40、温泉へ?③
視線を窓の外に逸らしながらの消極的な頼み方だ。
彼女の稀有なそれに、さすがのセイジもツッコむのをためらった。それと同時に、彼は自分が今朝言ったことを思い出した。
「何かあったのか?」
「ええ、あったわ。信じてくれるかは別だけど」
「聞いてから、考えるよ」
「あら、『信じる』とは言ってくれないのね」
時雨の声が少しぶっきらぼうになる。
「時雨がそんな言葉でどうにかなるほど単純なら、俺もこんなに苦労してないさ」
時雨は少し目を細めながら、満足げに息を短く吐いた。そっと首を回して、彼の立ち姿を見てから、何も言わずにセイジの横を通り過ぎた。
「他の冒険者はおそらく黒よ」
やれやれと苦笑した彼の耳に、彼女の鋭い一言が飛んできた。
「くろ?」
「ええ、絶対に信用してはダメ。誰に対してかは分からないけど、害意を持ってるのは確かよ」
「なら、大丈夫だ。いつも漆黒より腹黒い人と過ごしてるから、そこらの凡人の黒さなら、どうにかできるよ」
「あら、誰のことかしら?」
セイジはコップの水を一口飲んで、彼女を「さあな」といなしてから、階段に足をかけた。自分がここに居座っていては、時雨も早く寝れないだろう。
「あなたは……セイジは、私が何色だと思う?」
セイジが振り向くと、時雨は右手を自分の胸に当て、左手を握りしなながら、彼をじっと見ている。その目は黒く輝いている。
空気が張り詰めるとはこのことだろう。息をするのが憚られるほど、厳粛な空気が満ちている。
彼は絶対に威圧系スキルが発動していると確信しつつ、彼女の問いに正直に答えた。
「まあ、黒だろうな」
「……あなたも」
彼女は能面のまま、しばらく虚空を見つめた。
それから、頭を一回左右に大きく振って、つかつかと二階の自室へと歩き始めた。
魔力灯の柔らかい光が、俯いた彼女の顔に影を落とす。その影が彼女の玉のような黒髪と、石膏像のような白肌とで、グラデーションを生み出している。
時雨はただ一つの目標に駆り立てられていた。彼女のやり場のないこの感情を、自分が何者であっても必ずそれを受け止めてくれるベッドにぶつけることだ。
(やっぱり、あなたも……)
その時、彼女の視界がくるっと回った。そして、背中に硬いものが当たった。おそらく、壁だろう。
何が起きたのか分からず、顔を上げると、彼女の目を射抜くような揺るぎない眼光がそこにあった。
目だけを動かして、今の状況を理解した彼女は慌てて対面を繕って、お腹に力を入れて、声を上げようとした。
しかし、その前に彼の口が開いた。
「なあ、そんなに黒が嫌か?」
「ええ、嫌よ!」
セイジは少し驚いたような顔をしたが、ただならぬ彼女の様子に何かを感じ取ったのか、すぐに真剣な顔に戻った。
「俺の髪が何色に見える?」
「黒」
「俺の目が何色に見える?」
「黒」
「俺の心は何色に見える?」
「……白?」
「何言ってんだよ。時雨とフィーの中間くらいで、灰色だよ」
時雨が珍しく自分相手に真顔で言うものだから、何かと思えば、どうやら自分の心は白いらしい。セイジは思わず苦笑を漏らした。
しかし、時雨は首を振る。
「いいえ、白よ」
彼女には見えているのだ。
相手に少しでも疑念を持つ度に発動するパッシブスキル『鑑別』、対象が心に秘めた本性を色で教えてくれるスキルだ。また、色の数は一つとは限らない。
花言葉と同じで、一つの色に複数の意味があるのは確かだ。でも、色ごとの何となくの意味は分かる。ハンスさんの赤は商いへの情熱、フィーの白は良くも悪くも純粋、ユリアのレモン色は気弱さで、青は自由さ、という感じにだ。
そして、セイジは白かった。さらに、それがキャンパスであるかのように、赤、青、黃などの円があった。
「時雨は俺のことを白って言ってくれてるけど、俺にも闇はいくらでもある。例えば、ユリアが寝てるとき、ほっぺをつんつんしたり、寝てる時雨の顔に落書きしようかなと思ったりもしたし。でも、時雨はそんなことしないだろ?」
