「スピード感のある文章」
小説を書くに当たって、アイデアが浮かんだ時に私は特にメモをする事はない。忘れた時は、結局は時間が経ったら忘れる程度の発想だったのだろうと考える事にしている。
代わりに私は、通学中や入浴中、PC画面と向かい合っている状態でない時に思い浮かんだ場面については映像の形で頭に残す。読んでいる時に情景が頭に浮かぶ小説というものは私の中で大きな評価基準の一つだが、それは「どれだけ内容が心に残ったか」という事の言い換えにもなる。アニメの場合は、内容がどうであれ否応なく映像が流れるので、細部は措くとしても大まかな物語の流れは観終わってすぐに忘れるものではない。
頭の中に映像を浮かべ、書くまでの間に何度も再生し、時にはBGMなどを付けたりもしながらイメージを固めていく。それから、いざその場面に至った時には適宜止めながらその映像を言葉に置き換える。無論、執筆中に最初に考えていたものよりもいいと思われる場面展開が浮かべばそちらに変える事もある。
この「頭の中での映像化」という手法を、伊坂幸太郎さんはよく使うという。彼の小説にはアクションシーン──戦闘だけではない──がしばしば登場し、私も今のところそういった場面の登場しない長編は書いていないが、この手法はアクションシーンを書くのに特に有効な手段だろう。映像で残るのはあくまで大まかな流れだけなので、会話など複雑な部分が重視される場面を記憶しておくにはやはり難しいところがある事は否めない。
私の作品はしばしばアニメ的だといわれるし、自分でもそのように思っている。実際に、私は文章の書き方こそ文学作品から学んでいるが、ストーリーの構成やキャラクターの設定はほぼアニメが参考である。近年はライトノベルや漫画を原作とした作品の方が目立っているので一周回って元に戻っているような気がしないでもないものの、私が専ら参考にするのは、そういったものよりも元からテレビ放送用として企画され、制作されたものだ。
しかし一方で、浅田次郎さんは「小説家という聖職」(『公明新聞』二〇〇三年九月七日号掲載、文春文庫『君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい』収録)というエッセイの中で次のように述べている。
大正のなかばには商業映画が盛んになり、戦後は映画の黄金期に続いてテレビが登場した。その結果、小説家は頭の中にスクリーンやブラウン管を置き、そこに映し出される情景を文章に変換し始めたのではないか。
そのような手法によって書かれた小説は、たとえ私小説であれ一人称の小説であれ、観客席の闇から物語を他人事のように眺める客観を免れぬのである。
ことに、小説を小説から学ばず、主として映像表現から学んだ世代にはこの傾向が顕著で、描写がキャメラワークであるから即物的かつ冗長になり、いきおい読者は退屈な長篇小説を読まされるはめになる。
私はこの指摘に関しては、必ずしもそうとは言い切れない、と思っている。先に述べた通り私の創作のお手本はアニメと同じくらいに文学作品が大きな割合を占めている、という事もあるが、むしろ描写が映像的な作品は、情景が頭に浮かぶからこそ没入出来るのではないだろうか。浅田さんの場合、本を読む速度が音読の速度であると本人があちこちで述べているので、それでは恐らく多少細部の書き込みが多い作品はスローテンポに感じるだろうなと私は思う。
しかし、確かにあまりに一場面が詳細に書かれすぎると、読んでも読んでも先に進まないような気がする感があるのは否めない。映像では一つの画面が表示され、視聴者がそれを瞬間的に見、それで済む事であっても、小説では書かれない事には「見よう」がない。ジレンマである。
私がアクションシーンを書く時は、時間の流れを非常に意識する。「一瞬」や「次の瞬間」や「と同時に」などといった言葉が非常によく登場し、予測変換にそれらが表示されるようになって使いすぎに気付き、慌てて修正する、という事もある(あまり同じ言い回しを使いすぎるのは個人的には良くないと思っている)。そういった部分を書きながらイメージしているのは、これも映像的な表現ではあるのだが、スローモーションの技法だ。決定的な瞬間の前に一瞬、溜めを作る。野球で喩えると、バットに球が当たり、手への一瞬の抵抗の後かっ飛ばす、というような。
この「一瞬の抵抗」に当たる部分で溜めすぎ、直前のカットからの勢いを維持しきれないと、途端にへなへなしたものになるのである。逆に、その直後に振り切れた感があるとスピード感が維持される。
場面展開が上手くスピード感が途切れないアクションシーンは、たとえ文量を割いたとしても退屈はしないのだ。バトルものを書く作家の作品を読みながら私が「凄いな」と常々感じているのは、三十ページ程戦闘描写が続いても冗長な感じがしないという事だ。
