第17話 それ、フェアっすか?
シュッ
十七時四十七分、客席Bルーム。
空いた二十三卓で店長の高坂が乾いた布にアルコールを吹いている。卓のタブレットを台から外して裏返して裏側を拭く。角まで拭いて台に戻して隣の卓へ移る。
真田 皐月はパントリーの出入り口からそれを見ている。
きのう出勤して連絡ノートに名前を書いた時、新しい一行があった。出勤した者がまず読んで署名する帳面に高坂の字で「セットの時、タブレットは裏も拭く」。わけは書いていなかった。お客様が帰った卓を片付けて次のお客様の為に整える事を店では「セット」と言う。
今日は十七時に事務所で身だしなみを見られて、最後に一言だけ言われた。
『月曜、確かめをやる。俺がお客様だ』
確かめは研修の終わりにある。店長がお客様の役をして、一人で客席を持てるかを見る。通れば胸の名札の「研修中」が外れる。前に一度練習で店長がお客様の役をやった時は、決めた項目の外までネチネチ直された。
つまり月曜のお客様はタブレットの裏を見るのである。
皐月はパントリーからアルコールのスプレーと乾いた布を持って来て、二十四卓のタブレットを裏返す。
裏は思ったより汚い。指の跡が何重にも重なって角に黄色い粒が一つこびりついている。
二人とも口をきかない。高坂はいつもの仏頂面で、皐月はむくれた顔である。
五日前、同期の甘利が辞めると言い出した時、皐月は引き止めないのかと店長に聞いた。返って来たのは「面倒だ」の一言だった。甘利は次の日に「続けたい」と言って今も続けているが、皐月の中の店長はあの日から「さいってい」のままでいる。
今夜は十九回目の出勤で初めて客席Bを一人で持つ。きのうは、店員の動きを採点する金曜の常連の角田から、やっと合格の「本免」をもらった。
――次は店長だ。月曜、絶対ギャフンと言わせてやる
二十四卓を拭き終えて二十五卓へ向かう。高坂は二十六卓にいる。二十七卓、二十八卓と残りは減っていく。高坂に取られる前に一台でも多く。足が勝手に速くなる。
二十七卓のタブレットに高坂の布と皐月の布が同時に伸びる。
「走るな」
「走ってません! 早歩きの、速いやつです」
高坂は返事をしない。二十七卓を皐月に残して二十八卓の裏を拭き、布を四角く畳んでパントリーへ戻っていく。
皐月は奥の二人席を見る。タブレットが六台残っている。
早歩きの、速いやつで向かう。
*
十九時十二分、客席B。
土曜の夜は十八時を過ぎると一気に埋まる。
ピ
配膳ロボットのニゴーが中央の通路を来て二十二卓の横で止まる。ニゴーの棚に載ったハンバーグの皿をお客様が自分で下ろす。ふつうの皿はニゴーが運ぶ。人が運ぶのは熱い鉄板と子どもの料理と卓の最後の一皿である。
キンコン♪
パントリーの出入り口の上でBのランプが点く。
「はい、Bです」
「二十五卓、きのこのデミグラス、鉄板、上り伝票です」
キッチンのセンターの小幡の声である。大学一年の男の人で、皐月はまだ口をきいた事が無い。
下げた皿を下げ口に置いてデシャップ台の前に立つ。
皐月はランプを消して鉄板を木の台ごとトレーに載せ、上り伝票を指に挟む。
後ろには曽根がいる。背が高くていつも眠そうな目の大学二年で、今夜は皐月を見ている役である。何も言わない。言われないのが試験の様で落ち着かない。
二十五卓は母親と小学生くらいの女の子の二人である。
「失礼致します。お待たせ致しました、きのこのデミグラスハンバーグでございます。鉄板が熱くなっておりますので、お気をつけくださいませ」
鉄板を母親の前に置く。鉄板がジュージュー鳴って、女の子が目を丸くする。
「お料理は、お揃いでしょうか」
母親がうなずくのを見て上り伝票を卓の端の筒に差す。
