第二王子と貴女
初めて彼女と出会ったのは、兄が十歳、私と彼女が七歳の時でした。当時、幼かった私は詳しい事情は理解していませんでしたので、既に男爵家の庶子として知られていた彼女との、態々仲睦まじかった兄とはとこにあたる公爵令嬢との婚約を解消してまでの縁繋ぎに酷く違和感を感じたことを覚えています。
え? ええ、今では理解していますよ? 今、この国を取り巻く情勢は徐々に悪化しています。近隣国では数年のうちに、と言う訳ではありませんが戦争を求める声が高まっているそうですから。ですから、一人でも多くの力ある魔法使いを、抑止力として生み出す事こそが今の王家に求められているのです。
ですが、兄はそれを理解していなかった。いえ、理解していなかったわけではないのでしょう。ただ元婚約者であった公爵令嬢を慕っていた、それだけなのです。だから、彼女に辛く当たっていた。
ええ、その心情は理解は出来ます。出来ますけれども、それでも兄は王族で、王太子候補でした。どこかしらで、折り合いを付けなければならなかったのです。
けれども兄は、男爵令嬢の事を知ろうともせず、男爵とその妻、妾たちの反感を買い続けました。父も幾度か兄を窘め、男爵たちに内密にではありますが頭を下げていたようですけれども、結局兄がそれに気付くことはありませんでした。
兄は知りませんでした。男爵とその妾たちが元々最高位に程近い冒険者であったことを。その実力を見込んで、父が自国に招き厚く遇して国に留まってもらっていたことを。
兄は知ろうとしませんでした。男爵家には父の従妹にあたる信頼の厚い公爵家令嬢が嫁いだ事も、新たな女主人となった公爵令嬢こと夫人が細心の注意を以て妾である男爵の仲間へと接している事も。
別に媚び諂って男爵の機嫌を取っている訳でありません。男爵は……と言うか、男爵の奥方たちは道理をわきまえたお方たちでしたので、こちらから最低限の礼を失しない限りは、相手を立てると言う事をよく知っておいでです。その最低限の礼と言うのも、ええ、冒険者であった頃から変わらず、身内を侮辱されれば怒髪天の如く、というだけ。それ以外の事であればとても寛容な方々です。
そんな彼らですが、ええ、寧ろ知らざるを得なかったと言うべきでしょうか。かつて男爵たちと同様に力で以て爵位を得た者は大勢いましたが、その大半はそう代を重ねぬうちに没落したと聞いています。その前例があるからこそ、奥方たちは調子に乗りやすい男爵を抑えお互いに尊重し周囲へと気を配っている。既に正妻たる夫人と妾たる元仲間たちは同志となっているのだとか。
幸いだったのは、彼らの怒りを買ったのは兄を含め一部の個人だけだったこと、でした。もしその怒りがこの国へと向いたのであれば……いえ、滅ぼされるだとか乗っ取られるだとか、そんな心配はしていません。ただ、一家そろって……この国の貴族であるはずの夫人やその実家、どころか彼を英雄と慕う若者たちさえも連れて国を出てしまう事でしょう。元々、いえ今だってとても自由なお方ですから。
ともあれ、兄はそんな方たちの怒りを買ったわけです。あれだけ言い含められていたというのに、婚約を解消するにももっと丁寧に根回しを行えばそこまででもなかったかもしれませんが……まぁ、何もかもが今更でしかありません。
途端に、兄に割り当てられた歳費は困窮致しました。元々豪快にお金を稼いでは豪快に使う癖のあった男爵は、どうやら請われるままに兄に資金援助をしていたようです。それが一切合切なくなっただけで、この始末。いえ、別に返却を求められたわけではありません。真っ当に考えれば、婚約を基として行われてきた援助ですから、婚約が解消されればそれがなくなり、またそれまで受けた援助分を返却すべきは当然の事なのですが、兄は逼迫した財政を突き付けられてそこまで頭が回らない御様子でした。
歳費と言うのは、当然ながら国民の納めた税から出るものです。王族の一人一人に、立場に見当った額が決められ支払われます。我が国では、それで足りなければ後援者を募るか、自身の身で稼ぎ出せと言われます。一番上の姉などは、派手好きで夜会の度にドレスや装身具を誂えるような散財をしていますが、それも若い頃に男爵と意気投合した後自分自身で彼の領地にある迷宮に潜り稼ぎ出していますし、当然私も、多少の小遣い程度ですが勉強の合間に文官の真似事をして給金を頂いています。我が国はその辺りはとても厳しいのですよ。ぐうたらと遊んで暮らしていけるような甘い身分ではないのです。
ええ、その通り、兄は何もしていませんでした。いうなれば、婚約者であった男爵家が後援者であった、それだけの話。言えば言うだけお金を出してくれる男爵家に甘えて贅沢に慣れ切ってしまったのでしょう。いえ、スポンサーを得る事が悪いとは言いません。それもまた、それだけ期待されていると言う事ですから。この件に関してだけは、ええ、兄を甘やかした男爵に非があると言えるでしょうか?
