命令に涙が止まってしまった。そして自然と首を振っていた。前世の記憶が脳裏に浮ぶ―――暗い地下の部屋に投げ込まれ、世継ぎを生むまで居ろとの命令だと誰かが告げていた。まるで同じだ。
「い、いや···部屋に閉じ込めないで···それだけは···それだけは止めて下さい」
ティアナは悲痛な思いで願った。しかし···
「もう婚礼がどうだとか儀式や慣例などどうでもいい!初めからこうすれば良かったんだ!お前は私だけを愛し私だけを見つめていればいい!」
レギナルトはもうティアナを見ていなかった。いつも嫉妬で暗くよどんでいた想いに支配されているようだった。ティアナの中では皇子の言葉と前世の記憶が入り混じりだした。もうこの運命は逃れられないのか?
「―――そして世継ぎさえ産めばいいのでしょう?」
「何?」
レギナルトは振向いたがティアナの声が小さくて聞き取れなかった。
「今、何と言った?」
「―――分かりました。それで皇子の気が済むのでしたら言われるようにします」
ティアナの頬を濡らすものは涙なのか前髪から滴る雨の残りなのか分からない。澄んだ瞳には涙は無かった。ティアナは絶望しかかったがアマーリアに自らが言った言葉を思い出していた。
(皇子を信じて···もっと愛を示す···)
「ティアナ···」
レギナルトはティアナの瞳が訴えるものを感じて我に返った。その時、無礼を承知のバルバラとドロテーが部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。開錠を求め激しく叩く音にレギナルトが対応する前に床に崩れ落ちていたティアナが立ち上がって扉に向っていた。
「ごめんなさい···今日はもう私達だけにしてもらえませんか?」
「ティアナ様!」
「私は大丈夫よ。ドロテー」
「でも!ティアナ様!」
「大丈夫···大丈夫だから···ドロテー」
扉越しのドロテーは大丈夫と言われても納得出来なかった。しかしバルバラは何かを察したのか心配するドロテーを促した。
「ドロテー、私達は下がっていましょう」
「でも!伯母様!」
バルバラはいいから、と言って扉のしがみ付くドロテーを引き剥がし去って行った。その音を聞いたティアナは、ほっと息を吐くと、レギナルトへ振向いた。
「ごめんなさい。皇子···もうドロテーとも話しませんから···これが最後です···」
ティアナは嫌味でも何でも無く微笑みながら言った。
「ティアナ···」
「はい?皇子、何か?」
「·····お前は理不尽だと思わないのか?」
「いいえ。私の中で皇子のことが一番だから···その皇子が望まれる事なら私は何でも受け入れます。私はこれといって皇子に何かを差し上げる物も何か出来る事も何も無いでしょう?だから私の出来る事があって良かったと思います」
全身が雨に濡れたティアナは一段と細く儚げだったが、雨に打たれても空を見上げて咲く凛とした花のような強さを感じた。レギナルトは自分の愚かさに吐き気がしてしまった。しかし自分を支配しつつあった闇の心はそのままだ。
レギナルトはティアナの右腕を掴んだ。今回その手は払われる事は無かったがティアナの肩がビクリと揺れた。それを無視して更にティアナを引き寄せようとしたレギナルトは、はっと瞳を見開いた。掴んだティアナの腕に纏わり付いていた薄地の袖が雨で透けて、その下にくっきりと赤黒い痣が浮かんでいたからだ。乱暴にここまで運んできたがそんな痣が残るような真似はしていない。今の今まで気がつかなかったと言うよりもあったら直ぐに気が付くものだった。良く見れば手首にも肩に向って横に開いた襟元から覗く肩にもその痣が見える。レギナルトはそれを確かめる為、ティアナの衣服に手をかけた。雨で濡れているドレスは薄い布でも思うように引き裂かれない。
「きゃっ――皇子!止めて!」
ティアナの抗議を無視したレギナルトは無理やり上半身を剥ぎ取った。破れた衣服で胸元だけ押さえたティアナは震えていた。現れた白い肌にはやはり見間違いでは無く、腕や肩に痣が浮んでいる。それはまるで強い力で上から押さえつけたような指の跡?
