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すこし引っ越す  作者: N.river
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すこし引っ越す

 カンバスにはとりとめもない色がぶちまけられていた。

 隅から隅まで、本当に思い付きのように。

 それを巧みだ、という識者もいれば、趣味じゃないねと肩をすくめる若者に、いくらの値がつくんだねとアゴをさする商人まで反応は様々だ。

 カンバスはぼくの家からも見える位置に置かれていたし、それは無視できないほど巨大なもので、もしぼくの家があと数十メートルでもカンバスに近ければ一日中その影の中に家がおさまってしまうほどだった。

 そんなぼくのカンバスへの印象について簡単にまとめておくなら、嫌いじゃない、というところだろう。でも手放したくない、と思えるほど好みでもなかった。きっとこうして間近に毎日見ているせいだ。だいぶと贔屓目が混じって、こんな曖昧な印象しか持てなくなってしまったんだろうと思う。仕方ない。嫌いになんてなろうものならそれでも毎日、目にするのだ。やりきれなくなるか、気が狂ってしまうに違いなかった。

 だからだろうか。

 ある日、事件は起きた。

 カンバスへ落書きはされたのだ。

 見つけたのはカンバスを大変気に入っていた識者で、ぶちまけられたとりとめない色の中にそれは追加されていた。これはもうまったくもって専門家でしか気づけないような些細なものだろう。だが専門家が声を上げたからこそ落書きは大問題へと発展していった。

 もう大変だ。落書きを一目見ようと世界中の物好きたちが押し寄せる。記者たちは取材合戦を繰り広げ、その甲高い声をかき消すように上空でヘリが何機も舞い飛んだ。こんなひどいことを、と事態へ憤る声は重なり、歴史がけがされた、価値が落ちた、醜悪だったセンスがさらにその醜悪さを増した。それぞれが乱されたこれまでについてを休む暇なく罵り合う。

 だからだろう。やがて人々の興味は落書きの事実から落書きをした何某へ移ると、ついに犯人捜しは始められていた。ぼくだって通勤の度に毎朝その前を通るなら、容疑者の一人として足止めを食らわされ供述をとられるほどだ。

 冗談じゃない。こちとら無視できないから押し付けられるがまま受け入れて、嫌悪も興味も持たぬようつとめて日々をつつがなく過ごしてきたのに。なのに疑われるなどと、むしろ平穏だった日々を乱され迷惑しているのはぼくの方で、望まぬぼくにわざわざ落書きをしに行く動機なんて金輪際ありはしない。

 一体誰だ。

 ぼくでさえ犯人捜しをしたくなる。


 騒ぎが収まる様子がないまま季節は廻る。

 いつしか書き加えられた落書きもまたぶちまけられた色の一つとして馴染み始め、騒ぎだけが騒がしくぼくの日常を変えていた。

 もっとましなカンバスを見上げたかったな、と初めてハッキリ心の中で呟いてみる。けれどこんなに大きなものはもうどこへも動かせず、家がその影に飲み込まれずに済んできたことをただヨシとすることにした。

 同時にぼくは引っ越すことを考え始める。

 家族へおそるおそる打ち明けて、涙ぐむ妻に手を握られたならなおのこと決意を固めた。

 とはいえ巨大なカンバスだ。勤め先を変えない限り、ぼくの視界には押し入ってくるだろう。けれど気分転換はぼくにも家族にも必要で、大冒険への旅立ちのように浮足立って引っ越しの準備を進める。

 見つけた引っ越し先はほんの数キロ先、よく日の当たる土地に建つこじんまりした庭付きの一軒家だ。借りたトラックの荷台へ家具を積み込み固定する。家族を乗せて長らく世話になった家を後にすれば、道すがらどんどん大きく近づくカンバスがぼくの視界に反り立った。落書きの前には数人、吟味して眺める人影もまだ見受けられる。

 ご苦労なこった。

 そんな光景にまたうんざりして、カンバスの端から端へと家財道具を揺らしぼくはトラックを走らせた。

 と、向かいから背を丸めた年寄りはやってくる。

 カンバスの縁をなぞると裏からひょっこり姿を現していた。

 ボロをまとったような身なりはお世辞にも裕福とはいえず、丸めた背のせいでうつむいているのだからなおさら印象は暗かった。

 だがぼくは目を見張る。

 そのボロにはカンバスにぶちまけられたのと同じ絵の具が飛び散っていて、年寄りの背には自分の頭ほどの大きな筆が乗っていた。

 かと思えば筆は振り上げられる。

 すれ違いざまだ。

 カンバスへ叩きつけた。

 瞬間、飛沫は飛び散る。驚くことにそのひと滴ひと滴は異なる色をしており、だから万華鏡と、年寄りの周りへいっとき極彩色を広げた。滴る絵具も花が咲いたように足元を彩る。

 けど叩きつけた年寄りはといえば顔を上げて様子を確かめようともしない。カンバスを切り裂くのかと思うほど込めた気迫で、突き立てた筆ごと果てへ向かって歩き始める。

 七色の帯がじわじわと伸びていった。

 ぼくは目が離せず、金切声を上げた助手席の妻に呼び戻されて、車線からはみ出しかけた車を戻す。

 塗りなおされてゆくカンバスからトラックは離れゆく。尾を引く色は弾けるようあ鮮やかさで、遠ざかろうとも背後でバチバチ音を立てていた。

 聞きながらぼくは残念にまみれる。

 新しくなったカンバスを間近に生活できたのだ。前にしたならうんざりしていた日々もまとう新しさで変わっていたのかもしれないと思えた。落書きの呼び込んだ不穏も何もかもを飲み込んで塗りつぶし、新たな日常としてぼくらにも未来を与えてくれたのかもしれないと想像した。あれだけ従順と受け入れてきたのだから、多少の愛着くらい残っていてもおかしくない。

 けれど確かめることはもう無理だった。

 明日、少し離れた場所からこの一大事が見守られるのか、それともまた新たな火種ととり立たされるのか、ひっそり眺めていようと思う。

 そしていずれだろうと世界は変わった。

 祝うほかない。 

「おい、見えてきたぞ。新しい家だ」

 うながしぼくは指さした。




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