一時期私は、冲方丁さんの『マルドゥック・ヴェロシティ』などで有名な「クランチ文体」を意識していた事があった。文章中に「──」や「/」、更には演算記号である「+」や「=」までを取り込み、単語の断片を繋げるという手法で書かれた文体の事で、米国のSF作家ジェイムズ・エルロイが著書『ホワイト・ジャズ』の中で使用している事から「ホワイト・ジャズ文体」とも呼ばれる。
テンプレート的な「○○は××をして、『△△』と言った」などというフレーズを省略出来る為、疾走感が生まれるのだそうだ。ミステリ評論家の霜月蒼氏が『マルドゥック・ヴェロシティ』の解説で「単語それぞれが分断されている英語の性質に根差したエルロイの文体」という言葉を使っているが、実際にこの小説の冒頭を少し引用してみると、このような感じである。
マルドゥック市──ウェストリバー沿い。
つらなる安価で劣悪な建物群/ひび割れたアスファルト──銃撃を交わす二人の怪物=男と少女。
男=ただ一挺で最悪の重圧を生み出す巨大な拳銃。かつての異名=”徘徊者”──目に見えぬ重力で壁面を移動。相手の攻撃で喪失した左脚──重力を義足代わりに。
少女=両手に銃/白いスーツ──”万能道具存在”による限りない武器の供給。
これまで男が戦ってきた中で最も若く、優秀な、類い希なる同胞──その右手首から伸びるワイヤーがビルの窓枠に絡みついて飛翔。
男が引き金を引き絞る/少女が壁を蹴る──交錯/男の放った弾丸と少女の放った弾丸が正面から激突──目も眩む炎/飛び散る鋼の輝き。(ハヤカワ文庫)
これを模倣して、本エッセイの冒頭を私なりにクランチ文体に直してみると、このようになる。
小説を書くに当たって。
私──アイデアが浮かんだ時──メモをする事=特になし。
忘れた時──「結局は時間が経ったら忘れる程度の発想だったのだろう」。
私──思い浮かんだ場面=通学時/入浴時=PC画面と向かい合っている状態でない時──頭に記憶──映像の形。
読んでいる時に情景が頭に浮かぶ小説=私の中で大きな評価基準の一つ。言い換え=「どれだけ内容が心に残ったか」。
アニメの場合──内容がどうであれ否応なく映像が流れる。=大まかな物語の流れ──細部は措くとしても観終わってすぐに忘れるものではない。
冲方さんが書けばまた違った形になるのだろうが、大体このような感じだろう。
この手法で書くと、「~だった」「~である」といった文末が省略出来るので体言止めが非常に多くなる。私は初めてこの文体に触れた時、慣れれば確かにスピード感を感じるようになったものの、慣れるまでは読みにくいと感じるかもしれない、という感想を抱いた。
そこで、私はこの文体の”いいとこ取り”をするつもりで、幾つかの作品でこれをアレンジしたものを使用した。具体的には、①戦闘シーンでのみ使用する、②記号のレパートリーを増やす、③通常の文体の中に織り込む、という方法だ。
私の連載作品『フランチャイズ・フラン』の原型となった作品に「ハルモニア」という短編小説がある(本当は長編にしようとして、一話分だけ書いて解体した)。魔法少女ものを書こうと考えて書き始めたものの、ヒロインの能力が魔法少女にしては格闘技チックになった事──「魔法少女」というより、単に「魔法を使う少女」になった──、明るく楽しい話にするつもりが暗くなりすぎた事で一から書き直したものだが、出来自体はあまり悪くないような気がしたので公開し、「小説家になろう」にも投稿した。この作品の中に、アレンジ文体が特に顕著に登場する。
具体的に、分かりやすい箇所を抜き出してみると、
母が見ている。=自分が無価値であると、いつでも見做されるという事。
推測……ブレス。恐らく、熱放射線を伴う。
威力……触手からのビーム < ブレス。回避──不可能。∴相殺しかない。
右手首で、”切り札”の破砕×三回。それぞれの断片は赤、緑、青の三色のエネルギーとなり、籠手を上書きするように律の拳に纏わる。
加法混色……R+G+B=白。
──手刀を形成/対象:引き続き同じ相手→体を開き、横へ跳躍→延髄斬り→機械兵の頭部が落下→掌外沿に激痛。=失敗。
×二体分。
目を見開く憑魔/その虹彩一杯に拳を映し出す律→眼球に肉薄し、膨張/爆散させる突き→大きく欠損した肉壁を貫いた拳が、その向こう、上空に向いて開かれた口腔に到達する。滝の如く、透明な血液がその空間へと流入した。
結局、オーソドックスな文体の方が無難だ、という事になってフランでは採用しなかったのだが、冲方さんのクランチ文体が、それが使用されている文全体で一貫されているのに対し、私のアレンジ版は先程の抽出箇所の三つ目、五つ目辺りが分かりやすいかもしれないが通常文体の中で特にスピード感を出したい箇所にだけ埋め込んでいる。
