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未分類  作者: 藍原センシ
13/65

「碧草」②


          *   *   *


 私が夏草の(そよ)ぎを見ていると、不意に頭上からぽたりと水滴が落ちてきた。朽ち果てた木の実のような、甘酸っぱい匂いが漂う。

 無意識に右手をやって髪を拭い、見上げると、何年も風雨に晒された為だろう、青緑色に変色し、無数の膨らみが目立つ屋根の内側から、破風尻(はふじり)飾りを伝って、昨日の雨で溜まった水が垂れてきたのだった。よく見ると、私の足元、(きざはし)の隅の方にも水が溜まっている。ここに蚊取り線香を吊るして行った先客が、おざなりに拭き取ったのだろう。

 この廃屋と化した社殿が、何年も取り壊されずにあるのは何故だろうと思った。ハイキングを行う人々の休憩所とするなら、修繕程度は行われるはずだ。懐古の念を抱かせるのか、荒れ果ててしまった事に追憶に浸る余地も残すまいとしているのか、もう一度(やしろ)の周囲や背後の閉ざされた引き戸を見ても、面影にも満たない輪郭がそこにあるだけだった。何処も等しく色褪せ、或いは黒ずみ、濡れて膨れ上がり、或いは腐り落ち、草ばかりが彩りを添えている。しかし、よくよく見るとその夏草の合間には、神社がまだ経営されている頃は見る事の叶わなかった花が幾らか咲いているのも分かる。

 名もなき野花、徒花(あだばな)。木々とは違い、殊更(ことさら)に看板などに記されている訳でもないそれらは、一種の苦手意識を覚えるまでに人工的な街の中であっても免れない夏、ただ営為の運びづらさに拍車を掛けるだけの季節に、それが本来持つ風情(ふぜい)や情緒を取り戻しているようだった。切なくなるようでも、毛羽立ち続けている私の神経に安らぎを添えてくれているようにも感じられた。

 これは森林公園に限った話ではないが、滝の名所であったり、小学校時代の野外活動で訪れた山であったり、既訪の自然を巡る度に、私はそこまで克明ではないはずの思い出に、何かしらの変化があるように感じられるのだった。

 郊外へ行き、一時間に一本運行本数があるかないか、というバス停裏で眺めた夏原に(すすき)が数本頭頂部を覗かせていた事や、路傍から通行者を脅かすように(しな)り、道へと突き出している大きな枯れた(あざみ)の花といった、ごくごく断片的な記憶に何かが付与され、また別の何かが欠落している事を心が拾い上げる度に、私は詮ない事だと自らを納得させた。

 流水の如き都市の移ろいに比べれば、深い由縁のある訳でもない土地で、如何にしても個人の思い出とは無関係に外界が変わっていくのは仕方のない事だ、と割り切る事は出来た。

 宛てもなく彷徨う為に、古い作文帳を引っ張り出しもした。その時に、私の中でも風化した物事については言葉だけで埋めた。そのうち、脈々と続く私の日常の、どのような部分を切り取っても言葉で出来ているのだと気付いた。

 思い出については、多数の理論では、思い返す程に燦然と、万緑の葉叢(はむら)の反射光の如く映えるもの、という事になっているのだろう。私もそのように思っていたが、それもこれから先の事を思うまでの事だった。

 環境の乏しさ、それが尚、自壊していくように摩滅していくのを実感すると、その輝きはたちまち褪めていった。味方であるはずの太陽光線が、色素を失わせていくように。戻れないし、感傷に浸る事があっても別段戻りたいとも思わない思い出など、いつでも所詮は塵芥(ちりあくた)に過ぎないと思った事もあった。

 その廃棄物のような思い出が変わって、記憶に新たな断片が残るとすれば。

 それはさやかに思い出す事は出来ずとも、確かに自分の知っていたものとは異なってしまったという不可逆へのやるせなさ、そしてその鮮烈な心の作用の中で拾い上げた、先程の草花のような一場面なのだろう。

