第93話 レオンの到着
アルカディアの港へ船が入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
舷梯を降りたレオン・カリストは、肩に掛けた鞄を持ち直しながら、久しぶりに見る港へ視線を巡らせた。最後にここを訪れたのは、まだ学院に通っていた頃だから、もう随分前になる。父に連れられてアルカディアを訪れ、イレーネと初めて出会ったのも、あの夏だった。
当時から王国有数の港町ではあった。だが、記憶の中にある街より、今は明らかに勢いが増している。
埠頭から続く通りには日焼けした船員や大声を張り上げる商人だけでなく、旅装の家族連れや職人らしい男たちまで絶えず行き交っていた。昼を過ぎても食堂や酒場は客が途切れず、宿屋の前では到着した者と出発を待つ者が入れ替わる。商館の並ぶ一角には見覚えのない異国風の看板も増え、耳へ入ってくる言葉にも王国内とは違う独特な響きが混じっていた。
王都も人の多い街には違いない。ただ、婚約破棄から続く騒ぎや、タラシア家が王都から手を引き始めた影響もあって、今はどこか落ち着かない空気が漂っている。
アルカディアの慌ただしさは、それとはまるで違った。人が来る。船が来る。商人が新しい店を構え、別の土地から来た者がここで仕事を始める。街そのものが、外へ向かって膨らんでいる。
「ずいぶん変わったな……」
歩みを緩め、港へ目を向ける。
停泊している大小さまざまな帆船の中に、一、二隻ほど、他とは明らかに違う細長い船影が混じっていた。ガレオン型だ。
王都では全く見る機会のない船型だった。第二練習艦隊の旗艦を別にすれば、レオン自身も実物を見るのは久しぶりになる。
軍艦ではあるが、速力と航続力を考えれば、遠距離交易にも向いている。周囲の商船や停泊している位置を眺め、レオンは西方へ向かう船だろうと見当をつけた。
コンスタンティン王が進めてきた外洋航海と西方交易については、外務省にいた頃から何度も資料を見ている。サルヴァーノとの取引も増え、王都でもファイアーモスをはじめとする西方の品を目にするようになった。
数字では知っていた。だが、実際に港へ浮かぶ船や、外国人商人の姿を見ると、受ける印象はまるで違う。
さらに沖へ目を向ければ、セルカーン帝国の商船も何隻か確認できた。
「南も増えてるな」
以前なら、南方から王国へ入る品の多くはネイモを通っていた。その流れの一部が、今はアルカディアへ直接伸び始めているらしい。西へ向かう船があり、南から来る船がある。そこから荷と人が王国内へ散っていく。
王国の西端にある一領地という印象は、もう随分薄かった。
レオンはしばらく港を眺めたあと、目を細めた。
イレーネがアルカディアへ帰ってから、まだ二週間ほどしか経っていない。目の前の活気に満ちた景色が、その短い間に出来上がったものではないことくらいは分かる。
「……さすが、ミハイル様だな」
王都でもミハイル・タラシアの名は広く知られている。武門の大貴族を束ねる当主でありながら領地経営にも長け、古くから豊かなアルカディアの交易と産業を、さらに伸ばしてきた人物だった。
王家との関係が崩れたから、慌てて外へ目を向けたわけではない。元からあった道が、今はさらに太くなろうとしている。そして、その実務を担っているであろう男の顔も自然と思い浮かんだ。
コンラッド・タラシア。
学院ではレオンより一学年上だった。高位貴族の子弟同士だから互いに顔と名前は知っていたが、学院時代に親しく付き合ったわけではない。コンラッドは一足先に卒業してアルカディアへ戻り、その後は王都へ来た際に仕事で何度か顔を合わせた程度だった。
生真面目で、責任感が強い。少なくとも、任された仕事を途中で放り出すような男ではない。
直情的な妹のイレーネとは、随分性格が違った。イレーネなら思いついた瞬間に走り出す。
コンラッドは、その後ろで必要な人や金を揃え、増えた仕事を一つずつ片付けていくような人物だ。
「今頃、かなり酷い目に遭ってるんだろうな」
学院時代の苦労人然とした彼の面影を思い出し、レオンは少しだけ同情した。
もっとも、これから自分もそこへ加わるのだから、他人事でもない。
レオンは港を離れ、まず宿へ向かった。長旅の荷物を置き、服装を整えると、父ダミアンから預けられた紹介状を持って領主館へ向かった。