そんなわけで、何時ものように派手に散財していた兄は、それまで男爵に頼り切りで手を付けていなかった五年分の歳費をたった三日で使い果たしていたそうです。いつものようにツケを男爵家に回し、それを男爵家の奥方たちが突っぱねて王宮へと知らせたために事が発覚しました。
この五年、特に子爵令嬢と知り合ってからの兄の豪遊は、とんでもないものでした。歳費で計上するなら、王太子の立場に二十年ほど就いたとしても届くかどうかと言うところで通常ならありえない程のモノ……これだけの額をぽんと出せる男爵家の財力に、思わず恐れ慄いたものです。
更に言えば、その内容は目を覆わんばかりの惨状。その殆どが例の子爵令嬢に流れているとなれば、言い訳のしようもありませんでした。しかも、兄は援助が婚約の上に成り立っている事を認識していなかったそうですから……ええ、下手に弁護をすれば飛び火どころか延焼してあっという間に焼き尽くされてしまいそうだと、兄の派閥の貴族たちですら、兄を見放してしまったのです。
結果として、兄と子爵令嬢は身分を剥奪されました。表向きは病死と言う事にして、歓楽都市として有名な三つ向こうの国の王都の高級娼館へと売られ、放蕩の末の借財がなくなるまでそこで働かされるのだそうです。その後については私は聞いてはいませんが……仮に借財がなくなったところで死んだことになっているのですから戻って来る事は叶わないのではないかと思われます。
……実は兄と子爵令嬢が国を出されるとき、私も見送りに姿こそ現してはいませんでしたが、其の場に立ち会っていました。
子爵令嬢は、最後まで自分のしたことを理解してはいませんでした。ただひたすらに自分は悪くない、兄からの贈り物だって自分から求めたことはないと訴えていました。
確かに、彼女からあれが欲しい、これが欲しいと言った事はなかったのでしょう。ただ、兄が用意した贈り物を受け取って、それを兄が好むように喜んで見せただけ。でも、無実ではありません。彼女が意図していようといまいと、それが兄の歯止めを奪ってしまったのです。ですから、この借財は兄と子爵令嬢のモノと、そうなったのです。
そして対照的なまでに、兄は萎れていました。兄も、仮にも唯一の正妃腹の王子であったのです。地頭は悪くはない筈なのです。やらかしてしまう前に気付けなかったのは惜しいとしか言いようがありませんが、きちんと説明されれば、それをきちんと咀嚼し理解するだけの事は出来るのです。むしろできない子爵令嬢が問題なのでしょう。
だからこそ、男爵令嬢との婚約の意味も、今までの自分の豪遊の理由も、理解したからこそ大人しくしていたのでしょう。
そこまではまだ、私も予想していました。けれどもそこには一つだけ、私の予想していなかったものがありました。
歓楽都市へと売られていく予定の人物は、五人いました。そのうち二人は兄と子爵令嬢です。
残りの三人は、兄の従兄妹に当たる公爵家の次代達でした。つまりは、父王の正妃の、甥姪たちです。何故ここに彼らがいるのか、それはすぐに説明されることになりました。
実のところ、男爵家からの援助を横領していたのは兄だけではなかったと言うのです。正妃殿下自らが率先して行い、ご実家である公爵家に横流ししていたのだとか。
とても表沙汰に出来る話ではありませんでした。兄の話だけなら、膨大な額を除けばそれなりにある話です。妻の実家からの援助でのぼせ上った夫が羽目を外す、と言うだけなら夜会でもよく囁かれる笑い話でしかない。
けれど、夫或いは婚約者の実母が自分の実家にその援助を流用する、と言うのは……特に身分の高い者が行えば致命的な醜聞となってしまいます。ただでさえ、男爵令嬢と兄の間に婚約が成った五年前にも、正妃殿下は一度失態を犯していたのですから、釈明の余地もなかったのだと、父王は言っていました。
失態の内容ですか? 聞いてどうするのです? まあ、構いませんけれど……兄の婚約者であった男爵令嬢を罵り体の良い金庫として扱おうとしたのですよ。それも公然の場で……ええ、隠しようもない大失態でしたから、調べようと思えば簡単にわかる事ですからね。今更、です。