他には、「なろう」の「二次創作」に掲載している中編二編にもこのアレンジ文体が登場している。それらを最後に、創作の場を「なろう」に移してから執筆した『夢遥か』以降の作品では出ないが、
風向は北東、風速は五メートル毎秒=やや強い風。(『闇の涯』)
次の瞬間空気を満たす、無数の銃声/扉を震わせる衝撃。これが破れた時、僕たちは全身を蜂の巣にされる。(『神器』)
といった箇所に、まだ若干影響が見られる。何故そんな細かい部分までを覚えているのかというと、「やってしまったな」という後悔──と言ったらやや大袈裟になるが──があるからだ。『夢遥か』では、さすがに西洋数学の演算記号などを使用したら和風の世界観が壊れかねない為使用していないが、複数人での会話の場面で「○○は××をしながら言った」というような箇所を「○○──××をして」と、接続助詞で終わるような形で形で句点を打っている事がある。
三人以上での会話の場面を書く際は、余程喋り方に癖のある人物でないと発言が誰のものか分からなくなる為、「○○は言った」という説明を頻繁に挿入せざるを得なくなる。しかも、全てがこの調子だと読んでいて単調になるし、説明文であるという雰囲気が露骨に出てしまうので、「××をしながら」や「△△のように」といった修飾も必要になり、更に文章が長くなってしまう。
戦闘でも会話でもそうなのだが、このような様々な試みを経て私が冗長化を避ける為に特に重要だと結論づけたのは、登場人物たちの言動をターン制にしない、という事だ。
戦闘描写で、二者が交替で攻撃を出し合い、受けるなり防ぐなりしているだけでは単調になる。単調だとそのうち読んでいる方が退屈だと思い始め、冗長さを感じるようになる。避ける為には、幾度も急展開を挿入し、それ以外の時間経過を表す場所に関しては「それから暫し両者は剣戟の応酬を交わし合った」や「もう何分経過したのかも分からなくなってきた頃」というようなフレーズを入れ、可能な限りあっさりと済ませるようにする。また、それ程長引かせる必要のない戦闘──雑魚とのエンカウントなど──は、潔く短いままで切る。
また会話に関しても、人物たちが喋っているだけにならないようにする。発言の際にどのような心情だったのか、また相手の発言をどのように受け止めたのか、どのような背景事情を連想したのかなどを地の文で入れる。これも、やりすぎるとテンポが悪くなるので匙加減が微妙なところではあるが。
一方で、これもアニメ的ではあるのだが、「……」や「──」を駆使する事で、地の文で書かなくても心情が伝わるようにする、という事もある。アニメには地の文がない為、脚本では声優にどのようにその台詞を言って欲しいのかは()で簡単に書き加えてあるだけだが(宝島社文庫『冲方丁の「アニメ&マンガ」ストーリー創作の極意』に収録されている、アニメ『蒼穹のファフナー RIGHT OF LEFT』の脚本を参照)、小説では今度は音声がない。ので、私の「アニメ的な小説」はややもすると自分で自分の首を絞めているような節があるのだが、例えば「ああ」という返事一つを採っても、ただ「ああ」と書くのと「……ああ」や「ああ!」、或いはどちらも使って「……ああ!」と書くのではニュアンスががらりと変わる。
因みに冲方さんはアニメの脚本を実際に書いた時、この「ああ」という感動詞一つに、一切の説明文をなしに入れたら音響監督から突っ込まれたのだそうだ。「相手の感情に気づいたの? 相手に共感を示したいの? それともこれ、単に会話をつなげたいだけ?」という風に(集英社文庫『もらい泣き』より)。
やや脱線した。
要するに、浅田次郎さんが述べたように「映像作品のような手法で書かれた小説は冗長化する」というような事は、一概には言い切れないという事だ。何を削り、何処に厚みを持たせるのかの匙加減次第で、同じ場面を描写するのであっても印象は容易く変化を起こす。
無論、読み手の受け止め方も様々なので、私が自分なりに意識を持って書いたスピード描写を成功だと取る人も、失敗だと取る人も居るだろう。だが、十人が見て十人が口を揃えて「冗長だ」などと言ったりしない限りは、全く的外れな事をしているという訳でもないだろう、と思う。
最後になるが、しかしやはり私としては、物語を小説という形で発表したい人は映像作品だけでなく、既存の小説そのものも読んで欲しいな、という気持ちもある。特に、文豪など先人の文章を。
河野裕さんは、自分で小説を書き始める以前の中学時代、文豪・夏目漱石とラノベ作家・秋田禎信さんの作品に触れて両方のテイストを同時に読んでいたらしいが、私もそのように在りたいものだと思う。




