第一話 天使に鉛の祝福を
この街では、神様よりも銃のほうが信用されていた。
神様は祈りを聞き届けるとは限らない。だが銃は、引き金を引けば必ず何かを起こす。
セリナは、そういう単純なところが好きだった。
午前二時十三分。
雨に濡れた摩天楼の屋上で、彼女は二挺の拳銃を布から取り出した。
銀色だった。
ただ銀色なのではない。夜景のネオンを映し、雨粒を宝石のように散らし、雲間から差した月光さえ自分のものにしてしまう銀色だった。
ブローニング・ハイパワー。
ベルギーのFNが生んだ、二十世紀を代表する自動拳銃。その優美な輪郭は、無骨な軍用拳銃というより、熟練の職人が削り出した工芸品を思わせた。
だが、セリナの二挺は、普通のハイパワーではなかった。
スライドもフレームも、鏡のように磨き上げられたクローム仕上げ。細長いスライドの側面には、銀細工のように緻密な彫刻が走っている。
蔓草。薔薇。棘。翼。
そして、その装飾の中心には、目を閉じた天使の横顔が刻まれていた。
天使は微笑んでいなかった。
左の拳銃には、枯れた薔薇と、羽根を失った天使。
右の拳銃には、咲き誇る薔薇と、翼を広げた天使。
二挺を並べると、彫刻の蔓が中央でつながり、一枚の絵になる。
天使が堕ち、再び空を目指す絵だった。
トリガーとハンマーには控えめな金色が差され、グリップには深い琥珀色の木材が使われていた。木目の中には、細い銀線で彫られた小さな十字架が埋め込まれている。
銃というより、王侯貴族に献上される美術品。
それが、二挺のブローニング・ハイパワーだった。
セリナは右手の一挺を持ち上げ、月明かりにかざした。
「……美人ね」
誰に聞かせるでもなく、彼女は呟いた。
通信機が鳴った。
『また銃を眺めているのか』
「眺めているんじゃないわ。鑑賞しているの」
『違いが分からん』
「あなたには一生分からないでしょうね」
『仕事の説明をするぞ』
「どうぞ。私は忙しいの」
『何をしている』
「美しいものを見ているのよ」
通信機の向こうで、深いため息がした。
『お前の美的感覚は、どこか致命的におかしい』
「あなたの顔よりはマシよ」
セリナは拳銃をホルスターに戻した。
二挺の銀色が、黒い革の中へ消える。
その瞬間、彼女の顔から笑みが消えた。
『旧地下鉄九番線。武装集団が取引をしている。連中が持っているケースを回収しろ。報酬は五百万』
「敵は?」
『十三人』
「少ないわね」
『お前はいつも、そういうことを言う』
「だって、二挺あるもの」
セリナは屋上の縁に立った。
眼下には、眠らない街が広がっていた。
「じゃあ、行ってくるわ」
彼女は夜へ身を投げた。
*
旧地下鉄九番線は、二十年前に廃止された路線だった。
水の染み込んだ壁。剥がれた広告。錆びた線路。天井から落ちる雨水の音。
そこに、十三人の男たちがいた。
黒い戦闘服。自動小銃。無表情な顔。
ホームの中央には、銀色のケースが置かれていた。
「確認しろ」
リーダーが言った。
「間違いありません。あの女が来れば、すべて終わります」
「そうだな」
男は煙草をくわえた。
「今度こそ、終わりだ」
照明が消えた。
一つずつではない。
ホーム全体が、一瞬で闇に沈んだ。
男たちは銃を構えた。
「誰だ!」
暗闇の中から、女の声がした。
「こんばんは」
場違いなほど、明るい声だった。
「こんな時間まで残業? 偉いわね。私なら帰って寝るけど」
「撃て!」
銃声が爆発した。
闇が閃光で裂ける。
その一瞬、男たちは彼女を見た。
銀色の髪。黒い服。白い肌。
そして、両手に握られた二挺の銀色のブローニング。
セリナは笑った。
「ごめんなさいね」
彼女は身を翻した。
「私、残業代が出ない仕事は嫌いなの」
銃声。
右のハイパワーが火を噴いた。スライドが後退し、銀色の表面に閃光が走る。続いて左の一挺が応じる。
薬莢が宙を舞った。
男たちの銃口が火を噴く。
セリナは柱の陰へ消え、次の瞬間には別の場所に現れた。彼女の黒いジャケットが翻り、銀色の拳銃が月光のように走る。
彼女は撃つ。
走る。
笑う。
銃声の合間に、彼女の声が響いた。
「ちょっと! その弾、私の髪に当たったらどうするの!」
返事はなかった。
「聞こえてる? 美容院代は高いのよ!」
男の一人が逃げようとした。
セリナはその進路を塞ぐように現れた。
「どこへ行くの?」
男が銃を向ける。
セリナの右手が動いた。
銃声。
男の武器が床を滑った。
彼女はそのまま歩いていく。
銀色の銃身には、火薬の煙が薄くまとわりついていた。クロームの表面に傷はない。彫刻の天使は、まるで何も起きていないかのように静かに目を閉じている。
数分後、ホームは静まり返った。
十三人の男たちは、全員が床に伏せていた。生きている。だが、誰一人として銃を持ってはいなかった。
セリナはケースの前に立った。
「さて」
彼女はケースを開けた。
中には、一枚の写真があった。
古い軍用ヘリコプターの前で、五人の兵士が笑っている。
写真の端には、若いセリナがいた。
その隣には、一人の男。
アレクセイ・ヴォルコフ。
彼女のかつての上官。そして、三年前に彼女の部隊を全滅させた男。
写真の裏には、一行だけ書かれていた。
『お前の部隊を殺したのは、私だ』
セリナは動かなかった。
雨水が線路に落ちる音だけが聞こえた。
通信機が鳴った。
『セリナ? 応答しろ』
彼女は答えなかった。
『どうした?』
「……仕事の追加よ」
『何だ』
「男を一人、探して」
『名前は?』
セリナは写真を見つめた。
「アレクセイ・ヴォルコフ」
通信機の向こうで、息を呑む音がした。
『……本気か』
「ええ」
『あいつに近づけば、お前も殺される』
「そう」
『セリナ!』
彼女は通信機を切った。
そして、二挺のブローニングをホルスターから抜いた。
銀色の拳銃が、廃駅の薄暗い光を受けて輝いた。
左の天使は、羽根を失っていた。
右の天使は、翼を広げていた。
セリナは二挺を並べた。
蔓草の彫刻がつながり、一枚の絵が完成する。
堕ちた天使と、空へ帰る天使。
「ねえ」
彼女は銃に語りかけた。
「私たち、どっちなのかしらね」
答えはなかった。
セリナは笑った。
「まあ、いいわ」
二挺の拳銃を収める。
「神様に聞いてみましょう」
彼女は階段を上がり、地上へ向かった。
街には、まだ雨が降っていた。
ネオンが濡れた路面に滲み、摩天楼は巨大な墓標のように夜空へ伸びていた。
セリナは歩いていく。
復讐のために。
失われた仲間のために。
そして、二挺の銀色のブローニング・ハイパワーのために。
天使は祈らない。
天使は許さない。
天使は、二挺の銀色を携えて、地獄へ降りていく。
その銃身に映るのは、月光か。
それとも、誰かの最期の閃光か。
セリナは笑った。
「さあ、始めましょう」
夜の街に、二挺の銀花が咲く。
そして世界は、少しだけ静かになった。




