プロローグ
ふと、自分がどこにいるのか分からなくなる瞬間がある。
教室のざわめきの中にいても、自分の声だけが水の底から響いているみたいに、うまく空気が吸えない。胸の奥がずっと締めつけられているような、名前のない焦りが、毎日わたしを追い詰めていた。
「……はぁ」
ため息をつくのも、もう何度目だろう。スマホの画面をなんとなくスクロールしても、友達の楽しそうなストーリーを見れば見るほど、世界から取り残されたような孤独感が広がる。
難しい言葉なんていらない。ただ、「苦しい」ってことだけが、体中にこびりついていた。
何かを考えなきゃいけない気がして、私はスマホを放り出し、家を出た。
あてどなく歩いた先にあるのは、町の古い図書館だった。ひんやりとした静けさが漂う場所。ここなら、少しだけ息がしやすい気がした。
誰もいない閲覧席の端っこ。背の高い本棚の隙間に、ぽつんと置かれた一冊の本に目が留まった。
表紙には『哲学』の二文字。
難しそうなことは分からない。でも、パラパラとページをめくったとき、ふっと目に飛び込んできた文章に、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
——私たちは、孤独だからこそ、誰かと繋がろうとする。
「……これ、だ」
胸のつかえが、ほんの少しだけ溶けた気がした。私のこの息苦しさは、私だけが変なんじゃなくて、名前のある痛みだったんだ。文字が、私の代わりに息をしてくれたような気がした。
「そこ、私の席なんだけど」
突然降ってきた低めの声に、心臓が跳ね上がった。
慌てて顔を上げると、そこに立っていたのは、紺色のパーカーを着た少しアンニュイな雰囲気の男の人だった。年の頃はいくつだろう。学生の私よりは少し大人に見えるけど、社会人というほどでもない気怠さがある。手には、同じような分厚い本を持っていた。
「あ……すみっ、すぐ退きます!」
びっくりして椅子から立ち上がろうとした私を、彼は面倒くさそうに片手で制した。
「別に退かなくていいよ。……ただ、そんなに怯えた顔しなくても、何もしないって」
少しからかうような、でもどこか冷めた声。警戒心が一気にマックスまで跳ね上がって、私は本を胸に抱え込んだ。でも、なぜか足は動かない。
「……ここで、何読んでたの?」
彼は私の目の前の席に、ことんと音を立てて座った。逃げ場がなくなった私は、小さく声を出した。
「……哲学、です」ふと、その本を見つめながら呟く。「私、息苦しくて……。自分が何考えてるのか、全然分かんないから……」
馬鹿にされると思った。子どもっぽいって笑われると思った。
だけど彼は、私の目をじっと見つめたあと、ふっと柔らかく笑った。
「そう。……息苦しいって、しんどいよね」
その声が、驚くほど優しかった。冷たそうに見えた目元が、少しだけ緩んでいた。
その瞬間、私の胸の奥で、今まで感じたことのないような、不思議な音がした。まるで、ずっと詰まっていた空気が、スッと肺の奥まで流れ込んできたみたいに。
——この人なら、私のこのドロドロした不安を、分かってくれるかもしれない。
警戒心は、あっけなく別の感情に塗り替えられていた。図書館の重たい空気の中で、私たちの時間が、ゆっくりと動き出しはじめていた。