「その痣は先程まで無かった筈だ。いったい···」
「え?」
ティアナは皇子が何のことを言っているのか分からなかった。しかしその皇子が驚いて見ている視線の先を見た。
「あ···い、いや。いや――っあぁぁ――」
ティアナは思わず叫んでしまった。自分の腕に残るものはあの前世の記憶と同じものだったのだ。無理やり押さえつけられた大きな手の跡―――腕や肩だけではなく記憶通りだとあの無理やり犯された行為の跡が身体中に浮んでいるだろう。前世のティアナは嵐のような日が過ぎた後、寝台の中で泣きながらその痣を見ていた―――あの記憶と同じ。
「い、いや、いや、いやっ―――ああぁ、助けて!いやぁ――」
「ティアナ!」
狂ったように泣き叫ぶティアナをレギナルトは静めようとしたが上手くいかなかった。とうとうティアナは過呼吸をおこし倒れ込んでしまった。
「ティアナ!しっかりしろ!ティアナ!」
助け起こそうとするレギナルトの手をティアナは無意識に払っていた。そして身体は意思とは反対に逃れようと床を這っている。
「ティアナ・・・」
また扉の向う側で開錠を求める音がしていた。ドロテーがやはり心配で引き返していたのだ。内側からのティアナの悲鳴に堪らず扉を叩いていた。
「ティアナ様!ティアナ様!大丈夫でございますか!」
皇子の叱責覚悟の行動だったが中からその皇子から返事が来た。
「ドロテー!ベッケラートを急いで呼んで来い!」
「え?」
「ベッケラートだ!急げ!」
「は、はい!直ぐに!」
ドロテーは駆け出して行った。レギナルトの滅多に聞かない慌てた声に胸が不安でいっぱいになった。そしてドロテーに引っ張られるようにベッケラートが急ぎやってきた。駆け込んだ皇子の部屋の様子は呼吸困難になって苦しむ半裸状態のティアナが床に倒れ、その傍に呆然と立ち尽くすレギナルトの姿があった。
「こいつは···皇子、邪魔だ。離れた所に行ってくれ。ドロテー、手伝ってくれ」
ベッケラートはティアナを見た途端そう言った。しかしレギナルトは動こうとしなかった。
「皇子、あんたが居るとお嬢ちゃんは治らない。出て行ってくれ」
「どういう意味だ?」
「説明は後だ!それよりもドロテー、お嬢ちゃんを包める毛布か何か持って来てくれ」
「は、はい」
ドロテーもレギナルトと同じく驚いた顔をしていた。ティアナの身体に残る痣を見たからだろう。ドロテーの場合、その痣は皇子が付けたと思ったようだが、ベッケラートの診立ては違っていた。
「お嬢ちゃん、もう大丈夫だ。安心しろ、もう怖いものは何も無いから···」
ガタガタ震えるティアナを暖かな毛布で包みながらベッケラートは優しく話しかけた。そして抵抗なく包まれたティアナを抱き抱えて立ち上がった。
「ベッケラート!何処に行く!」
「皇子、あんたは黙っていてくれないか。此処から出て行ってくれと言っただろう?彼女が安心出来る場所に移動するだけなんだから」
「私に命令するのか!」
「ああ、するね。これはオレの領分だから皇帝だろうがあんただろうが関係無い。言う通りにしてもらう」
「ベッケラート!」
レギナルトの大きな声にベッケラートの腕の中のティアナが大きく震えた。
「ほらっ、見てみろ、皇子!お嬢ちゃんのことが心配なら黙っていてくれ」
「だからどうしてだと言っている!」
ベッケラートはティアナの頭から毛布を掛け直して包み直すと溜息をついた。少しは遮断した感じになるだろう。
「見て分からないのか?皇子、お嬢ちゃんはあんたを怖がっているんだよ。だから今は落ち着くまでそっとしてやってくれ。後で詳しく話すから」
レギナルトはベッケラートの言葉に声を無くし呆然と立ち尽くしてしまった。
(私を恐れている?この私を?)