 時間が経てば、外界の美しさを切り取った思い出を、花束という言葉で喩えられるようになるのか、と考えてみた。そうすると、そこでまた例の友人の顔が浮かんできだ。彼はきっと、また「大袈裟なキャラだな」と私を笑うのだろうか。草、とも言うかもしれない。


 先日、今日と同じように彷徨い歩いていた日、私はその行き先を、市内でも有数の滝の名所である温泉地に定めていた。これも小学生の時、社会科見学の一環として訪れたダム湖を横目に、道のないような山林に入り込み、緩やかな渓流を(くだん)の滝の方を目指して遡った。

 緩やかな、しかし途絶する事のない斜面を、雨水が道路の窪みから溢れるようにゆらゆらと流れ落ちる光景は、退廃に暮れつつあった私に、一種の共感を誘うようだった。

 私はまだ、外で体を動かす事が今よりも多かった頃に、麓のキャンプ場までしか足を運んだ事がなかった。初めて直接目の当たりにする渓流は、それが景勝地である瀑布から()でたとは俄かには信じ難い程に緩やかで、少し拍子抜けすらした。同時にその、徒労とも、慣性とも呼べる流れは、傷心に添い得るものはやはり、琴線を奏でようと意図された人工的な産物には有り得ない、と感じさせた。完全に自然の因果に委ねられ、達観しているものでもない限り。

 先に進むに連れ、ゆらゆらとした小川は幅を広げ、深さを増し、白い波幕を澎湃(ほうはい)と立ち昇らせる急流となった。最初の方は勢いがあったのだな、とちらりと思い、それが尚の事、志を秘めて、後に環境に敗れた自分自身の事を暗示しているような想像を掻き立てた。

 渓流の始まりである滝まで至った時、その日が平日だったからだろう、そこまで人の姿は多くなく、夫婦と思われる年配の男女が一組、ナップザックを背負ってそこに佇んでいただけだった。その姿もまた、風景の中に調和しているようで、私は訳もなく羨ましさを覚える。

 私が格別の目的もなく、滝壺を囲む柵に凭れ掛かりながらぼんやり水を眺めていると、彼らの方から声を掛けてきた。

「静かな所ですね」

 最初に口を開いたのは、夫と思われる男性の方だった。

 実際には木々の間を風が吹き抜ける音も、畏怖すら覚えさせる程の膨大な水の塊が崩れ落ちるごうごうという音も響いていたが、彼らの言う事は、私がこのところ忌避していた人工物の奏でる音がない、という事だったのだろう。私は、声を掛けられたから答える、程度の気持ちで

「そうですね」

 と返した。老人が、浄化されるようだ、と言った。

「近くに住んでいるのに、いえ、近くだからこそそこまで積極的に来ようともしなかったんですがね。やっぱり、自然は違いますよ。何かこう、すかーっとするというかね、老廃物が丸洗いされるみたいで」

「お近くに住んでおられるのですか?」

 成り行きで、形式的な質問をした。

「まあ、近くといっても電車は使うんですけどね。年取ってあんまり出歩く機会もなくなると、動く範囲も狭まって、どんな場所でも皆近くになるんですよ。お兄さん、聞いた事はないかい」

 市内の何処か地名を上げたが、私の知らない所だった。今では、何処と言ったのか覚えていない。

「お兄さん、学生さんかい?」

「ええ、まあ」

 休学中である事までは、言わなくていいような気がした。お茶を濁すような曖昧な返事をしたが、老夫婦は「そうか」と肯き合った。

「若いうちはいいね、色んな所に行って、色んなものを見て回れるから。私も若い頃はよく歩き回ったんですけどね、思い返せば懐かしいもんですよ。遠くなったように思えても、そう滅多に消えないんだからなあ」