◇
領主館で通されたのは、ミハイルの執務室だった。
大きな机の向こうにはミハイルが座り、その傍らにはコンラッドが立っている。
学院時代より顔つきは大人びていたが、生真面目な雰囲気には記憶との違いがほとんどなかった。
一通りの挨拶を済ませたあと、レオンは鞄から一通の封書を取り出した。
「父からです。アルカディアへ着いたら、まずミハイル様へ直接お渡しするよう言われました。紹介状だとは聞いていますが、中身までは教えられていません」
「ああ、預かろう」
ミハイルは封書を受け取り、その場で封を切った。紙をめくる乾いた音が、しばらく静かな執務室に響く。
読み始めた時には普段通りだったミハイルの顔が、途中からなんとも言えない微妙なものへ変わっていった。一度最後まで目を通したあと、途中へ戻って数行を読み直し、やがて手紙越しにレオンを見る。
「レオン君。一つ確認したいのだが、君は家を勘当されたのか?」
「はい?」
予想もしなかった問いに、レオンは目を瞬いた。
「いえ。少なくとも王都を出るまで、その話は一度も聞いておりませんが」
「なら、ダミアン殿は随分と思い切ったことを書くものだ」
「何と書いてあるんです?」
ミハイルは手紙へ目を戻した。
「外交官として必要なことは厳しく仕込んだ。外務省で実務も経験させている。本人がアルカディアで働くと決めた以上、カリスト家の嫡男だからと特別扱いする必要はない、とある」
そこで一度言葉を切り、最後の部分を指先で軽く叩いた。
「その上で、アルカディアのため遠慮なくこき使ってほしい、と締めている。親が息子を紹介する手紙としては、なかなか容赦がない」
レオンは数秒黙ったあと、額へ手を当てた。
「……そこまで書いてありましたか。出る前に話ぐらいしてくれてもよかったと思いますが」
「話さなかったのも、わざとかもしれんな」
ミハイルの口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「君の反応まで見越していそうだ」
「否定できないのが腹立たしいところです。父が相手では無理ですよ。二十年以上見られてますからね。私が何を考えているか読むのは、向こうの方が上手です」
「なるほど。外では隙のない男だが、息子相手だと随分楽しんでいるらしい」
「ええ。少なくとも私の反応を見るのは、昔から好きみたいですよ」
「それは知らなかったな」
「できれば、そのまま知らないでいてほしかったです」
ミハイルが声を立てずに笑った。その傍らで、コンラッドは静かに二人のやり取りを聞いていた。
ミハイルは手紙を机へ置くと、改めてレオンを見る。
以前、この青年がアルカディアを訪れた時のことは覚えている。当時はまだ学院生で、父ダミアンに連れられて各地を見て回っていた少年だった。
それから数年。外務省へ入ったレオン・カリストの名は、王城でもたびたび耳にするようになった。若いながら重要な案件にも関わり、いずれ父の後を継ぐのではないかと見る者もいる。
「君はカリスト家の嫡男でもあるな。外務省を辞めてアルカディアへ来たとなれば、単なる転職では済まない。家督にも関わる話になるだろう。その点について、父上とはどこまで話した?」
「アルカディアへ行くことも、外務省を辞めることも伝えました。その時、父から言われたのは二つだけです。二十三にもなった息子の人生まで父親が決めるつもりはない。それから、自分で選んだ以上、後になって誰かのせいにはするな、と」
「止める言葉はなかったのか?」
「ありませんでした。最後には、イレーネ嬢のところへ行くなら役に立ってこい、とまで言われましたから、少なくとも反対ではなかったのでしょう」
ミハイルはしばらく黙り、手元の手紙へ視線を落とした。
「ダミアン殿らしいな」
それ以上、父子の間でどこまで話があったのかは聞かなかった。
「分かった。こちらとしては歓迎する。今のアルカディアには、王都や国外との交渉に慣れた人間が足りない。まずは対外折衝を扱う部署に入ってもらう。待遇は部長格としよう」
「ありがとうございます」
「今後は王都との交渉も、国外との調整も増えるだろう。細かな役割については、コンラッドと詰めてくれ」
レオンはミハイルの言葉を聞き終えてから、深く頭を下げた。
