第2章 怨と義の京召喚 【5.赦免の朝、旅立ちの風】
【5.赦免の朝、旅立ちの風】
忠平邸での夜は、静かな温もりに満ちていた。
忠平の言葉は、将門と国豊の胸に深く沈み、その余韻は、灯火が消えたあともなお、二人の心の奥でほのかに揺れ続けていた。
だが、夜明けは容赦なく訪れる。
温かな団欒の気配は、冬の冷気にさらわれるように薄れていった。
赦免の詔が下ったその朝、京の空はどこまでも澄み渡り、冬の名残を抱いた冷気が、瓦屋根の上を静かに撫でていた。朱雀帝の元服に合わせて行われた恩赦は、将門、平真樹、国豊らにかけられた罪を、すべて洗い流した。
赦しとは他者から与えられるもの、悔い改めとは、自らの内に沈む闇と向き合う営み。
どちらも、心の底に沈んだ澱を完全に拭い去ることはできない。だが、もとより罪なき者にかけられた疑いが晴れるとき、人はようやく胸の重石を下ろすことができる。
それでも――
“痛くもない腹を探られた”という冷たい記憶だけは、水に溶けきらぬ墨のように、しばらく心に残り続ける。将門は赦免の知らせを受けてもなお、胸の奥に言いようのないざわめきを抱えていた。
京の空気は、彼にとってあまりに静かで、あまりに遠い。
坂東の荒れた風の中でしか呼吸できぬ己を、改めて思い知らされるようであった。
冬の色を残す庭は、枝々が冷たい光を受けて鈍く光り、花ひとつ咲かぬ静寂が、かえって都の深い呼吸を物語っていた。
忠平は二人の姿を見ると、長い沈黙ののち、ゆっくりと頷いた。
「赦免のこと、聞き及んでいる。……坂東へ戻るのだな。」
将門は膝をつき、深く頭を垂れた。
「卿。この御恩、忘れませぬ。坂東に戻り、必ずや――」
忠平はその言葉を遮るように、静かに言った。
「風は、……政などに縛られぬ。だが、風が吹かねば世は澱む。
将門よ……己の道を行け。ただし、決して驕るな。」
将門は拳を握りしめた。
胸の奥に、熱いものがゆっくりと満ちていく。
心の中を、すべて見通されているという思い……しかしそれが心地良く、温かい。
(――この人は、俺のすべてを見抜いている。)
その思いが、将門の胸をさらに熱くした。
国豊もまた、忠平の前に進み出た。
「卿の御厚情、国豊、生涯忘れませぬ。坂東に戻り、正しき道を――」
忠平は国豊を見つめ、低く言った。
「国豊。お前は“理”を持つ男だ。将門の風が荒れ狂うとき、その理が、必ずや彼を救う。
……それを忘れるな。」
国豊は深く頭を下げた。
胸の奥に、言葉にできぬ重さが宿る。
「将門の支えとなる」
――その決意が、静かに形を成していった。
二人は深く頭を下げ、邸を後にした。
京の町を抜け、東へ向かう街道に出ると、冷たい風が彼らの頬を鋭く打った。その風は、坂東の荒れた風に似ていた。
将門は、遠く霞む東の空を見つめた。
「……帰るぞ。坂東へ。我らの宿命の地へ。」
将門一行は、京を後にし、静かなる決意を胸に、故郷・坂東へと歩み始めた。
その背を見送りながら、忠平は独りごちた。
「……坂東の風よ。どうか、この若者たちを試しすぎるな。」
その声は冬の空気に吸い込まれ、やがて京の静寂に溶けていった。




