第2話「国境の森、小さな震え」
足元の腐葉土が、歩くたびにぐちゃりと嫌な音を立てる。
国を追放されてから三日。
私の体は、すっかり疲弊しきっていた。
薄汚れたドレスは木の枝に引っかかってあちこちが裂け、上品だった靴の底はとうの昔に剥がれ落ちている。
森の奥深く。
太陽の光も届かないような場所で、私は一人、冷たい風に身をすくませていた。
『お腹空いたなぁ……。せめて、前世みたいに動物病院の待合室にある飴玉一つでもあればいいのに』
独り言をいう気力すら湧かない。
肺の奥が、冷え切った空気を取り込むたびにヒリヒリと痛む。
周囲からは、絶えず何かがうごめく気配がしていた。
パキリと乾いた枝が折れる音。
遠くで響く、獣の唸り。
死の気配が、冷たい指先で私の背筋をぞわりとなぞる。
◆ ◆ ◆
ふと、茂みの奥から、弱々しい呼吸音が聞こえてきた。
ヒュー、ヒューと、肺に穴が開いたような、苦しげな音。
私は吸い寄せられるように、棘のある茂みをかき分けた。
腕に走る鋭い痛みも、今は気にならない。
「……っ、ひどい……」
そこにいたのは、雪のように白い、けれど泥と血にまみれた小さな塊だった。
手のひらに乗るほど小さな子犬。
その横腹には、鋭い鉤爪でえぐられたような、深い傷口がぱっくりと開いている。
傷口は黒ずみ、そこからは不吉な冷気が漂っていた。
私は迷わず、その小さな体を抱き上げた。
冷たい。
まるで氷の塊を抱いているようだ。
微かに開かれた瞳は濁り、すでに命の火が消えかけているのがわかる。
「大丈夫、今治してあげるからね。痛いの、飛ばしてあげるから」
私は震える手を、その傷口にかざした。
頭の中で、前世で何度も繰り返した処置のイメージを浮かべる。
出血を止め、組織を繋ぎ、体温を戻す。
手のひらから、淡く真珠のように輝く魔力が溢れ出した。
それはセリアの光のような激しさはなく、春の陽だまりのように穏やかな温かさ。
じゅわっ、という音がして、黒ずんだ傷口から濁った霧が立ち上る。
子犬の体がビクンと跳ね、短い悲鳴が上がった。
私はそれをなだめるように、空いている手で頭を撫でる。
柔らかいけれど、酷く痩せ細った感触。
「よしよし、いい子ね。もう少しだけ頑張って」
魔力を注ぎ込むたびに、私の視界がチカチカと明滅した。
自身の体力が限界に近いことはわかっている。
けれど、この小さな命を放っておくことなんて、私にはできなかった。
前世で、どれだけ疲れていても、鳴き声を上げる小さな患者を見捨てられなかったあの時と同じだ。
やがて、黒い霧は完全に消え去り、むき出しになっていた肉が魔法のように盛り上がっていく。
傷口はみるみるうちに塞がり、ピンク色の新しい皮膚が再生された。
子犬の呼吸が、次第に深く、規則的なものに変わっていく。
氷のようだった体温も、今は私の手のひらを心地よく温めるほどに回復していた。
『……よかった』
安堵が全身の力を奪い去る。
私はその場にへたり込み、子犬を大切に胸に抱いた。
子犬はゆっくりと瞼を持ち上げ、澄んだ蒼い瞳で私を見上げた。
そして、私の指先を、温かい舌でペロリと舐める。
「……あはは、くすぐったいよ」
自然と涙が溢れ出した。
この数日間、どれだけ冷たく、孤独な思いをしてきただろう。
けれど、この小さな温もりが、私の心を救ってくれた気がした。
私は子犬のふかふかとした毛並みに顔を埋め、声を押し殺して泣いた。
その時。
森の奥から、複数の重い足音が近づいてくるのが聞こえた。
ザッ、ザッ、と、訓練された兵士のような、統制の取れた足音。
それと同時に、肌を刺すような、圧倒的なプレッシャーが辺りを支配する。
私は弾かれたように顔を上げ、子犬を隠すように抱きしめ直した。
「見つけたぞ。……そこで何をしている」
低く、地響きのような声。
立ち並ぶ大木の間から現れたのは、漆黒の甲冑に身を包んだ男たちだった。
そして、その中心に立つ男の姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。