決まった言葉が全部口から出た。足も走っていない。
下がりかけた時、女の子が卓の端の板メニューを指でとんとん叩く。秋フェアの写真の期間限定メニューで、紫と緑のぶどうが山になったパフェが写っている。
「ねえ、これすっぱい?」
皐月の口が開いたまま止まる。
秋のフェアは九月から始まっている。皐月はフェアの品を一つも食べた事が無い。知っているのはこの板メニューの写真だけである。
「えっと、ぶどうがですね……」
巨峰とシャインマスカット、と書いてある。字は読める。味は書いていない。
女の子は皐月の顔を見上げて待っている。
「失礼致します」
横から曽根が出て来て、笑顔で女の子の目の高さまで腰を落とす。
「こちら、秋のフェアで一番人気でございます」
「じゃあ、これ!」
「ハンバーグ、全部食べたらね」
母親がタブレットでパフェを入れる。
皐月は頭を下げて通路を戻る。パントリーの出入り口の手前で曽根が横に並ぶ。
「知らない味は言わなくていいよ。言ったら嘘になるから」
曽根はそれだけ言って三十三卓の皿を下げに行く。
――やばい、確かめで店長にあれ聞かれたら終わる
二十分後、二十五卓の鉄板が空く。皐月は「失礼致します。こちらをお下げしてもよろしいでしょうか」と伺ってうなずくのを見てから下げる。入れ違いにフロントのセンターの駒井がパフェを運んで来る。
グラスの上でぶどうが光っている。
女の子が一粒目を口に入れて笑う。
甘くて笑ったのか、すっぱくて笑ったのか。食べた事の無い皐月にはわからない。
*
二十時二十分、パントリー。
ピークが引き始め、高坂は二十時半に発注をしに事務所へ入る。
皐月は下げ口で曽根と並んで、バスボックスにグラスを立てる。
「曽根さん、秋のフェア食べた事ありますか」
「無いなあ。夕方の人は休憩が無いからね」
曽根は手を止めずに答える。
まかないは店で働く者が店の料理を三割程安く食べられる。福利厚生の一環で、休憩のある日にしか使えない。十七時に入って二十一時四十五分に上がる高校生には休憩が無い。
客席Aから戻って来た甘利をつかまえる。今夜はシフトリーダーの秋山の横についている。
「甘利さんは?」
「食べて、ません」
甘利は胸ポケットの小さなメモ帳を出しかけて書く事が無いのに気づいてしまう。
喫茶の作業台では駒井がパフェを組んでいる。夕方の高校生で一番歴が長い高校三年で、前髪を黒いピン二本で留めている。手順書とは違う順でグラスに盛っていくのに、出来上がりは写真のとおりになっていく。
「駒井さんは、それ食べた事……」
「無い」
駒井はぶどうを一粒てっぺんに置く。
「毎週盛ってるけど」
「えっ。味を知らないで盛ってるんですか」
「こういうのは、写真どおりになればいいんだよ」
駒井はグラスをトレーに載せて出入り口から出ていく。
写真どおりのパフェが皐月の前を通っていく。
*
二十一時八分、デシャップ台。
発注を終えた高坂が事務所から戻って来る。
客席の波はもう引いていて、台の上には皿が一枚も無い。パントリーには作業台の駒井と下げ口の甘利と、皿を下げて戻って来たばかりの曽根と皐月がいる。台の向こうのキッチンではルーカスがグリルの焦げを落としていて、真ん中でキッチンのセンターの小幡がパントリーのほうを向いて立っている。
高坂はダスターで台を一度拭く。拭かなくてもきれいな台である。
拭き終えて台を見たまま言う。
「あ……、秋のフェア、……まだ食べてない者は食っとけ。お客様に聞かれて答えられないと困る」
皐月の背すじが伸びる。二十五卓の女の子の顔が浮かぶ。
「私ら、休憩無いですけど」
駒井が作業台を拭きながら顔も上げずに言う。
「休みの日とか、優待券とか。できれば霞ヶ丘店で……」
