「効率の良い生き方とは」
(初出 note、2024年1月22日)
人生は有限であるからこそ価値がある、という話をここでくだくだしく述べようとは思わない。だが、それだけに何をどう詰め込むか、という問題は、哲学の専門家のみならずあらゆる人が人生の随所で突き当たる事柄である。これをやり遂げたら思い残す事はない、というのとは違うが、生涯を閉じるまでに完遂したいという事業を何かしら自分の中に持っている事は、一生が「有意義である」という事に大きく作用するだろう。
私の場合、まだ大学に身を置き社会人としての義務を果たしているとは言い難い状況故の、甚く趣味的な目標なのだが、現在読んでいる作家たちの作品を全て読み尽くす事である。膨大な著作を世に送り出した文豪たちの存在、またそれらの絶版という壁があり前途多難で、本当に完遂する事が出来るのかは二十歳になる以前の現段階でも非常に疑わしい。
そこで私は、読書に「速さ」を求めた。速読の得意な人は見開きページを斜め読みし、おおまかな筋だけを把握する、というが、私としてはこれは参考書や啓発書にのみ行って欲しい事であり、文学作品に対しては甚だしい侮辱だと思っている。何故なら文学は、隅々にまで意味を持たない箇所は有り得ないからだ。助詞の使い方や文体というのは全ての創作物に通用する事ではないのかもしれないが、たとえ推理小説であっても叙述トリックがあったり、ごく自然に真相に迫るヒントが会話の中に転がっていたりするものだ。私の言う「速さ」とは速読力の事ではなく、一冊をどれだけ短い期間で読み終えられるか、それも文章を飛ばさずに読み、賛否でも好悪でもいいが何かしらの感想を──「よく分からない」は除く──を感じられるように読めるか、という事である。
これは別に、私のように読書をする事に限った話ではない。スポーツでも楽器の演奏でも、ネットゲームでも、一つの事を極めたいと思った時、皆考える事は「どれだけ短い時間で高度な成長を遂げられるか」という事ではないかと思う。趣味といっても色々あるので、極めるなどの願望はなく、それを行っている時に楽しみを感じられればそれでいいのだ、という人も居る。その為、ここでは特に「これだけは人に負けたくない」「極め抜きたい」という願望に寄せる形で、仕事や義務ではない、自らの嗜好に伴う向上心の対象を「趣味」として扱う。
「どれだけ短い時間で高度な成長を遂げられるか」という考え方こそが効率の追求であり、これを第一とする思想こそが効率至上主義だ。しかし、この言葉を以て「人生に於ける効率至上主義」を論ずる時には、慎重にならねばならない。捉え方を誤り、人生そのものにこの思想を適用すると恐ろしい事になる。
効率の向上とは無駄を極力減らす事であり、極論を言えば「必要最小限の事しかしない」という事だ。人生に於いて「必要最小限の事」とは何だと問われれば義務的な事柄を列挙するしかなく、趣味そのものを省く事になる。このような言い方は好みではないが、「生きていく上で何の役に立つのか」という事にこそ、娯楽性があり、人よりも頭一つ抜けた能力という意味の個性を確立させ得る因子がある。「なくても生きてはいけるではないか」という言葉は正論の極致だが、それだけではルーティンを招き、万事が流れ作業、成長も行動の差異も生じず、工場の生産ラインに存在する機械と何ら変わらぬ人格が出来上がってしまう。
社会を一つのシステムとして捉えた時、それが皆機能の維持のみにエネルギーを振り向けられていれば、それは社会が存在する目的自体が「維持」になってしまい、そこに価値を見出せなくなる。すると、維持していくのに必要な費用対効果を考えて、効率至上主義的には「維持していく必要がない」という結論に至る。手品のような言舌を弄している、という批判はあるだろうが、おかしな事に「社会の維持」に効率至上主義を持ち出すと「維持の必要性」が喪失するのだ。
では、「人生に於ける効率至上主義」とは何か。効率の良い生き方とは何を指す言葉なのか。
私はこの、一生涯という有限の時間にどれだけ多くのものを詰め込むか、という手段に「速さ」を持ち出しているのであり、それはどれだけ義務に囚われない時間に自分の好きな事を詰め込むか、という言い換えになっている。自らを高める手段として定め、価値を与えた趣味には、それそのものから無駄という概念が抜ける。それを以て、自らに課題が与えられるからだ。
