第47話【鎖の侵蝕】
華弦は夜の庭園に舞う様に、流麗な剣捌きで艶に迫る。その身のこなしは一分の隙もなく、研ぎ澄まされた剣先が艶の動きを捉え、鮮烈な光を放つ。その閃光は敵との静かなる対峙を切り裂き、息を呑む程に美しい弧を刻んでいる。彼の細剣が繰り出す軌跡は艶の進攻を阻む、夜に咲く絢爛な光の華だ。見る者はその一瞬たりとも目を離せない。庭園に吹く微かな夜風が彼のジャケットの裾を揺らし、剣の煌めきと重なり、幻想的な雰囲気を深める。
「…随分と美しさを弄ぶな、藤鷹華弦。」
艶の声は淡々としたものだったが、その奥には微かな苛立ちが滲んでいた。彼女の瑠璃紺色の瞳は華弦の速い細剣の動きを凝然と追う。鍛え抜かれた精神は視覚的な幻惑を容易に振り払うが、空気に溶け込む甘美な香りは否応なく彼女の感覚を鈍く蝕んでいく。
「そんな苛ついた目で見つめないでよ、艶ちゃん。夜はまだまだこれからなんだからさぁ…美しさだけじゃなくて、少しはこの香りも楽しんでくれたら嬉しいんだけどな♪」
華弦は口元には薄い弧を描きながらもその瞳には冷たい光を宿しており、流れるような剣技で艶に迫る。軽快な話し方と裏腹に、彼の剣戟は死の訪問の様だと感じた。艶は僅かな動きで重い大鎌を盾に、内側から淡く光り輝くクリスタルの刃を受け止める。
「貴方のその能力…確かに並外れてはいるが、私には無意味。」
刃を受け止めた反動を利用して、艶は遠心力を加える様に大鎌を再び振るわせると周囲の幻の花を薙ぎ払う。だが、それは幻想。実体のない花々は容易く大鎌をすり抜け、再び彼女の周囲で咲き誇る。その一瞬の隙を突き、華弦の細剣が即座に艶の頬を掠めた。
「おっと、危ない 。あと少しで艶ちゃんの美しい肌にもっと深い傷をつけてしまうところだったよ。掠めた程度で済んで良かったね♪」
華弦は優雅に舞踏の様な剣構えを取り、余裕綽々とした態度を崩さない。しかし、彼の内奥は静かに波立っていた。この剣の香りは艶の動きを確かに鈍らせている。だが、その核となる最も強力な幻覚作用を持つものだけは彼女に影響を与えていなかった。
「(…これ程の香りなら、普通の人間は既に五感が麻痺している筈なんだけど。ま、羽闇ちゃんだけは僕が予め手を加えて、香りの効果を完全無効化にしているから心配ないけどね。)」
近距離での攻防はリスクが高いと判断した艶は、素早く華弦との距離を取った。そして、彼女の大鎌の柄尻から黒い鎖が蛇の様に空気を這い、華弦の持つ細剣に絡みつこうとする。しかし、華弦は研ぎ澄まされた反射神経で体を僅かに傾けるだけでその弾力のある鎖の攻撃を鮮やかに回避した。
「うんうん、距離を取るってのは賢明な判断だ。だけどさ…残念ながらこの香りは距離があっても有効的なんだよねぇ?」
華弦は甘く囁きながら、細剣から更に強烈な甘い香りを放たせる。それは単なる香りではなく、花粉の様な粒子を含み、空気中を漂って艶の粘膜へと侵入していく。その瞬間、彼はほんの僅かに意識を香りの拡散に集中させた。艶の眉が顰められたのを確認し、効果があったと油断したのだ。長引く拮抗状態に早く決着をつけたいという焦りもあったのかもしれない。彼の意識は、目に見えない香りの奔流とその効果の確認に一瞬だけ傾いた。
そして、その隙を艶は見逃さなかった。鎖の動きは陽動。次の狙いは、華麗な剣捌きに目を奪われている彼の足元だった。まるで生き物の様に蠢く黒い鎖は音もなく、華弦の足首から身体中に絡みつく。
「これは…!?」
「…捉えた。」
艶の低い声が勝利を確信すると、黒い鎖に纏わりついていた目に見えない鋭い棘が華弦の肌を深く抉った。
