第35話 新しい居場所、領民の警戒
肺の奥まで凍りつくような、硬質な静寂だった。
王都の朝を彩る、柔らかな光と鳥のさえずり。そんなものはここには存在しない。
カーテンの隙間から差し込むのは、鈍色の光を帯びた、冷徹なまでの冬の訪れだ。
私は分厚い毛布の下で、石のように冷え切った自らの指先をじっと見つめていた。
毛布を跳ね除けると、部屋の空気が質量を持って肌にのしかかってくる。
暖炉の中で爆ぜる薪の音はとうに絶え、残された熾火が、死に際の獣のように赤く、弱々しく瞬いていた。
裸足で床に降り立った瞬間、足裏から脳天へ、針で刺されたような痛みが突き抜ける。
一歩、また一歩。
冷たい石の感触を、自らの存在を確かめるための楔として踏みしめる。
窓辺へ辿り着き、結露で白く濁ったガラスに指を触れた。
指先が触れた箇所から、灰色の世界が不透明なベールを脱いでいく。
視界の先に広がるのは、王都の華やかさを嘲笑うかのような、峻烈な山脈の稜線だ。
空と地の境界線は曖昧で、すべてが雪と霧の混濁の中に沈んでいる。
城下町の煙突から立ち上る細い煙だけが、この凍てついた地にも、か細い生命の営みがあることを示していた。
「……遠い、のね」
唇から漏れた熱が、白く形を成して、すぐに霧散した。
その白さは、私が今まで享受してきた嘘の色によく似ていた。
ヴァルモン公爵家の長女。第一王子の婚約者。
昨日まで私の背骨を支えていたそれらの名称は、この極北の地では何の意味も持たない。
私は洗面台に溜まった水を、躊躇なく両手で掬い上げた。
氷の破片を押し当てたような衝撃が、眠っていた細胞を無理やり覚醒させる。
鏡の中に映るのは、血色を失った蒼白な肌と、何者をも拒絶するような紫水晶の双眸だ。
私は鏡の中の自分に向け、ゆっくりと頬の筋肉を引き上げた。
指先で、口角の角度を微調整する。
左右対称。歪みのない曲線。
それは微笑みという名の、完成された防壁だった。
一度固定されたその「表情」は、もはや私の内面を一切映し出さない。
絶望も、安堵も、昨夜彼に向けた縋るような視線さえも。
私は、この分厚い仮面の下に、すべての真実を埋葬することに決めた。
予測不能なあの男、レオン・ノワールクールから自分を守るためにも。
家令から手渡された衣服は、驚くほど重く、そして粗暴だった。
暗い茶色の、厚手のウール。
指先を滑らせれば、繊維のささくれが皮膚を微かに削るような、摩擦の感触。
シルクの滑らかさや、レースの軽やかさといった、甘い誘惑はどこにもない。
だが、その重みこそが心地よかった。
首元まで覆う生地は、鎧のように私の体を締め付ける。
誰の記憶にも残らず、誰の視線も惹きつけない、透明な労働者の装束。
かつて、別の世界で身に纏っていた、血の臭いの染み付いた野戦服。その硬質な記憶が、今、この服の重みに重なる。
「動きやすい……」
独り言が、冷たい空気の中で硬く響いた。
私は鏡の中の見知らぬ女に最後の一瞥をくれ、部屋の扉を開けた。
――***――
廊下は、城というよりは牢獄の延長のように冷徹だった。
壁に掛けられた燭台は実用性のみを追求し、余計な装飾は一切排除されている。
光と影の境界線が鋭く、その冷たさは主であるレオン・ノワールクールそのものを体現しているようだった。
足音を忍ばせて歩く私の前で、使用人たちが蜘蛛の子を散らすように道をあける。
彼らは壁に背を預け、祈るように深く頭を垂れた。
だが、伏せられた睫毛の隙間から漏れ出るのは、剥き出しの嫌悪と、得体の知れないものへの恐怖だ。