「うちの人は、昔からよく遊び回る人だったのよ。私もあっちこっちに連れ回されたけどね、こういう何にもない所もいいものねえ。お宿とか、何とか院何とか殿、とかみたく人の手の加わったものじゃなくても、毎日の疲れを癒してくれるようなものには違いないわ」

「僕も、時々リラックスしたくなると、こういう所に来るんですよ」

 最近では、満たされずにやたらと歩き回っているような気がするが、嘘を言ったつもりもなかった。

「ここは、僕も初めてですけど」

「そうなの……でも、この流れ自体は昔から見ているはずよね」

 老婦人は言うと、「私もさっき教えて貰ったんだけど」と笑った。

「N**川って、あっちこっちで見られるでしょう? それ、この滝から地下に流れて、山の下の方の森から麓に出ている水がそうなんですって。入口の方にダムも出来ていたけど、それ以上に生活で必要な水が使われる川でしょう? 観光だけじゃなくって、ずっと密接に私たちの役に立っていたのよ」

 知らなかった事なので、私は素直に感心した。

「さっきの下流みたいなのを見ると、意外と川の一生みたいなものも短いんだな、って思ってしまいますけどね」

「川の一生、ね。なかなかいい表現ですな」

 老人が、私が意識もせずに口にした言葉を拾い上げる。

「文学的に狙った訳じゃ……ただ、こうして見ると大迫力で、さっきみたいに流れも速くて逆巻いている川も、段々緩慢になって、目立たなくなって……観光名所だって事も信じられないくらいで」

「一生も、大体そんなものかもしれませんな」

 老人が言った。その口調が何処か物憂げで、私は聞き漏らしてはならないような心持ちになった。

「よく、大きな出来事があって集まった人何万人、とか、悲惨な事故があって死傷者が何百人、とか言うでしょう? でも、その人たち一人一人、皆それぞれの日常があって、それまで生きてきた時間がある訳ですから。生まれて喜ばれた瞬間もあっただろうし、家族だって居たかもしれないでしょう? それが、何というか、大雑把に括られちゃうのがね。皆目立たなくなって。ほら、今日道で擦れ違った人だって、顔を覚えている人の方が少ないでしょう?」

「ごめんなさいね」

 婦人の方が、やれやれという表情になる。

「主人はお喋りなんですよ。お兄ちゃんも困るわよね」

「いえ、別にそんな」

 慌てて否定すると、婦人はまた笑ってから「でも、私はね」と、後を引き継ぐように語った。

「人の事がどうかは分からないけど、さっき見た川はそこまでのものじゃないと思うわよ。童謡にも、ああいうちょっとしたものを切り取った歌があるでしょ? 静かだし、周りに木とかお花とか一杯あったけど、ちゃんと調和が取れていたというか。目立たないっていっても、悪いものじゃないと思うわ」

 私はその後の会話までは、覚えていない。

 ただ、私は渓流を遡りながら、その気怠い流れに、自分の厭世、けれどそこに留まり続ける事をやめられない、環境との軋轢、(さざなみ)を重ねた。似ている、と直感的に思った。

 人の一生程ではなくても、私はその喩えに含まれる。川下の方まで好きだという人が居るのは、心強いまでは行かなくとも、ひとまずほっとしても良い事のように私は推考した。

 帰る頃になって、麓が(ざわ)めいていた。警察車両までが入っており、好奇心などではなく何があったのだろうと不安に思って、野次馬と思しき人に事情を尋ねてみたところ、彼らがあの後で滝壺に飛び込んだ、という話が言い交わされているという事だった。

 彼らは、あの場所に私が訪れた事で、今後の私が余計な迷惑を掛けると思ったのかもしれない。彼らは一度麓の旅館に引き返し、私が尋ねた当人である宿泊客と話したという事だった。

