「碧草」①
(初出 note、2023年10月18日~19日)
街の中に突如現れたにしては小高い、しかし丘といっても差し支えのないような森林公園の山を、中腹にあるという神社の所まで行ってみようと思い、私は山道を登っていた。
秋でなくても、或いは立ち並ぶ木々が落葉樹でなかったとしても、これだけ多ければ葉は積もる。折り悪く、舗装されていない土の道は、昨日の雨で泥濘み、葉はサクサクという軽快な音を立てるでもなく、湿り気を含み、足を取るだけの隘路と化していた。
泥濘んだ地面は憂懼を誘う程に私のスニーカーを深く引き込み、私は余程やめにしようかと悩んだものの、決心もつかぬまま惰性の行軍は続行された。小学校中学年の頃、何度かこの森林公園には足を運んだ記憶がある。もう十年以上も前になるのかと思いながらも、夏になれば絵に描いたような翠緑に装うこの山が、当時から何か変わったのかと問われれば、釈然と言い表す事は出来ないようだった。
都市と自然の調和した街。それを、私はあちこちで故郷の自慢として語った。しかし、自らがその緑の風に心身を遊ばせる事をしなくなって既に久しい事も、また実感していた。
公園内に建つ、山の地形を利用して建築された半地下の駅からジョギングコースに出、その路傍、生け垣の隙間から「楢の道」と書かれた手製看板の立つ山道に入ってから、もう暫らくが経過する。
一度、急な泥の斜面を階段のように覆う木の根を登って先に進もうとし、転倒してジーンズの膝裏を裂いてから、私は段々と辟易し出した。周りには、こちらと同様に自然散策をする人の姿もない。舗装されていないこの山道を歩いているのは、私のみだった。
不意に道が開け、いつの間にか雑木林に変わっていた森からその神社が見えた時、私はほっと安堵の息を吐いた。しかし、切実に願った訳でも、目的があって訪れた訳でもないので、そこまで深い達成感を感じるでもなく、ただ足を休めたいという思いで社殿の正面に回った。
濡れ縁に座って前を向くと、階から十メートル程離れた場所に、苔生した石の鳥居が立っている。注連縄も取り外されており、また社自体に人の気配も感じられなかったので、私が中学校、高校に通っている間に経営が終わってしまったのだ、と分かった。
元々砂利も敷かれていなかった前庭は、一面に雑草が生い茂っていた。今年は延々と溽暑が続き、夏を象徴する虫たちですら塒で息を潜めているのか、蚊に食われる事もまだ経験していないが、この手入れされていない草の中を歩いたらきっとただでは済まないだろうな、とは考えられた。
私は、昔母やその友人の家族らとこの森林公園で遊び、またこの山を登った事を思い出した。広域に頒布してはいるものの、地図上で山とも認められないようなこの場所が、身体も行動圏もそこまで大きくなかった私には、それなりの冒険を行うに能う秘境だったのだ。
リュックサックを背負い、大袈裟に肩で息をしながら、鳥居のある参道の方から山道を登って来た私たちは、神社の濡れ縁前に造られた御影石のベンチに腰を下ろして融けかけたアイスを口に運んだ。今し方その事を思い出した私は、ふと思い立ってその石があった辺りに視線をやったが、そこは心なしか雑草の繁茂が控えめになっているだけで、面影は跡形もなくなっていた。
何故か私は、十年以上前に見たその光景が今と──いや、今眼前に広がっている草に満ちた環境が当時と、と言うべきだろうか──、それ程変わっているような気分が起こらなかった。だが、その感情の錯覚が錯覚に過ぎない事を、青臭い空気を吸えば吸う程に明瞭になる記憶が裏付けていた。この青臭い、夏の匂いという言葉を最もよく体現している草の香が、思い出の中、過ぎ去った頃に青春だったと気付くような過去の光景を満たしているようで、相反する印象はそれによって私の心中に混在しているのかと思われた。
今ではその形骸から理由を察する事も出来ないうちに、こうして打ち捨てられた神社と、この場所が自然の中に遊ぶ余裕のあった私の当時を象徴している、という意識の吻合が、私が考えるより早く心の潜在的な部分に湧き起こった。その事が、私に十年以上の時間の跳躍を、それが錯覚であったとしても経験させたのだ。そう思うと、私は妙に感傷的な情緒になった。
傷心していた。小さな寄生木の芽を、そうではないかと勘づきつつも自らを安心させたくて摘み取らずにいた結果、それが深く根を下ろしてしまったような、もしくは大病の兆候を、自分がそうであると信じたくないが為に放っておき、致命的な段階まで進行させてしまったような気持ちだった。
