第21話 好きにしなさい
病室には、夕暮れの静けさが満ちていた。
西日が白い天蓋を朱に染めている。
その傍らには、王太子アレクシオスと近衛騎士団長グレゴリが控えていた。
扉が静かに開き、イレーネが入室した。
変わらず士官服姿のイレーネを見て、アレクシオスの表情がわずかに歪む。
「イレーネ・タラシア、参りました」
王はゆっくりと目を開き、穏やかに微笑む。
イレーネは寝台の傍らまで進み、静かに跪いた。
王はその姿を見つめ、いつと同じように穏やかに問いかける。
「話があると聞いたが。どうした、イレーネ」
返事はなかった。
イレーネはゆっくりと顔を上げた。
王はその瞳を見つめる。
やがて、その表情からかすかな笑みが消えた。
静かアレクシオスへ視線を移し、
「外してくれ」
アレクシオスが戸惑う。
「父上──」
「二人で話したい」
穏やかな口調だった。
しかし、その一言に反論は許されなかった。
病床にいながらもなお王の威厳は損なわれてはいない。
アレクシオスは言葉を飲み込み、一礼して部屋を後にした。
「グレゴリ。そなたもすまぬが」
「はい」
グレゴリは一言返事をすると、その巌のような体を返し、出て行った。
扉が音もなく閉まり、部屋には静寂だけが残った。
傾きかけた陽がゆっくりと寝台を這う。王の胸元までは光が届いていたが、その顔は天蓋の影に沈んでいた。
「……何があった」
イレーネは深く息を吸う。
「本日、アレクシオス殿下より婚約破棄の宣告を受けました」
王の眉が、わずかに動いた。
「併せて、タラシア家が王都および海軍に有する地位と権益のすべてを剥奪する、と」
すぐには言葉は返ってこなかった。
――やがて、王が低く問い返す。
「……あれは、何と言った」
「私の志は王妃に相応しくなく、国を導く資格はアンナ嬢にある。また、タラシア家は王家より賜った地位と権益を当然のものと思い上がっている、と」
王は静かに目を閉じた。
――さらに傾いた西日が天蓋の下へ差し込み、その顔を淡く照らす。
目元に深く刻まれた皺が、夕日の中に浮かび上がった。
遠く、時を告げる鐘の音が響いた。
王は小さく息を吐く。
「……そうか」
それだけだった。
ゆっくりと目を開き、王はイレーネを見る。
「……怒っているのか」
責めるのでもなく、慰めるのでもない。
ただ、イレーネという一人の人間の心を尋ねる声だった。
イレーネは一瞬だけ目を閉じた。
胸の奥に押し込めていた感情を、この人の前でだけは隠せなかった。
「……はい」
王は静かに頷く。
「……すまぬ」
その謝罪が何に向けられたものなのか、王は語らなかった。
イレーネもまた、問わなかった。
やがて王は、穏やかな眼差しを向ける。
「好きにしなさい」
その言葉に、命令はなかった。
慰留もなかった。
王は理解していた。
タラシア家が忠義に厚い一族であることも、その忠義が誇りの上に成り立つことも。
誇りを踏みにじられた以上、その一族を王命で繋ぎ止めることはできない。
繋ぎ止めてはならない。
それが長年、この家と歩んできた王の結論だった。
王は静かに続けた。
「ミハイルに伝えてくれ」
父の名を聞き、イレーネは顔を上げる。
「私が……すまなかった、と」
イレーネは深く頭を垂れた。
「必ず、お伝えいたします」
王は静かに頷いた。
イレーネは立ち上がるともう一度だけ深く礼をした。
王はその姿を黙って見送る。
部屋にはもう、西日の色は残っていなかった。
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