「ぐっ…!」
優雅に舞い踊っていた華弦の動きが一瞬にして崩れる。激しい痛みに顔を歪ませ、彼の淡いピンク色のジャケットがみるみる鮮血に染まっていく。
「…単なる棘だと思わない方が良い。これはじわじわと貴方の神経を蝕む、特別な毒を塗ってある。」
艶はその表情を微塵も変える事なく、冷淡な声でそう告げた。華弦の顔が苦痛に歪み、痺れる様な痛みが足から全身へと広がっていくのが見えた。彼の意識が朦朧としているのが、その焦点の合わない瞳から分かった。苦悶の表情を浮かべた華弦の口元から鮮血が溢れ出た。
「げほっ…身体が、痺れて…!」
華弦は苦痛に歪んだ声で呻いた。それでも彼は気力を振り絞り、細剣を辛うじて握りしめている。
「華弦…っ!」
それまで息を潜めて見守っていた私の口から、悲痛な叫びが漏れた。私の声は恐怖、悲しみ、そしてどうする事も出来ない自分の無力さが入り混じり、震えていた。
ペンダントを拾いたいが、艶の全身から放たれる殺気は氷の刃の様に私の肌を刺し、一歩でも動けばあの巨大な鎌が容赦なく振り下ろされるだろう。心臓が激しく脈打ち、全身が鉛のように重く感じて足が地面に縫い付けられたみたいに動かない。
華弦があんなにも苦しんでいるのに、私はまた震えている事しか出来ないなんて。私は今まで何の為に特訓を…!
「…さようなら。」
艶はそう静かに告げると、黒い鎖で拘束されたままの華弦に向かって大鎌を振り上げた。その刃は庭園のガーデンライトの光を冷酷に反射し、今まさに彼の命を刈り取ろうとしていた。
頭の片隅で月のペンダントの存在がよぎるが、そんな事をしている暇はない。とにかく今は一刻も早く艶の動きを止めなければ手遅れになってしまう。
「やめてぇぇーーっ!!」
それまで恐怖で足が竦んでいた私だったが、鎌の刃が華弦の首筋に迫るのを目の当たりにし、全身が強張り、息が止まる感覚に襲われた。だが同時に彼を助けなければという強い思いが湧き上がってきた。私の張り上げた声は酷く震えている。それでもこの状況を変えたい。その一心で考えるよりも早く体が反応し、足元のハイヒールを脱ぎ捨てると剥き出しの足で地面を強く蹴り上げた。
間に合わないかもしれない。でも、何もしないで後悔する位なら…!
その時だった。
ズガンッ!
重く空気を震わせる強烈な音が鼓膜を叩きつけ、必死に踏み出した私の足はその衝撃で一瞬にして動きを止めた。
「うっ…!」
悲鳴を上げたのは艶だった。彼女の脇腹から鮮血が噴き出し、信じられないといった表情で撃たれた箇所を見つめている。そして、ゆっくりと苦痛に歪んだ顔を上げると足元のガーデンライトの光に照らされた人物に視線を向けた。艶は状況を理解し始めたのか、驚愕と痛みに息を詰まらせながら掠れた声で呟いた。
「貴様は…!」
その銃を持っていたのは―。
「壱月…!」
私の震える声が夜の庭園に小さく響いた。
壱月は漆黒の銃口を艶に向けたまま、険しい表情で何も言わずに立っている。私達を迎えに来てくれた筈の壱月がどうしてこんな事を?それに、あの銃は一体…。
私は目の前で起こっている事が全く理解出来ず、私は只々混乱していた。
第47話お読み頂きありがとうございます!
華弦の流麗な剣捌きと、それに伴う甘美な香りが織りなす幻想的な攻防は私自身も描いていて魅了されました…!
艶を追い詰めたと思いきや、彼女の冷静な判断と強力な鎖の能力によってまさかの逆転劇。ですが、そこに壱月が登場!本当に彼は只の執事なのでしょうか…?
次回もお楽しみに!