私にとってついこの間まで通っていた大学とは、高校時代、人並みといわれるモラトリアムの幸福にも、気を張らずに生きさえすれば自然に得られる大らかさにも、自ら制限を掛けて生活し、追い駆けて掴んだ現在の居場所だった。そうであるはずの学び舎での日々に、次第に徒労感が付きまとうようになってきたのだ。
私は、日常に興味が持てなくなってきた。専ら、心を無にするように一人部屋からの景色を眺めたり、休憩時間に図書館に行き、本を適当に広げるものの読まずに微睡んだり、という事に時間が空費されるようになっていた。将来への踏み台にするべく犠牲にした時間の果てで、更に掴み取った時間を得体の知れない虫に食わせているような気がしていた。
自分が何を憂えているのか、何が焦燥を誘っているのか分からないまま、自分がこの先何をすべきなのかを考えた。しかし、手掛かりを得ようとすればする程、自分の向かう社会の未来像が、私という主体とは関わりなく暗晦で、希望の見出し難いものであるように思えてきた。
私が胸中に飼っているこの不穏な凝りに、分かりやすく「生きづらさ」という名前が与えられると知ったのは、つい最近の事だった。それを悟るまでに、三年という時間を要した。
これ程単純な名称を発見する事が出来なかったのは、まさか自分が「生きづらさ」を感じる人間だとは、露程も思っていなかったからだろう。人並みに生きていたはずが、それで与えられるものがやっと最低限に満たないという事に、少なからずショックを受けていた。
人の居る場所から、それが不可能だとしても人が過密な場所から逃れたいと思った事に、自分が人の世の住みにくさ、生きづらさを芸術の域にまで昇華出来る人間だ、と思うような驕りは含まれていなかった。
ただ、自分が都市から韜晦する場所が欲しかった。さりとてそのような場所が容易く見つけられる訳もなく、月並みだが故郷に帰省してみる事を選んだ。私がこの間まで居た場所から比べれば辺陬といわれる地方なのかもしれないが、それでも地方区分の中では、人口も、それを養うだけの都市機能を有しているこの街が私の故郷である事を、その時ばかりは恨めしく思った。
心に、ゆとりがないのだと感じていた。
遠くから見れば鮮やかな、そこらを歩けば夢が見つかると思われるような都市でも、一度近づけばそれが灰色と黒の乱立に過ぎず、そこから掬い上げられるものは夢とは程遠い義務である事が分かる。その義務を果たさねばならないのに、一端の能力もなければ既存の路線上を歩くしかない。そうでありながら、その道すら自分で選ばねばならない事に、至極当然で誰も指摘しないような不条理さが孕まれていた。しかしそれが、自分自身が多感すぎるのだとも思いたくはなかった。
感じるという事は、大多数が気付かないだけで、確かに存在しているという事なのだから。たとえ自分が鈍感だったとしても、それは遅かれ早かれ、自分を知らねばならない段階になったところで、癌細胞の如く不覚のうちに自分を摩耗させているはずであるから。
また、逃げたいと思いながらも、可能な限り自然の中と定めたその行き先を究める事も出来ず、私にとって最も心情的に身近であり、また一方では考証的に遥かに遠い場所として森林公園を選んだ事に、結局は世俗で生きる事をやめられない自身の、尖ろうとしても尖る事の出来ない生来の意思を感じた。
中腹、平と名付けられるこの場所で、その平坦な土地の端まで行くと、楢や杉、白樫の雑木林を経て、菖蒲の群生地である池や、その周辺に造られた健康広場やジョギングコースが目に入る。その輪郭を取るように並び立つ木々と丘の道を越すと、そこはもう二車線の通りが走り、背の低いビル混じりに家々や店が並ぶ「街」の様子が見える。夏が来るごとに訪れていた頃では気にも留めなかった事だが、森林公園もそこまで大きくはないのだな、と改めて実感した。
母の友人家族と訪れた時、山道を歩くうちに迷った事がある。元々、散歩道という意図で管理者が設定したのかすらも分からないような森の道だ、少し枝葉や草叢の開けた場所があれば道だと思って進んでしまい、気が付けば林の奥深くに彷徨い込んでしまっていたのだ。
遭難したらどうしよう、このような場所で遭難などすれば猿にも笑われるぞ、などと言い合いながらも、精神的にも浄化作用のある天然林に入り込んだ事や、それが何処に通じているのだろうという好奇心が勝り、まんざらでもない気持ちだった。歩いているうちに、誰かが薪割りに利用したのであろう切り込みの入った株や、実際に太い薪が束ねられ積まれている光景、更には動物の御霊を鎮めようという意味なのか──この推測については一緒に歩いていた母の友人の旦那さんが披露した──、私にはまだ読めない字が書かれた祠を見つけたりなどし、私は身近な場所にある森の底知れなさに、鬱勃と心が躍るようだった。