「滝で会った若者が羨ましいと思った。あの夫婦は、そう言っていましたよ」

 お互いに、お互いの境遇を誤解していたようだ、と感じた。私も、彼らの抱えていた事情に気付きもしなかった。その事情が何であるのかも、無論私が知っているはずがない。

 私は、特に何を思うでもなかった。彼らと言葉を交わした私の中に、私には生きづらい環境でそこまで歳を重ね、自適の生活を送れている事を羨む気持ちが、微塵もなかったとはいえなかった。何と言っていいのかも分からず、事情が分かるや否や帰途に就いた。

 ただ、思い出に(とど)めを刺すのは、畢竟自分の意思なのだと考えた。


 私は近いうちに、都市に帰るだろう。これ以上休み続けたら、引き返せないところに至ってしまうという迷いがあった。まだ手遅れになっておらず、行き着くところに行き着いていない故に、全てを諦める気持ちにも裁断を下せなかった。それに、生活の中にどれだけ空白が募っても、それは決定的な欠落とは(おもむき)(こと)にする性格のように思えたからでもあった。

 故に、私は思い出をゴミとして投棄する事も、それを憧憬と表白して世捨て人になる事も出来ない。懐古は存在しても、それは哀愁にはなり得ない。記憶は、引き出しにしまうように大切に留めておく事も、また心を過去へ引き続ける鎖を立つ為に投げ捨てる事も叶わないのだ。あるのは、常に感覚世界から受け取り、更新していくという作業だけだ。

 もし、環境が容赦なく私に牙を剝き、臨場のうちに容赦なく私を再起不能のところまで陥れてしまうのだとしたら、まだ諦めもつくだろう。

 だが、私は破壊的な願望に身を委ねるには、生来が妥協の出来ない(たち)だった。無論自棄(やけ)気味の怒りが湧いたり、特定の人事を呪ったりする事もある。が、そのような破壊願望を自分に対しても向けられないのは単純に私自身が臆病だという事なのかもしれないが、そのような私の前に現れる障壁はいつも曖昧模糊としていて、受容さえしてしまえば乗り越えられる(たぐい)のものだった。

 生きづらさなどという壁はその最たるもので、私はきっと即席にではあるが、何かしらの解を出して”日常”に戻って行くのだろう。しかし、都市での日々を再びこなせるようになったとしても、刹那的にまた同じ事を繰り返して、その回数だけ生涯に真空を作っていくのだろうと予測は可能だった。時間だけが、確然と払底しているのだった。

 私は、予定調和を信じる事が出来た。しかしそれは、秩序が常に正のフィードバックを返し、進んで逸脱を望まなければ最後には万事が順調に行く、という楽天的な思想を意味しなかった。

 時代の波の上で生きる人間一人がどれだけ多感で、既存の秩序を息苦しいものだと思っても、それを自ら蹂躙して罪人へと変じようとしない限り、ただ生かす事だけを定義された「救済」が与えられてしまう。義務教育の中に居る間、どれだけ素行が悪く成績が絶望的な子供が居ても、大人が責任を(こうむ)りたくない、という教師たちが判定基準を修正し、その当人に救いを与えてしまうように。結果残るものは、増長だけだ。

 性善説もまた、その予定調和の副産物のようだ。

 介錯の許されない事を、命を奪わないという意味で人道と唱え、当事者を苦しめ続けるような予定調和に、人の世の混濁が見える程繊細な心を持ち合わせる者を蜘蛛の巣の如く絡め取って放そうとしない。その網の中でのみ、条件の多すぎる自由を与えようとする。

 死を以て決定的な韜晦(とうかい)とする事に抵抗が感じられるのは、純粋にそこまでの蛮勇がないからだ。だが、もしその後、何処に行っても地に足のつかないような人界から離れ、厭離(おんり)穢土(えど)を遂げて生まれ変わる場所があるとしたら、私はそれを選ぶだろうか。私に限らず、それでも今世にしがみつく事を選択する人の方が多いのではないだろうか。