「承知しました。外務省で身につけたものを持ってきた以上、遊ばせるつもりはありません。必要なところで使ってください」
その時、廊下の向こうから足早な靴音が近づいてきた。間を置かず、扉が開く。
「レオンが来たって聞いたんだけど――」
ノックもせずに入ってきたイレーネは、机の前に立つ青年を見つけると、そのまま顔を明るくした。
「レオン!」
呼ばれたレオンが振り返る。先ほどまでミハイルへ向けていた強い眼差しが、ふっと和らいだ。
「イレーネ。久しぶり」
「本当に来たのね。いつ着いたの?」
「昼過ぎだよ。宿へ荷物を置いて、身なりだけ整えてからこちらへ来た」
「王都から大変だったでしょう? もう直接アルカディアへ来るのは簡単じゃないんじゃない?」
「少し面倒だったかな。でも無事に着いたよ。道中の話はあとでゆっくりしよう」
「ええ。聞かせて」
二人の会話を聞きながら、ミハイルは黙って様子を眺めていた。
レオンは礼儀正しく、受け答えにも淀みがない。ただ、相手をまっすぐ見据える目には妙な強さがあった。
コンラッドも先ほどから、時折その視線を気にしている。
ところが、イレーネへ向ける目には、その強さがない。そこにあるのは、どこまでも穏やかな眼差しだった。
数言交わしたところで、レオンが今の状況を思い出し、ミハイルへ向き直った。
「失礼しました。面会の途中でしたね」
「構わん。こちらの話はもう終わっている」
ミハイルは娘へ目を向ける。
「ただし、お前はノックぐらいはしろ」
「……すみません」
素直に謝ったイレーネを見て、コンラッドがわずかに表情を緩めた。
レオンは改めてミハイルと握手を交わす。
「今後とも、よろしくお願いいたします」
「ああ。期待している。ダミアン殿に『使い物にならなかった』と返事を書くことだけは避けたいからな」
「それは私も困ります。何年言われ続けるか分かりません」
握手を終えると、レオンは今度はコンラッドへ右手を差し出した。
コンラッドもすぐにその手を取る。
「これからよろしくお願いします、先輩」
「……先輩?」
握った手をそのままに、コンラッドがレオンを見る。
レオンの握手は予想していたより力強かった。痛むほどではないが、細身の文官から受ける印象より、ずっとしっかりとした芯のある手だった。
「学院では一学年上でしたよね。それに今度は仕事でも上司になるわけですから、いつまでも『コンラッド殿』では少し他人行儀でしょう。これから長い付き合いになりそうですし、先輩と呼ばせてもらいますよ」
「いや、理屈は分かるんだけどね。学院では顔と名前を知っていた程度だったし、王都で会った時だって仕事の話を何度かしたくらいだろう? 今日いきなり距離を詰められると、こちらにも心の準備というものがあるんだけど」
「それは、とりあえず慣れてください」
「最初から譲る気はないんだね……」
「長い付き合いになるでしょうから」
レオンはコンラッドの目を真っ直ぐに見たまま答えた。その瞳の奥には、有無を言わせぬ確固たる意志が宿っている。
内心でため息をつきながらも、コンラッドはその視線から逃げることはせず、困ったように笑った。
「……分かったよ。好きに呼んでくれ」
「ありがとうございます、先輩」
コンラッドは逃げ出したいような気分をなんとかごまかして、握っていた手を離した。
「慣れるまで時間がかかりそうだな……」
苦笑しながら、軽く息を吐いた。
隣で見ていたイレーネが、兄とレオンを不思議そうに見比べる。窓の外では午後の日差しが少し傾き始め、港から吹き込む風が薄いカーテンを揺らしていた。
レオンは平然とした顔で、ミハイルへ向き直った。
「では、対外部門の方々にも挨拶してきます。初日から顔も出さずに終えると、あとで仕事を頼みにくくなりますから」
「ああ。案内をつけよう」
ミハイルが呼び鈴を鳴らすと、ほどなく侍従が入ってきた。
「彼を対外部門まで案内してくれ。責任者には私の指示だと言っておいてくれ。詳しい話は後ですると」
「かしこまりました」
侍従が一礼すると、レオンは侍従の案内に従って執務室を出ていった。
扉が閉まり、廊下を進む足音が遠ざかる。急に静けさの戻った室内で、コンラッドだけが、しばらく閉じた扉を見つめていた。
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