第2話「辺境へ」
第2話「辺境へ」
王城を出たのは、夜が明けるよりも早い時間だった。
まだ薄暗い空の下、用意された馬車に乗り込む。
見送りは――なかった。
当然だろう。
婚約を破棄された令嬢に、見送る価値などない。
扉が閉まる。
それで、すべてが終わった気がした。
馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を踏む音が、規則正しく響く。
――王都を離れていく。
その実感だけが、じわじわと胸に広がっていく。
窓の外を見る。
見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
幼い頃から過ごした場所。
笑ったことも、泣いたこともある場所。
……けれど。
思い出そうとしても、浮かんでくるのは――
顔を逸らされる記憶ばかりだった。
傷があるというだけで。
ただ、それだけで。
――価値がないと、決められていた。
ゆっくりと目を閉じる。
胸の奥に残っていたものは、もうほとんど何もない。
未練も、後悔も。
……きっと、置いてきたのだろう。
あの場所に。
婚約と一緒に。
しばらくして、馬車は街を抜けた。
景色が変わる。
石造りの建物は減り、代わりに草原が広がる。
さらに進めば、森が増え。
道も次第に荒れていく。
――辺境へ向かっているのだと、嫌でも分かる。
どれくらい進んだだろうか。
ふと、違和感を覚えた。
……静かすぎる。
護衛はいるはずだ。
それなのに、妙な緊張が空気に混じっている。
次の瞬間。
馬車が、急に止まった。
「――止まれ!」
外から鋭い声が響く。
同時に、金属がぶつかる音。
誰かが、叫んだ。
「魔物だ!」
息が止まる。
――魔物。
辺境では珍しくないと聞く。
けれど、こんな場所で。
こんなにも、あっさりと。
馬車の外が騒がしくなる。
剣を抜く音。
何かが地面を叩く鈍い音。
そして――
低く、唸るような咆哮。
思わず、手を握りしめる。
怖い。
けれど、それ以上に。
どこか、妙に――落ち着いていた。
……どうしてだろう。
その時だった。
ふと。
胸の奥で、何かが微かに“揺れた”。
ほんの一瞬。
けれど確かに、何かが反応した。
外の気配に――呼応するように。
戸惑いに、息が浅くなる。
今のは、何だ。
まるで――この場所を、知っているような感覚。
考える間もなく。
馬車の扉が、乱暴に開いた。
「――無事か」
低い声だった。
短く、必要最低限の言葉。
そこに立っていたのは――一人の男。
黒い外套。
風に揺れる髪。
そして、鋭い視線。
……見覚えは、ない。
けれど。
なぜか、すぐに分かった。
この人だ、と。
名を呼ばれるより先に。
答えが、胸に落ちてくる。
「……ヴァルド、様」
口にすると。
男は、わずかに目を細めた。
肯定でも、否定でもない。
ただ、それだけで十分だった。
「王都からの護衛では足りんと判断してな。途中からこちらで引き継いだ」
短く、それだけ告げる。
無駄のない説明だった。
彼は一歩、馬車に近づく。
その視線が、私の顔に向けられる。
――傷に。
反射的に、息が詰まる。
来る。
あの視線が。
侮蔑か、同情か、それとも――
「……それで?」
落ちた言葉は、あまりにもあっさりしていた。
思考が止まる。
……それで?
意味が分からない。
問い返すこともできず、ただ見つめ返す。
ヴァルドは、わずかに眉を動かしただけだった。
「それが、何だ」
――言葉が、出なかった。
今まで、そんな反応をされたことがない。
傷は、蔑まれるものだった。
避けられるものだった。
同情されるものだった。
けれど。
この人は。
それを――何とも思っていない。
「降りられるか」
短く告げられる。
まるで、最初から答えなど決まっているように。
頷くしかなかった。
「……はい」
差し出された手を見る。
一瞬だけ、迷う。
けれど。
そっと、その手に触れた。
――温かい。
それが、ひどく意外だった。
馬車を降りる。
外の空気は、まだ少し荒れている。
けれど、戦いはすでに終わっていた。
一瞬だった。
それでも、目で追えなかった。
地面には、倒れた魔物。
そして、静かに剣を収める兵たち。
その中心に、ヴァルドがいる。
……この人が、終わらせたのだと。
言葉にしなくても分かった。
「行くぞ」
振り返ることなく、彼は歩き出す。
迷いのない足取り。
その背を、ただ見つめる。
――不思議だった。
怖いはずなのに。
何も知らないはずなのに。
なぜか。
ほんの少しだけ。
安心している気がした。
その理由を、私はまだ知らない。




