第54話【温かい訪問者達】
医務室に静寂を破る控えめなノックの音が響いた。コンコン、と二回。規則正しいノックの仕方ですぐに壱月だと分かった。
「どうぞ。」
華弦がベッドから掠れた声で応じる。扉が静かに開き、壱月が姿勢正しく部屋へ入ってきた。その表情には一切の乱れがなく、完璧な執事の顔だ。
「失礼致します。羽闇様、藤鷹様。」
深々と一礼した壱月は、視線をちらりと華弦へと向ける。その一瞬、彼の内に秘めた感情の片鱗を見た気がしたが、すぐにいつもの事務的な瞳に戻った。
私は入ってきた壱月の方を見ると、静かに部屋の中央に進み出た彼に問い掛けた。
「壱月、どうしたの?」
私の問い掛けに、壱月は澱みなく応じる。
「はい。実は先程、他の婚約者候補の皆様方が藤鷹様のお見舞いに参りたいとのお申し出が御座いました。」
壱月の言葉に私は少し驚いて目を見開いた。そうだ…皆、華弦の事を心配していたのだった。
華弦も壱月の言葉を聞いて少し意外そうな表情を見せていたが、すぐにいつもの飄々とした調子に戻る。
「へぇ?皆、僕のお見舞いに? それは嬉しいなぁ♪」
「ええ。藤鷹様がつい先程お目覚めになられたと聞き、大変安堵しておられたご様子でした。…つきましては、皆様を此方へお通ししても宜しいでしょうか?」
壱月は変わらない丁寧な口調で華弦に許可を求めた。華弦は軽く顎に手を当てて、少し考える素振りを見せた。身体はまだ思う様に動かないけれど、顔色は随分良くなっている。皆に元気な顔を見せられる状況ではあるだろう。
「ん〜、良いんじゃないかな。どうせ暇だしねぇ…それに、皆が心配してくれてるならちゃんと顔を見せなきゃ失礼だもんね♪」
華弦は軽く笑いながら許可を出した。
「承知致しました。では、皆様を此方へご案内いたしますので一度失礼致します。」
壱月は再び一礼すると、音も立てずに静かに部屋から出て行った。閉まる扉の向こうからは彼の足音が遠ざかっていくのが聞こえる。
医務室には再び私と華弦だけが残された。壱月が部屋を出てからほんの短い時間のうちに、二人きりの静寂が訪れたのも束の間となり、すぐに扉の向こうから複数の足音が近づいてくる気配がする。それは先程の壱月の足音よりも賑やかで、それぞれの個性を含んでいる様だった。やがて、再び控えめなノックの音が響いた。
「はーい、どうぞ〜。」
華弦の声に壱月が静かに扉を開ける。その背後には、お見舞いに来た三人の少年が立っていた。
「羽闇様、藤鷹様。お見舞いの皆様をお連れいたしました。」
壱月の淀みない声に続いて、夜空君、鳳鞠君、そして碓氷さんが部屋へと足を踏み入れた。彼らが部屋に足を踏み入れるや否や、医務室に纏っていた空気が一変する。張り詰めていたものが緩み、活気と安堵、そして温かい心配の色が混ざり合った彼ら特有の空気感に満たされた。夜空君、鳳鞠君、そして少しだけ緊張した面持ちの碓氷さんが華弦のベッドサイドへと進み出る。
真っ先に華弦のベッドに駆け寄ったのは、鳳鞠君だった。他の二人が傍に立つ中、普段は快活で端正な顔には安堵と心配、恐怖が混ざり合い、みるみるうちに涙と鼻水で濡れていった。嗚咽を漏らしながら、彼は叫んだ。
「うっ……ぐすっ…華弦ーっ!!」
次の瞬間、鳳鞠君はベッドに凭れている華弦に勢いよく抱きついた。
「うわっ!ちょ、ほまりん!?」
「華弦っ、無事で良かったぁぁぁ!本当に、本当に心配したんだよぉ!もう、一時はどうなるかと…っ、うわあああん!」
鳳鞠君の体から伝わる震えと必死に縋り付く力強さが、彼が如何に華弦の無事を願っていたかを物語っている。
華弦は突然の衝撃に一瞬目を見丸くしたが、すぐにくすりと笑った。そして何処か掴みどころのない、しかし底知れない優しさを秘めた響きの声で鳳鞠君に語り掛ける。
「…あらあら。羽闇ちゃんだけじゃなく、ほまりんまでそんなに泣いちゃって〜。相変わらず元気だねぇ♪」
華弦は抱きついてくる鳳鞠君の頭を左手で優しく、戸惑いがちに撫でた。
「んー…男の子に泣きつかれるのも中々新鮮な体験だなぁ。ま、ほまりんは可愛い弟みたいなものだから、いっか♪…心配掛けてごめんね?もう大丈夫だから。」
泣き続ける鳳鞠君の背中を、華弦はそっと撫で続ける。鳳鞠君は華弦の確かな温もりと声に縋る様に、暫くの間嗚咽を漏らし続けた。
私はその様子を傍で見つめていた。鳳鞠君の純粋な心配とそれを受け止める華弦の優しい対応に、胸が温かくなるのを感じる。
夜空君と碓氷さんも華弦に駆け寄り、鳳鞠君の様子を静かに見守っている。夜空君は心配そうに眉を下げ、碓氷さんは腕組みをしたまま真剣な眼差しを華弦に向けていた。
鳳鞠君の嗚咽が少しずつ落ち着きだし、体を離し始めた頃、夜空君が抱えていたバスケットを手に静かに華弦に話し掛けた。
「藤鷹君、本当に無事で良かったよ。これ、お見舞い。沢山持ってきたんだ…美味しいもの食べたら、早く元気になれるかなと思って。」
夜空君はそう言って、華弦のベッド脇にある小さなテーブルの上に大切そうにバスケットを置いた。そこには艶やかな光沢を放つ林檎やオレンジ、瑞々しい葡萄…色とりどりの果物がふんだんに盛られている。その一つ一つが、彼の優しい心遣いを物語っている様だった。
「わーお!ありがとう、よぞらん!美味しそうな果物がいっぱいだねぇ。これ食べたら、一気に元気になっちゃいそうだ♪」
冗談めかしてそう言いながらも、華弦の表情には夜空君への感謝が浮かんでいた。部屋には婚約者候補達の安堵の溜め息、優しい声、そして果物の甘い香りが混ざり合って穏やかな空気が流れていた。
張り詰めていたものが解け、皆の顔にようやく本来の柔らかさが戻っている。その中心で少し疲れてはいるものの穏やかな笑みを浮かべる華弦を見て、私の胸にも深い安堵が広がった。心配して駆けつけてくれた皆の優しさが、この空間を温めているのだと私は改めて感じていた。
第54話お読み頂きありがとう御座います!
華弦の元に集まった温かい訪問者達。華弦を心配し、安堵する婚約者候補達の姿に深い絆を感じて頂けていたら幸いです。
次回もお楽しみに!