高坂の言葉を台の上の棚の隙間から小幡がさえぎる。
「それ、売上っすよね」
考えるより先に口から出た声である。
キッチンの音が一つ減る。ルーカスのトングが止まる。
高坂が黙る。
「……売上だ。食ってくれ」
言い終わる前に高坂はもう台に向き直っている。顔はいつもの仏頂面で、ダスターを持った手だけがきれいな台をもう一度拭いている。
小幡は口を開けたまま黙って隙間から顔を引く。
「はい!」
急な大声に驚いた高坂の肩が跳ねる。
「わかりました! フェア全部食べます! 食べて、味でお客様にばんばん売ります!」
高坂は皐月に背中を向けて台を拭いている。心なしか少し肩が揺れている様にも見えた。
「……次」
駒井が作業台のスプーンを補充し始める。曽根は下げ口のほうへ目をやる。甘利はメモ帳に店長の言った事を一字一句写している。
誰も皐月と目を合わせない。
――読めた。月曜の確かめはフェアが出る
皐月は棚の隙間に顔を寄せる。
「小幡さん、ナイスです!」
「……ん? 何がっすか」
皐月は制服のポケットから四つ折りの紙を出す。休憩室のメモ用紙を折った物で、覚えた事を書いて持ち歩いている。
この店で食べれば、何を食べたか店長に筒抜けになる。そうしたら月曜はその裏をかいて来るに決まっている。
ペンを走らせる。
『フェア八品、全部食べる。霞ヶ丘以外で』
紙を畳んでポケットに戻す。
台の前で高坂は三度目の台拭きをしている。
*
「上がっていいぞ。あとは俺がやる。お疲れ様」
二十一時四十五分、高坂の声で夕方の高校生が上がる。
女子の更衣室は狭い。ロッカーの扉の内側に小さな鏡があって顎までしか映らない。駒井はもう半分着替えていて、甘利はリボンをほどくのに手間取っている。
皐月はスマホを出す。
樋口 六花は同じクラスの親友で、川向こうのメイプル雨宮店で夕方のフロントに入っている。土曜は六花も入っている日である。
『フェアのパフェ食べたい!!』
既読がすぐ付く。
『食べなよ~』
『うちの店じゃムリ。店長に筒抜け』
『わかる わたしも自分の店で食べるのヤダ』
『じゃあ新府は? モールのとなりのメイプル』
日曜に二人で行くショッピングモールの隣に、たしかにメイプルがある。二人とも空いているのは日曜だけである。
『よその店で?』
打ってから皐月の指が止まる。同じ看板でもよその店である。
六花の返事は速い。
『どこでも一緒だって』
六花からぶどうのスタンプが一つ届く。
「お先。あ、真田さん、夕方組のグループ後で招待するね」
駒井が鞄を肩にかけて出ていく。
皐月は制服のポケットから四つ折りの紙を出して自分の上着のポケットに移す。それから打刻をしに行く。
*
二十二時過ぎ、事務所。
高坂は火の点いていないタバコをくわえてパソコンの売上の画面を開く。机の缶コーヒーはとっくに温くなっている。
木曜から一日ずつ画面を進めて、「従業員」の会計を探す。
金曜の昼に一件、和風ハンバーグの皿とライスの大盛り。今日の昼に一件、和風ハンバーグの皿とライスの大盛り。
二件とも高坂が入れて高坂が食べた物である。
今夜の分に「従業員」の行は無い。
高坂は机の引き出しからメモ帳を出す。木曜に書いた残りの金額の下に、昼の二件の千六百三十八円を引いた額を書く。
「……八品、全部て」
くわえたタバコが小さく上下する。
残り、九万七千五百四十三円。
本日の売上 計画 545,000円/実績 498,780円(計画比91.5%)
本日の客数 計画 358人/実績 326人(計画比91.1%)
本日の客単価 計画 1,522円/実績 1,530円
今月の累計 売上 前年比102.5%/客数 前年比99.4%