王都から流れてきた、王家への反逆を目論んだ毒婦。
その噂は、この地の凍てついた石壁にも、すでに深く染み込んでいるらしい。
私は彼らの恐怖を、まるで薄い膜越しに眺めるように受け流した。
構わない。恐れられ、避けられること。
それこそが、私の望む孤立の形だ。
誰とも関わらず、誰の心にも触れず、ただ記録し、消えていく。
「ごきげんよう」
私は壁際に固まる彼らに、氷の結晶のように透き通った微笑を投げかけた。
誰も、返事をしない。
ただ、私が通り過ぎた後の空間に、微かな震えと、凍りついた吐息だけが取り残された。
一階へ降りると、昨夜の家令が彫像のように立っていた。
彼の視線が、私の纏う安物のアウターを、なぞるように動く。
そこに侮蔑があったのか、あるいは別の何かが混じっていたのか。彼の表情からは読み取れない。
「おはようございます、セレスティーヌ様。……サイズに不備は?」
「ええ、完璧ですわ。この重みが、今のわたくしには相応しい」
事務的な、抑揚を削ぎ落とした声で答える。
家令はわずかに瞼を揺らしたが、それ以上の追及はしなかった。
「閣下より、領地の視察を命じられております。薬師としての職分を全うされるのであれば、この地の病を知るべきだ、と」
「承知いたしました。案内を」
私は、彼が差し出した分厚いローブを羽織った。
その瞬間、さらに増した質量が肩に食い込み、私の自由を物理的に奪っていく。
それが、この地で生きるということの対価のように感じられた。
――***――
城門を抜けた瞬間、風が牙を剥いて襲いかかってきた。
肺に吸い込んだ空気は、肺胞の一つ一つを鋭い刃で切り裂くような痛みを伴う。
城下町に足を踏み入れると、そこには王都の喧騒とは異質な、低周波のうねりのような活気があった。
石造りの家々は、雪の重みに耐えるために低く、頑丈に作られている。
行き交う人々は一様に、深い外套に身を包み、視線を地面に落としたまま歩を早めていた。
だが、私の視界には、それ以上の情報が沈殿していく。
すれ違う男の、不自然に浅い呼吸。
母親に抱かれた子供の、蝋細工のような皮膚の白さと、その縁に浮かぶ不気味な紅潮。
広場の隅で蹲る老人の、乾いた、それでいて肺の奥で粘つくような咳。
前世で、死の淵を歩く者たちの最期を、レンズ越しに見つめ続けてきた私の「眼」が。
この領地を蝕んでいる、栄養失調と慢性的な地方病の兆候を、瞬時に炙り出していく。
『……死が、近すぎる』
私は、無意識に喉の奥を鳴らした。
この寒冷地において、病は「不幸」ではなく「常態」なのだ。
人々は、生きるために必要なエネルギーを、ただ体温を維持することだけに費やしている。
私が市場の広場へと足を踏み入れると、ざわめきが断ち切られた。
野菜を並べていた老婆の手が止まり、荷車を引いていた男が動きを止める。
数百の視線が、熱病のような密度を持って私に突き刺さった。
「あれが……あの女か」
「毒婦、セレスティーヌ……」
湿った呟きが、冷たい風に混じって私の耳に届く。
彼らの瞳にあるのは、城の使用人たちよりもずっと、純粋で、暴力的な排斥感だった。
彼らにとって、私は自分たちのささやかな平穏を脅かす、災厄の象徴に他ならない。
私は足を止めなかった。
泥を跳ね上げるブーツの感触を、律動として刻みながら進む。
背筋を伸ばし、顎を引き、世界で最も美しい怪物の顔で、彼らを見下ろしてやる。
「……お嬢様。いえ、セレスティーヌ様とお呼びすべきかな」
人混みを割って、一人の老人が立ちはだかった。
深く刻まれた皺は、この地の過酷な年月をそのまま記憶した地層のようだった。
