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将門炎舞記 下巻  作者: 浮島太郎
第9章 水郷に散る祈り

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強欲の胎動

その夜、常陸国衙の正庁、奥まった場所の塗籠ぬりごめに、灯火がひとつ揺れていた。行方郡司・壬生氏は、静かに盃を傾けながら、己の影を壁に落としていた。

壬生氏は、古くからの土豪であり、行方・香取・鹿島の水運を押さえる一族として、常陸国内でも屈指の実力者であった。

壬生氏は、最初から野心を隠さなかった。

彼は、戦を恐れない。むしろ、戦こそが“天与の機会”であると信じていた。


やがて扉が開き、常陸介・藤原維幾と、その子・為憲が姿を見せた。

壬生氏は盃を置き、ゆるりと笑んだ。


「……そうか。壬生氏は、下野の藤原秀郷に合力を恃んだと申すか。」

維幾は扇を軽く振り、鷹揚に言った。

壬生氏は、維幾の不安を見透かすように頷いた。

「秀郷殿は、将門の覇業を脅威と見ております。いずれ下野も常陸も、将門に呑まれるのではないかと。」

維幾に、どこか怯えが滲む。

壬生氏は続けた。

「源護殿と坂東平氏一門で保たれていた利は崩れ、今や、常陸国内は空白地帯。

その隙に、将門の与党と目される大掾殿を縁として、常総の族はこぞって将門になびき、もはや、国司の威信など届かぬ状況……。」

維幾の眉が動いた。


壬生氏は、その反応を逃さず、さらに言葉を重ねた。

「信太を奪う……それは、常陸の勢力図を塗り替えることに他ならぬ。

悪い芽は、手遅れとならぬうちに摘み取るもの。

だが、土地を得ずして兵馬を動かすなど、愚の骨頂です。」

その声音は穏やかでありながら、刃のように鋭かった。


「だが、もし下野国と結ぶということなれば、我らは下野守・藤原弘雅殿を恃むべきではないのか。」

維幾の問いに、壬生氏は鼻で笑った。

「忘れたのですか。良兼殿は下野国府を恃んで裏切られ、敗走したではありませぬか。

下野守は、すでに将門に篭絡されておりますよ。我らの楯になど成りませぬ。」

そして、声を潜める。

「だからこそ、下野国司と対立する秀郷殿と、裏で手を結ぶのです。

――維幾さまにご迷惑が掛からぬよう、私がこうして動いているのですよ。」

その言葉は甘い蜜のようでありながら、毒を含んでいた。


「しかし……秀郷殿は、朝廷から追討官符が出ている暴虐の徒ではないのか。」

維幾の声は震えていた。

壬生氏は、あえて大げさに肩をすくめる。

「何を今さら。その“賊”が、今や数千の私兵を抱え、坂東随一と謳われる騎馬軍を持つ。国府の兵など、足元にも及びませぬ。」

為憲が息を呑む。

「官符を受けた五か国のうち、秀郷殿を討とうと動いた国などありませぬ。常陸介殿も、これまでに何もなさっておらぬでしょう。」

維幾は言葉を失う。

壬生氏は、二人の動揺を愉しむように、盃を指先で回した。


壬生氏は、維幾の弱さを見抜いていた。

為憲の焦りも、すべて計算に入れていた。

――将門の脅威に備えるべく力を得る。

――目障りな国豊と玄明を討つ。

――信太浮島を奪い、利を得る。

秀郷の野望、壬生氏の野望、そして維幾父子の恐怖が、いま一つの線で結ばれようとしていた。

壬生氏は、静かに笑う。

その笑みは、闇の底から湧き上がるもののようだった。

「さあ、維幾さま。信太討伐の名目を、秀郷殿にお与えくだされ。

それが、常陸を守る唯一の道でございます。」

維幾は、盃を握る手を震わせながら、ついに頷いた。

その瞬間、常陸国の運命は、静かに、しかし確実に狂い始めた。


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