そうして歩いているうちに、いつしか森の最果て付近に佇む民家の庭に入り込みそうになり、怒られる前にと慌てて引き返した。その当時、無論今の私の思惟とはまた異なるが、人工物の多く猥雑な街よりもこのような自然を愛していた私は、見知らぬその家の住人に羨望を覚え、自分もこのような場所に住めたらどれだけ安らいだ生活が出来るだろう、と考えていた。
自分がいつから都市に憧れるようになったのか、一人で穏やかに過ごす事を好んでいた私が、いつ誰かと時間を共有する事の方を喜びと感じるようになったのかについては、やはり判然としない。
今、人の営みから遠い場所に行きたいと願う私が存在する事は、子供ながらに直感的に生きる事の方が多かった故、当時の自分の方が本当に近い、という意味では無論ない。都市や、人と群れる事への憧憬は、確かに誰かによって植え付けられた感情ではなかった。
今はただ、その至極真っ当な二次的欲求の反動が来ただけだと解釈している。証拠に、私は現代という時代、余程の事でもなければ世相を外れては生きられないという事をとうに学んでいるものの、それを詮ない事とし、世を儚んで生きる事をやめようとも思えなかった。
私の幸福は、かつて田園にあった。
今でも認めている通り、この土地は自分に最も近く、またその中で最も塵界から離れた場所だ。当時の私の幸せは、高望みをしないのであればこの場所に向かって糸を張り、収斂しているようにも考えられた。その糸が綻び、やがて裁断されるまで隔離され続けた結果に、人間としてそれを当然の事のように捉える思想がもたらした名こそが「成長」だった。
私は決して、世情に流された訳ではない。私の内面世界で起こった、少しずつ積み重なった変化の結晶を、偽りだと否定するつもりもない。だが、十数年の月日の果てに自分が得たものが「生きづらさ」だったと考えてみると、私は今まで、生涯に於ける空洞を生きていたのだと思ってしまう事も、また否めなかった。
私が自らの選択を否定しないなら、それは私が、人並みに生きていると考えながらも、知らず知らずのうちに自ら自由意思を放擲していたという事なのだろうか。選択の権利とその責任を、成人として初めて与えられた事を、私は自由という刑罰だと解釈してしまったのだろうか。
私は悩み、心理的には意図せず生じていた空隙を埋める為、こうして休学中、自分がつい輓近まで生きていたのとは対極にある場所を逍遥しているのだと思った。それで、自浄するまでには至らなかったとしても、少しは心に風を入れる事が出来るのなら、今こうして自らを休養させている時間も決して徒爾に終わりはしないと信じたかった。
風が通り過ぎるのが、撫でられたように戦ぐ目の前の草で見えた。何処からか煙のような、それも決して咳嗽を誘うようなものではなく、季節の風情を感じさせるような甘い匂いが漂ってきたので、私はふと顔を上げた。
その源は、すぐ近くにあった。網に入れられた蚊取り線香の煙が、雑木林の途切れた仲夏の空に篆烟と立ち昇っている。既に放棄されたような神社の跡ではあるが、今の私のように佇みに来る人は居るらしい。少し考えてみれば、まだ頂上を目指して歩くコースは残っているのだから、以前の私たちのようにここを中間地点として立ち寄る者が居るのは当然の事かもしれない。
人気のない場所で、どれだけ種火に近いものであってもそれを燃やし、万が一の事があって火災になったりはしないのだろうか、と無粋な考えが頭を擡げた時、ジュウッという音が鳴った。頭上を飛んでいた羽虫か蚊が、絵に描いたように見事にその小さな火へ飛び入り、焼かれたらしい。詩的表現でも何でもなく、私は夏がまた一つ焼かれた、と心の中で呟いた。
味気ない程徒労に、時は過ぎていく。四季のうち、最も今がそうだと自覚する期間の長い夏ですらも、子供の頃は無邪気に、成長してからは忙しなく過ぎて行った。私たちは、夏の暑さに心身を削られているように見えながら、却って夏を消費しているのだと感じた。
蚊帳の外という言葉を考案した人は、極めて限定的な空間を共有する、排他的なコミュニティの散在する世間を夏に喩えていたのだろうか、と私は推論する。こうして何をする訳でもなく、時を眺めている私にも、溽暑は襲って来る。また、都市部では緑がない場所にも、緑の匂いと言い得る風は吹く。