トーマスと名乗ったその男の瞳には、冷たい怒りと、譲れない一線としての矜持が宿っている。
周囲の領民たちが、彼の背後に隠れるようにして、息を殺した。
彼はこの町の、沈黙の守護者なのだろう。
「……ごきげんよう、トーマス。わたくしの歩みを止めるほどの、何事かしら」
私は、彼に温度のない微笑みを向けた。
トーマスは、私の銀色の髪を、そして紫水晶の瞳を、解剖するような鋭さで見据えた。
「ここは、王都とは違います。凍てついた土からは、金貨も宝石も生まれません。あるのは、ただ、冬を越すための僅かな糧と、厳しい掟だけです」
彼の声は、乾いた枯れ木が折れるような音を立てて響いた。
「あなたのような、他者の血を啜って美しく咲く徒花には、この地の泥はあまりに冷たすぎる。どうか、私たちの生活を、これ以上かき乱さないでいただきたい」
それは、明らかな追放の宣言だった。
お前に関わるつもりはない。お前を歓迎することもない。ただ、透明なまま死ね、と。
私は、トーマスの鋭い視線の奥に、一つの空洞を見つけた。
それは、明日をも知れぬ命を抱える者特有の、絶望に慣れきった、深い、深い沈黙。
「……ご不満、ですって?」
私の声が、広場に降り積もったばかりの雪を揺らした。
微笑みは崩さない。だが、その奥にある「私」という意識を、あえて一瞬だけ、彼らの前にさらけ出す。
「不満など、ございませんわ。わたくしは、すべてを失ったのですから」
トーマスの眉が、微かに跳ねた。
「地位も、名誉も、名前さえも。今のわたくしは、ただの大罪人。そして、公爵閣下に拾われた、ただの労働力に過ぎません」
私は一歩、彼に近づいた。
彼が纏う、安っぽい酒と、古い家屋の煤、そして病の臭いが鼻を突く。
「わたくしは、ここで働くために参りました。薬師として、この地のノイズを取り除くために。それ以上のことは、何一つ、望んでおりませんのよ」
トーマスは、言葉を失ったように私を見つめた。
私の瞳の中に、虚栄の火は灯っていない。
あるのは、ただ、自分の存在を消し去ろうとする、歪んだ純粋さだけだ。
彼は私の表情の裏側に、触れてはいけない虚無を見たのかもしれない。
長く生きた者が持つ、本能的な恐怖。
彼は、私の横を通り過ぎることを許すように、ゆっくりと半身を引いた。
「……ただの、薬師として、か」
彼の呟きは、風にかき消された。
私は、彼の脇をすり抜ける瞬間、その首筋に浮かぶ青紫の斑点を見逃さなかった。
彼自身もまた、この地の冬に蝕まれている。
私は、完璧な一礼を捧げ、再び歩き出した。
背中に突き刺さる視線の数は変わらない。
だが、その圧力は、先ほどよりも僅かに湿り気を帯びていた。
『誰も救わない。感謝もされない』
私は、凍てついた空に向かって、声にならない言葉を吐き出した。
彼らが私を憎めば憎むほど、私の記録者としての輪郭はぼやけ、透明になっていく。
あの子どもの咳を止める薬を、夜のうちに井戸の傍に置こう。
トーマスの病を鎮める煎じ薬を、家令にそれとなく渡そう。
私が関わったという証拠を残さず、ただ、現象として彼らの命を繋ぐ。
それは、前世で救えなかった数多の命に対する、醜い免罪符かもしれない。
それでも。
「わたくしは、背景として生き延びるわ」
レオン・ノワールクール。
あなたが私に与えた、この極寒の檻。
私はここで、誰の記憶にも残らない、最も重厚な空白になってみせる。
ノワールクール領での朝は、私の魂が決定的に凍結したことを告げるように、さらに鋭い突風を吹き荒れさせた。