「当たり前じゃない」
「だから、時雨は別に心の底から腐っているわけじゃないんだよ。それに、時雨の場合は治す方法がある」
「何よ!」
「簡単な話だよ。素直に生きろよ。少なくとも、俺たちは拒まないから」
「でも……」
珍しく弱気な時雨を包み込むように、セイジは声のトーンを落として「大丈夫」と言った。
外野から見ると、まるで父と娘の会話のようだ。
「自分に素直に生きた方が楽なのは保証する。だって、昔の俺だったら、こんな風に時雨に講釈を垂れることはなかっただろ? でも、俺は今、悪い気はしない。むしろ、言いたいことが言えてすっきりしてるよ」
時雨は最近、自分と彼の立場が入れ替わりつつあることを薄々自覚していた。だが、自分で思うのと、彼に言われるのとでは雲泥の差だ。
彼の言うことに一理あるのは確かだ。しかし、それが一層気に食わない。自分の手の中にあったものが、急に外に旅立ってしまうような気持ちだ。
それが気に入らず、何か攻撃を仕掛けようと決心して、顔を上げた。その瞬間に、彼の真剣な視線を直に浴びてしまい、何もできなくなってしまった。
とはいえ、何もせずに引き下がるのは、彼女のプライドが許さない。
時雨は口を尖らして、わざと無愛想に「それを生意気っていうのよ」と言い放ってから、手で髪をはらって無関心を装った。
なにか言いかけた彼に向かって、「考えておくわ」とだけ言って、彼女は二階へと足早に消えていった。
自室に入った彼女は、熱く強く早く鼓動する心臓が、体の内部から彼女を揺さぶっているのに気づいた。持久走のあととは違い、収まる気配を見せないドクドクという心拍が、静かに目をつむった彼女に響き渡る。それを掻き消そうと、寝返りを打ったり、咳払いをしたり、荒く息を吐いたり、挙句の果てには毛布をかぶってみたりもしたが、芯から湧くその音は力強く彼女を刻み続ける。
抵抗を諦めた彼女は、窓の外に目をやった。
「……暗い」
無機質なホタルのような街灯がそこら中にあるなか、公園の片隅を見ているわけではない。
完全な漆黒だ。
ほのかにぼーっと明るいのは、階下に――。
彼女は慌ててそこで思考を遮って、別のこと、そう例えば、クラスの人たちのこととか。勝手にいなくなってしまったことを後悔するつもりはない。だって――。
他には、セリアとユリアのお母さんの髪の色とか。そういえば、彼女らとはどんな関係なんだろうか?
「……はぁ」と、ため息をつく度に、胸がチクリと痛む。
シーツの上に、熱っぽいため息が幾層も溜まったとき、頬から熱がジワジワ伝わってくるのを感じながら、ふと時雨は思った。
(案外、黒もいいかもしれない)
その時、彼女の心を縛っていたタガが外れた。
胸の中に新しい生命を身籠ったのかと思うほど、胸がいっぱいで苦しい。ドクッ、ドクッ、という心臓がはち切れんばかりの拍動が、巨人が足踏みのように一回一回、彼女の体の髄まで響いてくる。
時雨は煮えくり返る胸を押さえて喘ぎながら、自分を病に浸潤させた男の姿を目に浮かべ、唇を噛んだ。
(やっぱり、どっちも嫌い)
翌朝から、彼の姿を想うたび、背中を見るたび、声を聞くたび、空気が喉に詰まった。
そんな機嫌最悪の彼女に、昨夜自室に戻ったあとの彼女のことなんて知る由もないセイジが飄々と話しかける。
「あれ、隈ができてますよ」
「知ってるわよ!」
時雨は彼の手から、昼食のサンドイッチの包みをひったくり、馬車の長椅子の中央にどしんと陣取った。
それを見たセリアがセイジに、ため息交じりにそっと囁いた。
「あんた、何したのよ?」
「ご主人様、謝るなら早いほうがいいよ」
「どうして、犯人が俺になってるんだよ!」
「だって、昨日の夜、時雨といたのはあなたでしょう?」
セリアの冷静な一言に、彼は納得しつつ首をひねりつつ、馬車に乗り込んだ。
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