ともあれ話を戻しましょうか。兄と子爵令嬢は個人の罪とし、公爵家は家の罪とする、その決定の差分がよくわからなかった私は、後で父に問う事にしました。いえ、正確には父だけではなく、男爵やその奥方たちも同席していた場ではありましたが、その決断に彼女たちが関わっていたことはなんとなくわかっていましたから、知りたい事を知るだけ、なら問題はなかったかと今でも思っています。
単純極まりない話でした。正妻であった夫人を除き元々庶民で冒険者であった彼女たちは貴族のどろどろとした足の引っ張り合いなど関係ないとばかりに、直接的に関わった者だけを罰する事を望んだのだそうです。
例えば、兄と子爵令嬢。この二人は私にも見えていた直接的な当事者です。その処遇は既に述べられた通り、その身をもって借財を返却すべく働くことです。具体的な総額は各国の中でも比較的質の良いとされる我が王国金貨で凡そ六百枚。
庶民に流通している貨幣は殆どが銅貨か銀貨。それぞれ銅貨が百枚で銀貨一枚と同等であり、同様に銀貨が百枚で金貨一枚と同等。銀貨一枚あれば庶民の一家族は優に一月は食べていけます。可もなく不可もない男爵家辺りなら、凡そ銀貨三百枚が年収となるでしょうか。
よく、一生遊んで暮らせるだけの財、なんて言いますけれど、本気で散財すればどれだけ財があっても足りない事がよくわかりました。そして、それだけの財を放出していながら顔色一つ変えない男爵一家のとんでもなさも。ああ、いえ、一人だけ、正妻だけは真っ青な顔をしていましたか。元々あの公爵家は財務畑の方ですからね。
そして兄の無心に便乗していた元王妃殿とそのご実家。こちらは、兄たちに輪を掛けてすさまじかったようです。何せ、通常なら眩暈を起こしてしまいそうな膨大な兄たちの借財が、足元にも及ばなかったのだから。
元王妃殿下のご実家は我が国に三つある公爵家の内の一つでした。ええ、古くから続く名門ともいえる家柄でしたね。その事に胡坐をかいていたせいなのか何なのか、今代当主、つまり元妃殿の兄上の代になってから余り上手くいっていなかったようです。ですが五年前程、そう、男爵令嬢と兄の婚約が成ってからは幾許か持ち直し、そして一年ほど前、兄が子爵令嬢に入れ込むようになってからは見違えるほどに羽振りが良くなっていました。
監査も当然の様に入りはしたのですが、どういう訳か表だって監査に入った人間が次々と事故で亡くなってしまった為、どうにも時間がかかってしまった様です。ええ、公爵家の差し金だったそうです。
そういう訳で公爵家は取り潰し当主やその奥方、元王妃殿下は縛り首となり、その子供は嫡子は兄たちと同様に売られ、庶子たちは男爵領にある迷宮に潜り借財を返済すると言うことに決まりました。ええ、こちらもまた、下手に擁護すれば巻き添えになるとかで庇う家はなかったそうです。まあ、甘い汁を吸っていた家もありましたし、その辺りは連座で処罰されるそうですが。こちらに対しては男爵家の方々は容赦もなにもなさいませんでした、ええ。
そうして兄と子爵令嬢、そして元公爵家の子息子女たちはそれなりに質の良い馬車で売られていきました。ええ、道中傷がついて借金の返済が出来なくなっても困りますので。
話も長くなりましたが、これが兄と男爵令嬢の婚約破棄の顛末となります。ええ、恋にのぼせあがると人間何をするか分からないというのは、よくわかりました。
彼らを反面教師として、私は新たに婚約者となった男爵令嬢との仲を深めていこうかと思います。
え、もし彼女以外に愛する者が出来たらどうするのか、ですか?
そうなったら、困りますね。ええ、今回の事で男爵も奥方たちも、腹を据えかねているでしょうし、下手をすると兄の二の舞どころか、生命の危機となるかもしれませんし。
最低でも、彼女を悲しませないように、男爵たちに対して筋を通すしかないでしょう。王族だから何でも思うがままになる、なんてワケはないのですから、ね?
だから……ねぇ、貴女。下手なちょっかいはかけないほうが、身の為ですよ?