 畢竟、人の掟に縛られない場所は「人でなしの国」に他ならないと分かっており、自分は人でなしにはなれない、と思う気持ちが(まさ)るのではないか。更に誰の為にそう思うのかと追及すれば、それは無論、他人に教え込まれた以上の道徳的感情が邪魔をするのだ。

 道徳! 私の逃亡を結論ありきのものとし、無為へ無為へと引き込もうとする不文律の許容。

 教えられる事だけを信じていれば、少なくとも日々の行をこなす事だけは出来た頃では、授業科目の一つとしての名前しか知らなかった。

 自ら本を読む事を覚え、多数決の結果である小学校での道徳が意味を成さなくなってからも、基本的な価値観は全て、世間一般に馴染みのある価値観に帰結した。逸脱してはならないもの、学び舎という臥籠(ふせご)を解き放たれ、知る権利と言論の自由を身近なものとして捉えるようになってからも、小学生に話しても受け入れられるような思想。

 道徳という教育内容がなくなっても、同じ名を持つ不文律は存在する。空気のように、当たり前に何処にでもある。世界から人間が消えても、恐らくは。人から逃げても、空気を吸わずにはいられない。

 私の自問自答は、(もっぱ)ら手に負えない領域まで潜行してしまう。芸術家程高尚な者にはなれないが、私は恐らく、本を読みすぎたらしい。思い出も、都市での生活も、また道徳も、自分の首を絞めるものだとしたら、すぐさま私自身の価値基準として切り捨てる事を選べるはずが、思想の自由という(のり)を越えて、自らが囚われる不文律に気付かせてしまった。

 世界の深層に見せかけて、実際はすぐそこにあるものだ。これを味方に出来ないという事こそ、私が生きづらさをそれ以上のものに出来ない──克服したり、受容したりという意味ではない──という証明なのかもしれなかった。

 定命として私の命を奪っていくのも、その予定調和なのだろうか。

 それ以上の事を考えるのが怖くなり、思考を引き上げる為に、草、という軽薄な響きを、自らも真似てみようと口を開いた。

 声を出すまでに、(しば)らく時間が掛かった。


          *   *   *


 何時間、そうして物思いに耽っていたのだろう。

 いつの間にか影は伸び切り、被は傾いて、眼下の街も灯涼(ひすず)しの言葉が似合う夏の夕暮れらしくぽつぽつと灯りが見え始めた。あの灯りも人工物のうちなのだよな、と思ったが、そこまで陰鬱なものにも感じられなかった。

 草叢(くさむら)で、虫の音が響き始める。喧騒が届かない場所で、人工音の(かまびす)しさに掻き消される事なく響き続けているという点では、これもまた静寂といえるのだろう、と結論づけた時、またあの滝での出来事が()ぎりかけた。

 幻影から逃れるように視線を上げると、また蚊取り線香が見えた。網越しに見える渦巻きは大分短くなり、火はその中心に至りつつある。

 渦の最も深い場所に、夏を焼く抵抗の如き火が吸い込まれ、呑み込まれていく様にも感じられたが、煙はまだ立ち昇り続け、いつまでもその行方を目で追っていられそうだった。

 自然がなくとも風が吹き、蚊帳(かや)の外の社会にも、夏の暑さは訪れる。むしろ、整備された石の地面では、輻射は一層激しいものになる。

 追うともなく、思い出を反芻していた。追想は、私にとっての遠い過去、古い時代から流離(さすら)い続けて現在へ、臨場へと近づき続ける。しかし、それが完全に私の今居る場所へ重なる前に、時の流れに介入出来るはずのないという事を否が応でも突きつける夏草が、その追想を阻碍(そがい)する。

 日が暮れても、暮れなくても、蚊取り線香が燃え尽きてなくなるまではここに居よう、と私は思った。まだ、時間は静かに残されていた。

 本当に静かで、草の伸びる音すら聞こえるようだった。



(碧草・終)

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