例えば読書を例に出すが、一冊の本を読む際、気が散ったり居眠りをしたり、訳もなく同じ箇所を何度も読んだりしていれば、相当な時間が掛かる割に頭には大して残らないだろう。これを無駄と捉える事が、本当の意味での「人生に於ける効率至上主義」である。本を読み終え、つまらなかった、学びがなかった、金を返せ、と言いたくなり、「読んだ時間を無駄にした」と思ったとして、それを無駄と捉えるのはそうではない。見方を変えれば、その本が自分の趣味に合わなかった、もしくは弁護の余地がない駄作だった、という事を知れたという収穫がある。私は本を購読する人間であり、無論大枚を叩いて買った本が愚作だった、という事もあるが、それを資源回収の日に出してしまうか、もしくは古本屋で売り払うかと問われれば、決してそのような事はない。その一冊が「自分の読んできた本」の中に加わった、という事実は、紛れもない一つの進歩だからである。
また、これは趣味自体の転換にも同じ事がいえる。それまでかなり深く一つの事に耽溺し、それを極めんとして膨大な時間と費用を投資したとする。それが最終的に自分の趣味ではなくなった時、維持していく事に対する気持ちが、楽しみや成長の喜びよりも苦痛が上回るようになった時、私たちは「手を引こうかどうか」と考え、結局は「せっかくここまでやってきたのにやめてしまうのか」と悩む事もある。しかし、私はその時に「手を引く」という選択を、それまでの積み重ねを無駄にする行為ではない、と思っている。
何故なら、そこには確かにその趣味を体験し、専門的な知識や技能を身に着けた自分が居るからだ。また、その分野から離れ、徐々に記憶が消えていくとしても、過去にそれを楽しんだという事実は残る。これもまた自分の例を出すが、私は中学時代、既に連載を終えたとある自作小説の原型を、ひたすらキャンパスノートに書き綴っていた。今見返すと憤ろしい程稚拙で、将来整理をしている時に出てきて恥をかくのが嫌なので近いうちに廃棄する予定だが、それを書いた事自体を私は「消したい過去」とは思わない。むしろ、それがあったからこそ、今の自分が世間に公表し得る文章を書く訓練が出来たのだと思う。
無駄といえば、既に自分の中で維持する価値が喪失したものを、いつまでも惰性で続け、結果何の成果も得られない行為に時間を蕩尽する方が無駄であろう。この考え方は「人生に於ける効率至上主義」である。人生の隙間時間を通して見た時、生産性のない行為に使われた時間が如何に多かったか、或いは少なかったかという事で評価されるのが「効率の良い生き方」なのだ。
そして、最も無駄と判断して欲しくない、これを避ける事を効率至上主義と言って欲しくはない事が、人付き合いの為に使われる時間だ。例えば、友人と他愛のない話で盛り上がったとする。それが猥談になったり、昨日体験した出来事の伝達になったりする。一見すれば、ここには生産性がないようにも感じられる。だが、そこには共に楽しみを共有した、という、人付き合いに於ける関係値が蓄積される。他人、顔見知り、友人など、関係性には様々な名前が付けられるが、他者との仲を深める行為は常に些細な時間の共有、その繰り返しだ。無論、同じ空間に二人の人間が居て、どちらも寝てばかりいたのではお世辞にも関係値の生産とは言い難いが。
これについて、いつか訪れる別離を考えたり、自分自身の作業が出来ないと思ったりして無駄な時間と考えるのは、人が社会的存在である所以を否定している、社会で人間として生きるという行動そのものを否定する、という事である。境遇からどうしても人と関われない、というのは結構だが、そもそも交流そのものを非効率的と考えるのはアイデンティティの放棄と言われても文句は言えない。
私は人から、非常に速筆であると言われる。短期間で何十ページも散文を書き、それをネット上に送り出している。それによって沢山の文章を書いたという実績が生まれ、評価はどうあれ誇りが生まれる。それは、人生に於ける効率至上主義の考え方である。また、書いている途中で眠くなり、原稿を閉じて眠ってしまったり、全く関係のない画像をネットで検索して何分も眺め、後から経ってしまった時間を思い返して自らの集中力散漫を呪う。これも、人生に於ける効率至上主義だといえる。