プロローグ 記録者の最期
肺の奥に、粘りつくような塩素の白が刺さっている。
呼吸のたびに喉の粘膜が微かに震え、乾いた摩擦が胸腔に響く。
野戦病院を支配する、湿って重い沈黙。
視線を動かすことすら、今はひどく億劫だった。
枕元のトレイでは、冷え切ったスープの表面に灰色の膜が張り、運ばれてから堆積した時間の長さを物語っている。
それは、すでに栄養ではなく、放置された「遺物」の相貌をしていた。
壁際で、機械が一定のリズムで吐き出していた電子音は、いつの間にか途切れている。
代わりに、時計の秒針が鼓膜を叩く。
コツ、コツ、と硬い音が、空っぽの部屋に重力場を作っていた。
指先を震わせ、毛布の下にある四角い輪郭を探り当てる。
画面が灯り、青白い光が網膜を薄く焼いた。
妹から送られてきた画像が、暗闇の中に浮かび上がる。
色彩の暴力。
現実味のないほど鮮やかな、銀の髪と紫の瞳。
画面の中のその女は、氷を削り出したような微笑を浮かべ、周囲の熱を跳ね返していた。
私は返信を打とうとして、やめた。
指が、液晶の冷たい滑らかさをなぞる。
この女の眼球の奥、光が届かない場所にある、微かな歪み。
それは、レンズ越しに「完璧な悲劇」を探し続けてきた私だけが嗅ぎ取れる、腐臭だった。
――レンズの向こう側。
焼けた瓦礫の隙間から、細い指先が伸びていた。
灰を被ったその手は、何かを掴もうとして虚空を掻き、震えていた。
私は、シャッターを切った。
指先に伝わる、機械的なクリックの硬い振動。
金属とガラスの塊が、私と世界の間に境界線を引く。
助けるための手ではなく、切り取るための指。
あの子が求めていた体温を、私は「記録」という冷たい質量に変換して、鞄の中に押し込めた。
胃の底が、じわりと冷える。
何年も前に飲み込んだ鉛の塊が、今さら喉元までせり上がってくる。
嚥下ができない。
鉄の味が、舌の付け根にこびりついて離れなかった。
視界が、急激に揺らいだ。
端末のバッテリーが尽き、光が死ぬ。
暗転した画面に、自分の顔が微かに映り込んだ。
頬は削げ、瞳からは生気が失われている。
けれど、その口角だけは、いつものように穏やかに。
誰にも何も悟らせない、鉄壁の拒絶。
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
肺に残っていた最後の空気が、音もなく漏れ出していく。
次に触れたのは、暴力的なまでの柔らかさだった。
消毒液の刺すような匂いは消え、むせ返るほど甘い花の香りが鼻腔を塞ぐ。
瞼を透かして届く光が、あまりに白い。
重い身体を無理やり引き剥がすようにして、身を起こす。
指先が、滑らかな生地を捉えた。
絹。
肌を滑るその感触は、戦場の砂混じりのシーツとはあまりにかけ離れている。
自分の手を見る。
カメラを支え続けたはずの、中指の硬い角質が、消えている。
代わりに、光を透かすほどに薄く、瑞々しい皮膚。
視界の端で、銀色の糸がさらさらと雪崩れ落ちた。
それは、私の首筋を撫でる、冷たい無機質な手触り。
鏡の前に、這うようにして立つ。
そこにいたのは、かつて液晶越しに、その「歪み」を観察していた孤独な女だった。
銀髪が肩の上で鳴らす、絹糸が擦れ合うような微かな音。
紫水晶の瞳が、鏡の中から私を射抜く。
私は、自分の喉に触れた。
そこにはもう、塩素の苦みも、死の予感もない。
けれど。
鏡の中の少女が浮かべた完璧な微笑みの裏側で。
行き場を失った震えが、まだ指先の奥に残留している。




