「空想と幻想」
空想と幻想の似て非なるものである事は、受け手または語り手=「視点」の立ち位置が対象物にとって内にあるか外にあるかという点に於いて判断される。
空想は、「視点」が対象物の外側から事を俯瞰しているように感じられる。そこでどのような荒唐無稽な事が発生しても、それは寓話的な暗喩であり絵空事であり、実際には起こっていない事だと見る事が出来るので、必然的に受け取り方は対象物の先に居る誰かの「sence(感覚、意識、感応、才能も?)」を抽出するという作業に集約される。
幻想は、空想のような「有り得ない事」が現実に起こってしまっている、いわば対象物の内側の世界に「視点」が没入してしまっているという状況だ。故に「視点」の人物は、自分の知っている世界の法則が何処かで破れ目を生じさせてしまったかのような、不気味ともいえる違和感を覚える。
この違和感というのは悪い意味ではなく、秘境に恐る恐る足を踏み入れ、初めて見る物事に心を躍らせられるような余裕=新たな法則の常識化が起こる前の妖しさ、恐ろしいながらも美しい、神秘的だと思わせる感応の事だ。幻想文学と怪奇譚がしばしば同系列のものとして扱われるのも、この辺りの受け止め方から来ているのかもしれない。
この時受け手は、対象物を作り出した誰かの存在を忘れている。味わい終わってから初めて作り手の存在を思い出し、彼または彼女の世界観の構築の手腕に感嘆するのである。味わっている最中に対象物の外側に浮上し、それが畢竟絵空事だと気付いてしまっては興醒めだ。
この幻想に合理的な説明がつけられ、物理法則を学んだ後に力学的な現象を見ても不思議だと思わないように、規格化・秩序化され、新たな統計分析的な法則として記録されたのがファンタジーの世界だ。そこでは現実にない物事が名前を持ち、或いはある人物の意思の下にそれらを操作出来るようになる。魔法使いの世界を描いた物語では、人物が杖の先から炎や光を放っても不気味ではない。
英語では「fantasy」が幻想の意を表すが、日本語では「幻想文学」と「ファンタジー文学」のテイストが違う。怪談にも妖怪などが出てくる事があるが、その怖さは妖怪それそのものに対する怖さではなく、それが明確に不快感や害をもたらす事への恐れである。妖怪が実在するものとして日常──作中世界の──の延長線上にあるような扱われ方をされる作品では、それは未知のものに対してではなく害獣に対する怖さとなり、ファンタジーに近くなる。
空想は空想的な作品、幻想は幻想的な作品として分離して扱われるのが理想的ではあるが、時に前者が没入感を持ち後者の性質を示す事がある。これは、完全に幻想として構築された世界観、と受け手に取られれば失敗であり、空想である事を忘れさせず美術工芸品を見た時のような、俯瞰的イメージのフレームを維持したまま、外界の対象物に関知し得ない物事を忘れさせられたならば大成功である。
映像作品に喩えるならば、空想は主人公が画面の内側で動く様子が見えるもの、いわば三人称視点カメラで、幻想は主人公の視点=視聴者の視点、即ち一人称視点カメラのようなものだ。主人公が画面に映し出されていながら没入感やその人物への感情移入があれば成功である事は、空想作品のあくまで空想作品としての成功に通ずるものがある。