「傷」
O Freunde, nicht diese Töne!
sondern lasst uns angenehmere
anstimmen, und freudenvollere.
(おお友よ、このような音ではない!
更に心地良い歌を、
歓喜に溢れた歌を歌おうではないか)
* * *
その階段を訪れた時、先に来ている者は誰も居なかった。
ビル街の向こうから微かに響く、自動車の走行音。木々の葉を揺らす風。朝が来たのだ、と少女は思う。
今朝カーテンを開いた時、暁光に口元が歪んだ。
晴れていて良かった、と思った。
階段を上る。そう急でもなかったが、一段も飛ばす事なく確実に。上昇するに連れて風を感じ、少女はその風を好む。
同時に、突風の記憶が胸裏に去来した。
あれは去年の八月の事──。
* * *
トラックに照り映える日差し。
陽炎がゴム質の地面に揺らぐ炎天直下。それすら霞む熱狂。
スターターピストルの音を今か今かと待ちながら、手の中でバトンが熱くなっていくのを感じていた。息を吸えば、肺の底まで焼けそうな気がした。
少女は第一走者でありながら、その夏の主人公ではなかった。
ただ胸の内で血が震え、お前ならトップであいつに繋げられると囁いているような気になっていた。
追い風は吹いていなかった。
汗が止め処なく流れていたが、それは怯えの為ではなかった。
──自分たちで、ここまで来たのだ。
スタンドの下で、お題目のように円陣を組みながら、少女はアスリートビブスの背に見知らぬ番号を負ったそのメンバーをずっと横目で見ていた。
自分と張り合ったからここまで来られたのだと、彼女は言っていた。
その事に、少女は驚いた。
結局敵わなかったような気もしたが、十人十色などと表面上では言われる夏、主人公になれる者などそうざらには居ない事は、最初から分かっていた。だから最後のタイム測定の後は、彼女がそう在れる為に自分はバトンを繋ぐ副主人公で在りたい、と考えた。
仲間の居ない勇者など、存在しない。
その”絶対”だけは、崩させたくないと思った。
自分は勇者にはなれないが、その相棒のポジションくらいにであれば、なれたのではないか。そのような自負があった。
彼女を例外にしない為に、少女がすべき事は一つだった。
突風を起こす程走れ、と自らに叫んだ。
* * *
夏の終わりは、寂しいものだった。
診断を受けた時、少女の足は二十歳を過ぎるまで、以前と同じように長距離を走る事は出来ないだろうと医者から宣告された。歩く事も、階段を上り下りする事も出来るのに、何故それだけは無理なのか、と少女は夢中で問い質した。
どのような過酷なリハビリにでも耐えよう。もう一度あの場所で彼女と共に走れるのなら、来年の夏という最後の機会をものに出来るのなら。
彼女の失望の顔を見ないで済むのなら。
再び、資格を得られるのなら──。
だがそれは、儚く叶わない願いだったらしい。
秋雨の激しく叩きつけるグラウンドを、ぐるりと囲むフェンスの脇。そこで、少女は彼女と最後の会話をした。
それは、最悪の結果に終わってしまった。
悪いのは自分の方だった、と、少女は今でも自分を責めている。
走る事を許されない時間が、秋から冬へと移ろった。顔を出せずに──否、出さずにいるうちに知ったのは、彼女がもう学校に居ないという事だった。ごくありふれた別れだった。彼女は、家族の都合で引っ越したのだ。
そこに、未練は存在しなかったようだった。
少女は恐らく、これから先も知る事はない。彼女もまた、同じように抱えているものがあり、それをきっかけに、少女の傷に対してある種の安堵すら覚えるようになっていたという事実を。
それが少女にとって幸いだったのか否かは、この時はまだ誰も知らない。
人智を超越した者であっても、その時点では判断出来なかったのではないかと人は言うだろう──。
* * *
その古いビルには、昔から中高生の間で囁かれている噂があった。
優しく、残酷な都市伝説の類だった。曰く、その屋上から飛び降りた者は生まれ変わる事が出来るという。
高台から何度か、少女はビルを見た事があった。そのような噂が人口に膾炙していればそこは飛び降りの名所となっていて然るべきだが、それを阻むような高い柵やフェンスは外周に設置されていなかった。
本当に噂を信じてそこに向かう人が多ければ、今頃ビルの屋上はとうに立ち入り禁止になっていただろう。街にはあまりに、街の風を楽しめなくなってしまった人間が多い。しかし少女は未だ、ビルの下に規制線が張られている光景を目の当たりにした事はなかった。
故に、少女は今まで噂を信じていた訳ではなかった。
生まれ変わりがあるなどという事自体が、そもそも信じられないのだから。
それでも、もしも奇跡が起こったのなら──そう思う気持ちは、喩えるのであれば宗教を信じていなくても、実在するなどと思っていなくても、神頼みをする事があるようなものだった。
行き着く先が同じならば、せめてもの願掛けが出来る場所であればいい。
それが、少女の理由だった。
一歩ずつ、階段を上って行く。スニーカーを履かなくなってから今まで、やや底の高いローファーの立てるコツコツという音も、今や少女の耳には慣れたものとなっていた。
* * *
階段室の暗がりを一瞬だけ通過し、少女は屋上に出た。
ここまでやって来たのだと、ややもすれば晴れがましい気分にすらさせる眩しい光だった。掌を掲げ、目への直接の入光を防ぎながら空を仰ぐ。
青天白日。見知らぬ場所へ旅立つには、幸先が良すぎる程の日和。
