3.それぞれの決意(1)
アイリスが帰った後、彼女を見送りに出ていた侍従のグレンが部屋へと戻って来た。
「アイリスは?」
「お帰りになりました」
「そう……」
つい先ほどの出来事が頭の中をぐるぐると回っている。
耐えきれず、傍で難しい顔をしているグレンに声をかけた。
「先ほどの会話、外で聞いていたんだろう」
「……はい、フレデリック様のご命令でしたので」
「それで、彼女は何と言っていた?」
グレンは長年スチュアート家に仕える、素晴らしく有能な侍従だ。美しく上品な所作に加えて頭脳明晰。年齢は父上よりも上であるのにもかかわらず、抜群の記憶力の持ち主だった。
「はい、『婚約をこのまま進めましょう』と」
「そこも重要だけど、もっと前」
「……はい。フレデリック様のことをお慕いして――」
「グレン、彼女の言葉をそのまま言うんだ。一字一句、敬称も要らない」
「……承知いたしました。『フレデリック……私、貴方が好き。ずっとずっと、貴方のことが好きだったの』……でよろしいでしょうか?」
「次はもう少し感情を込めて」
こちらの要望に、グレンが真顔で答えていく。
第三者からもアイリスの言葉が幻聴ではなかったと証言があったことで、より現実味が増し……。
「フレデリック様!?」
平静を保つため、執務机の上に額を打ち付けた。
痛みを感じ、やっよこれが現実であると認識する。彼女が死んだショックのあまり、長く都合の良い夢を見ているのかもしれない。そう思ってしまうほどに信じられない出来事だった。
――だけど、安心した。彼女はちゃんとアイリスだった。
彼女の纏う空気が、声が、眼差しが、すべてが俺の大好きだったアイリスそのものだった。
考えるだけで頬が緩んで、またグレンに彼女のセリフを繰り返させるほどだ。
そんな俺を見て、グレンはますます理解できないと言うように眉をしかめた。
「フレデリック様、そこまでしてどうしてあのようなことを……? 婚約解消についても、アイリス様が生き返られたのであれば無効にもできるはずです。今からでもお話しして――」
「愚問だよ。その話はもう説明しているはずだ」
「ですが……」
「俺はもうアイリスを愛してはいない。彼女と結婚することはない。ただそれだけだよ」
あらためて言葉にすると、酷く心が痛む。
だけど、アイリスのためならば、この心ひとつ殺しても構わない。
愛する彼女を幸せにするためならば――
◇
「――アイリス」
――これは……フレデリックの声?
ぼんやりとした意識の中で、柔らかな声が響く。声を聞いただけでぎゅっと胸が締め付けられるような、不思議な感覚だ。
返事をしようとして、自分の意思とは反した言葉が聞こえて来た。
「しつこいわね。貴方とは結婚しないと何度言えばわかるの?」
聞き覚えのあるセリフは、私に憑依したカーミラが発した言葉。これは、少し前の私の記憶だ。
「これは親が勝手に決めた婚約でしょ。黙って従おうとせずに貴方からも何か言ってやってよ」
「たとえ親が決めたことであっても、君との結婚を望むのは俺の意思だ。婚約解消を要求するつもりはない」
「はぁ……いい? 私にはあの方がいるの。貴方のことは眼中にないのよ」
ぴしゃりと言ってのけたカーミラに、フレデリックが傷ついた子犬のように目を伏せる。
こんなことが言いたいわけじゃない。フレデリックを傷つけたいわけじゃないのに、私の心と反して口が回り出す。
「君が他の誰かを愛していても、俺のことを愛してくれなかったとしても構わない。俺が君だけをずっと愛するから。だから――俺を選んで」
差し出された手に自らの手を重ねて、今すぐにその胸に飛び込みたかった。
だけど、私の意識はそこでぷつりと途切れた――
薄っすらと瞼を開くと、見慣れた天井があり、おもむろに手を伸ばす。
身体が動いたことで、自分の身体を取り戻せたのは現実なのだと再認識する。そして先ほどのフレデリックとの間に起きた出来事もまた、すべてが現実だった。
「君のことを愛していないんだ」
「だから、もう俺には関わらないで。もう俺たちの婚約は解消されたんだから」
昼間、フレデリックに言われた言葉が、頭の中でこだまする。
――私のことを愛していない……今までの行動もすべてが演技だったっていうの?
私がフレデリックとはじめて出会ったのは四歳のとき。初対面の時こそ、冷たい印象を受けたものの、一度距離が縮まってからはずっと優しい彼だけを見てきた。それが全部嘘だったなんて。
衝撃的な事実を聞いた後、私は屋敷に帰るなり、へなへなとベッドに倒れ込み、いつの間にか気を失っていたらしい。
私が亡くなる直前まであった記憶の中では、フレデリックはまだ私を想ってくれていた。
だけどそれはすべてが幻で、真摯に想いを伝えてくれた彼はもういない。挙句の果てに、婚約解消までされているとは予想もしなかった。
やっとカーミラから身体を取り戻せたというのに、あんまりだ。
「どうして……どうしてなのっ?」
「きゃっ!」
ショックのあまり投げつけた枕が、いつの間にか部屋に入って来た侍女に当たる。彼女が持って来たであろう、ティーカップはカシャンと音を立てて床に落ちた。
「あ……」
昨日と似た光景に、「やってしまった」と心の声が漏れる。
私はすぐさま彼女に近づくと、床の上の光沢のあるティーカップに手をかけた。
「ごめんなさい、私のせいよ。物に当たるなんてどうかしてたわ。火傷はしていない?」
奇跡的に割れなかったティーカップをそっとワゴンの上に置く。
その間、私をじっと見つめていた侍女は、感心したように口を開いた。
「お嬢様が、天使に見えます……」
「天使?」
「はい……女神様と言いましょうか。こんなにも寛大なお方だったのですね」
うるうるとした眼差しを向けられて、思わず後退る。赤茶色のクセ毛に、鼻の上に乗った薄いそばかす。可愛らしくもどこかあどけない顔立ちに見覚えはなく、私は小さく首を傾げた。
――こんな子、いたかしら……? はじめて見るけれど。