私は自ら、一時的に鬱々とした体内の気体を一掃する風を待つ間だけ、その蚊帳を離れる事を選んだ。限定的なコミュニティから逃れる事を選んだとしても、畢竟人の営み、それ自体から目を背け、逃亡する事は出来ない、と、諦めとしてではなく理解していた。
夏を焼く煙が、縷々と立ち昇っている。
時の流れが風に現れ、それを、同じく時の流れを象徴するかのような夏草が可視化している。
些か俗っぽい言葉にはなるが、何かと「草」と返したがる人が知人に居た。インターネットスラングとはいうが、最早ポピュラーの域だ。
少年時代と、成長区分としてではなく呼べるような小学生時代が終わった時、所属している期間がその半分に過ぎない中学、高校は、その繁多な日常の計画や課せられる予定も相俟って痛い程の速度で時が駆け去って行くように感じた。当時の友人知人との交際を思い出すと、何処か普遍的で、哄笑すら感じさせるその俗語が、ある特定の交流に与えられた代名詞のようなものに感じられてくる。自嘲の役目すら果たされない。
何もかも嫌になっていて、しかし生きる事にはしがみついている。
生い茂った草々、無邪気に将来の希望を信じられた頃にはそこになかったはずのそれらが、今の私自身を嘲弄している、と自虐的に考えてみても、心に吹き込む前に滞留した風が容赦なく滑稽さだけを薙ぎ倒していく。夏の中には留まったままの自分には、苟且な記憶だけが蓄積されていく。
私を取り巻く夏の彼方に、自分の見知らぬ、無何有の里のような聖域があるとも思えず、また地図の中に、私の今居る場所、そして居るべき場所が記されているような夢想も出来ない。
故に、常に自分は、飽き満ちる、という事を知らないのだ。常に、ここではない何処かを目指す。究極的に行き着く場所があるかと問われれば、理性では「ない」と答えるしかないはずながら、彷徨う事をやめられない。
山道を歩きながら、考えていた事を思い出す。
夏目漱石は、私と同じように人里から離れたいと願いながら険路を歩んだ芸術家の口を借りて「とかくに人の世は住みにくい」と言っている。彼自身も心労から神経衰弱を患い、鬱々として日々を楽しまない時期があった。更に「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」とも。
人並みに生きられない人間こそが人並み以上の創作物を生み出し、万人を感動させる事が出来、それを芸術家の好尚というのなら、これ程分かりやすい図式はない。だが、私のように、その漠然とした色相の混濁を、それ以上に昇華した創作物として具現化する術を持たない人間には、生きづらさは心の繋縛以上の何物でもなかった。心にゆとりがなければ、美化された言葉に感応する事は出来ない。結局、病まない心を有している健全な人々、或いは悲しみの神秘に璆鏘と奏でられる琴線を持つ才人にしか、芸術による救済は叶わないのかもしれない。
人工物に対するの拒絶は、それが文芸であろうと、今の私には等しく表されるものだった。
だからこそ天然へと逃れたがる作用が自らを動かすのだが、本当は私は、何かしらの芸術の道を極めたかったのではないか、という考えが、忽然と浮かび上がる事もあった。
思い定めた一つのみを追究し、有限の時間を目一杯自我に振り向ける事によって、自らを啓蒙するまでの間は無限を生きてみたかったのではないか。「生きづらさ」とは、そうなった時に初めて解消されるもので、それまで気付く事は許されない、致命的な陥穽だったのではないか。
内面的な自我への潜行と、それを拡散させるかのように碧落を求める気持ち。一見相反するようにも見える両者は、どちらも私には「環境」がなかったのだという考察から発生していた。
私たちは、貧しすぎるのだ。
物質的な意味ではなく、精神的な意味で、だ。いつも何かに追われているような気がするから、自らの探索出来る世界を縮小せねばならない。それでも耐え難い者たちが、外へ探しに行こうとする。
漱石が、人の世が住みにくいとしても、越す国があればそれは人でなしの国だと述べたのは、私たち生きづらい人間の求める無何有の里が仮に存在し、そこに行き着けたとしても、とどのつまりは苦さや暗冥を含んだ結末になるしかないという事なのかもしれない。
だから私は、社会的存在としての”人”をやめられず、ある程度は受け入れている理由は、逃れられない運命の上で揺蕩しながらも卒なく生きようとする姿こそが、今の人間の形象なのだと思っている。
前向きな思考にも、逃げる為の言い訳にもなり得る事だ。私の場合、与えられた権利を使って後者を採ったといえるのだが──。