発つ鳥でありながら最大限に跡を濁して行く自分が、恥ずかしいものに思えてくる程。UFOでも見つけられそうな空だ。
その後の人々に誤解から余計な手間を掛けさせないよう、少女はローファーを脱いできちんと揃えて置いた。
滑らないようソックスも脱ぎ、丸めて靴の中に入れる。
汚れの目立つコンクリートに手を付ける事は些か憚られ、利き足を後方に下げてスタンディングスタートの構えを取る。
行く手の外周の縁は、普通に立った時の膝程度。ハードルを跳ぶような気持ちで足を大きく開いて飛び出せば、跳び越えられない程ではない。晴れ舞台にめかし込むつもりで裾の長い白のワンピースを着て来た事は失敗だったか、とも思ったが、そこまで心配する必要もなかった。
前方を見据える。
蒼穹と、視線よりやや高い位置にある太陽が、ここまで来られるか、と自分を誘っているような気にさせる。
──別に、待っていてくれなくていいよ。
そのような事を言ったのを思い出す。
──絶対に、追い着いてやるから。
走り方を、飛び方を忘れてしまう前に。
あの炎天を支配していた八月中旬の陽光には及ばずとも、これだけ晴れていれば十分だと少女は思った。
息を吸う。
鼓動を宥める。
頭の中で、オン・ユア・マークス、セット、の声が響く。
続く、幻聴のスターターピストル。
少女はコンクリートを蹴った。
徐々に加速を付け、やがて最高速度に到達する。
走れている、と思い、その事に満足感が広がっていく。当然ながら、裸足で、万全とは言い切れないコンディションの足だ。トラックを走っていた時と完全に同じようには行かなかったが、それでも少女は、今自分の出している速度が最高速度だと確信していた。
無窮が、眼前に迫る。
──飛んだ。
──飛べた。……飛べている?
──鮮やかな程に、少女は落ちていた。
屋上、階段室の出口からは、彼女の頭頂が下方に消えて行った情景が見えた事だろう。
タンッ! という、柵を跳び越える瞬間の音が尾を引き──。
後には、静寂だけが残った。きちんと揃えられたローファーだけが、無人となった屋上で日光浴をしている。
物寂しい光景だ。
……………
数秒間、時が経過した。
当然のようにこの後響くはずの、どさりという鈍い音は聞こえなかった。
……………
と、不意に。
ばさり、という鳥の羽ばたきのような音が響いた。
何かが柵の下から浮上し、屋上よりも高くへと昇って行く。
それは、もしここにカメラがあったとしても捉えられないであろう、一瞬のうちに起こった事だった。
それは上昇し、空の高みに至って静止した。
──少女だった。だが、姿は最早先程までの彼女のものではない。
晴れの日の衣装として着て来た白いワンピースは、真紅の地に、各所に黒をあしらったドレスに変わっていた。髪と瞳の色は、とても人工のものとは思えない程に見事な黄金色に。
そして──その背中からは、一対の巨大な翼が生えていた。
猛禽類を彷彿とさせる、雄々しくも柔らかな純白の翼が。
彼女は笑っていた。
見上げた時、太陽の南中を待つかのような位置で、両手を広げ、今生全ての桎梏を捨て去ったかの如く晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。
──ほらね。ちゃんと飛べたでしょ?
そのような言葉さえ、誇らしげに聞こえてきそうだった。
少女は暫し、パノラマを展望するようにそこに佇んでいたが、やがて徐ろにその翼をはためかせた。
彼女はその時、何を思っていたのだろう。
それは少女自身にも俄かには表白し難い事であり、強いて言うのであれば──感動に近かったのだと思う。
世界にはまだこんなに、自分が翔け抜けていい舞台があるのだ、と。
彼女は目一杯、その空を翔けた。均された真新しいグラウンドの土を、最初に足跡で汚すかのように。
陽光に霞み、小さく消失していく少女だった黒点から、無人の屋上に一枚の羽根がひらひらと舞い落ちて来た。
それは柵のすぐ内側まで落ち切り、その数秒後、さも当たり前の事であるかのように風に浚われ、何処へともなく流離って行った。
* * *
日が傾き、夜になるまで飛び続けた少女が眼下を見下ろすと、湾岸のテーマパークが目に入った。その場所を象徴するような巨城のベルクフリートの周囲に、鮮やかな花火が上がっている。
それを仰ぐ人々の目に、闇間を縫うように飛行する少女の姿は映らなかったかもしれない。
しかし彼女は微笑み、そっと彼らに手を振った。
そのままネオンの及ぶ圏から離脱するように更に上昇し、何物にも霞まされる事なく星が見える高度を目指そうとする。
下方の拍手と歓声の中に、彼女は微かにこの世ならざる歌声を聞いた。
それはあの歓喜の歌を、あたかも彼女自身の再生と新たなる存在の生誕を祝福するかのように、繰り返し歌い続けているようだった。
(傷 終)
お読み下さりありがとうございます。掌編程度の短さの本作ですが、これは元々大学の友人が授業の一環として3DCG映像で制作した、西尾維新さんの『傷物語』をモチーフにしたショートムービー「Wound Story」をノベライズしたものです(ちゃんと友人本人に許可は取っています)。とはいえ、陸上競技を思わせる主人公(?)の少女の過去などは私が勝手にでっち上げました。
元々が映像作品なので、私にしては珍しく三人称視点からの描写に徹した文章になりました。それでも解釈を限定しないよう、わざと視点=全知というような書き方は避け、ぼかしたような表現が使われている箇所もあります。自分では上手く行ったと思っていますが、お読みになった方々はどう思われたのかな……と、やや不安です。