第1話 底辺にて
高3受験の年、口煩く何度も言われたことがある。
『受験は人生において方向を定める重要なイベントである』
勉強をさせるために、敢えて焦燥を生み出す言葉
『受験は団体戦だ』
受験期での人間関係の不和を抑制するための言葉
『今さえ頑張ればこの先も努力できる』
模試で落胆している人間への慰めの言葉
幸いなことに自分の担任は、こんな一時的に苦痛を緩和するだけの戯言を口にすることは一切なかった。
ただ黙々と黒板に公式を書き記し、解法を説明するだけの生真面目で静かな教師
『今この時だけです』
そう言うと、担任は公式を書く手を止めて俺たちの方を見つめた。
『皆さんはもう、これからは一切頑張らなくても大丈夫ですよ』
そんな普段寡黙な担任が小さく呟いた言葉は
口調は忙し立てるような学年主任の激励や、熱血感溢れる進路主任の個別指導よりずっと穏やかで優しく
そして憐れみが込められていた。
この担任が言ったからこそというのもあるが、俺の中での体裁だけ清潔なハリボテの激励なんかよりずっと、記憶に残っていた。
だが結局のところこれは、受験への発破をかけるための促進剤でも、『合格』という目標を魅力的に見せる甘言でもなんでもなかった。
今だからこそ俺は理解できる。
あの言葉は担任なりのただの悪戯だったということを。
尤も、それを理解するには少し遅すぎたわけだが。
大学3年 10/7
講義へ向かう足取りは重く、ぼんやりとした頭は『勉強』という行動をする為には、あまりにも鈍重で理性に欠けていた。
1限講義の遅刻が確定した俺は車窓から外を眺める。景色が見たいじゃない。ただこうしているといずれ払う事になるであろう怠惰の代償から距離を置けると思ったから。
『何故大学に行くんだろうか』
そして何十回、或いは何百回と言っても過言ではないほど俺はこの問いをまた考える。
友人とくだらない世間話に耽るためだろうか。或いは優越感を肴に彼女とイチャコラするためだろうか、はたまた勤勉に真面目に勉学に努めて、大手に入るためか。
それともただ『大卒』という資格に縋り付きたいだけか。
いずれも俺には当てはまらない。ただ周囲が皆進学をするから、俺が認識している世俗的な常識に当て嵌めて判断し、それにただ倣っただけの話だ。
将来の夢?
それがある人間は、路上で干からびたトカゲみたいな辛気臭い顔をしない。
趣味、やりたい事?
それがある人間は講義の週出席率が半分未満になんてならない。
何故こんな境遇になったのか?
それが分かればこんなクズが犇く場所に片道2時間もかけて通学しない。
自己嫌悪を交えた自問自答を繰り返しているうちに、列車は大学最寄駅にまもなく着こうとしていた。自分の精神が擦り減らされていく不快さを対価に暇を潰せるのは、果たして割に合っているんだろうか。
いずれにしても、今の溶けた脳では確実に判断できることではない。
大学に着いたときには、目の前の建物から講師の無駄にデカい声が聞こえてきた。そんな雑音を他所に俺は今から一限講義に出席する…わけもなく、図書館へと向かう。
恐らくあと一度でも欠席すれば単位取得は危うくなるようなボーダーラインに俺はいるはずだ。ただそんな崖っぷちにようが、出席をする気はない。
図書館へ入ると、じんわりとした暖風が出迎えた。中へ進み、コンセントがある席へ腰を下ろしてスマホを繋ぐ。
そして以降70分、動かないことが確約された。
出席をしないのなら、大学の教材保存用のサイトから講義資料を自主的に活用するなりなんなりやり方はいくらでもある。
だが俺が今からやる事は、ただ電子の海の中で荒れ狂っている波に乗ること。自己啓発本やらで長々と時間の有効活用法を書いている人間が見たら、卒倒しそうな行為。要はネットサーフィンだ。
そうしてチャイムが鳴ったところで、俺は漸く立ち上がり次の講義へと向かう。
この大学は数値化をすれば、合格基準がはっきりと設けられているので厳密にはfランという枠組みには入らない。
ただそれは数学の極限の理論のように「限りなく0に近い、だが0じゃない」という苦し言い訳のようなもので、ほぼfラン同然だ。
そんな底辺大学に似つかわしくもなく、設備は無駄に最先端揃いなのがこの大学だ。入学時に配られる学生証がキーのようになっていて、これを扉横のカードリーダーに通すだけで出席退席がしっかりと記録されるという仕様だ。
だが結局のところ、こんな機能は豚に真珠、馬の耳に念仏、fラン生にチャートなのだ。
学生証を通すだけで出席退席をカウントができるのなら、授業の頭と終わりだけに教室に出向きカードリーダーに通せばいい。それだけで90分は自由時間が担保される。俺がわざわざこうして今講義に出向いているのはこのためだ。
教室に入り学生証を通して、席に座ることもなくそのままUターン。これで出席は終わり。
こうして空き時間と昼休みを諸々全て合わせれば2時間以上は時間を確保することができた。
デイリー消化でも今のうちにしとくか。
教室を出ると、丁度向こうから見知った顔の人間が歩いてきた。
「あっ…よぉ、藤田」
「……ああ、山内」
「今から講義受けんの?」
「まぁ…うん」
「じゃあまぁ、頑張れよ」
「あぁ…」
この破滅的な会話から察せるだろうが、俺には友人は少ない。いや、少ないではないな。2人しか俺の中で"友人"として定義されていないと言うべきだ。そしてその数少ない友人の片方というのがこの根暗、藤田だ。
大した特技もなく、この大学に居る時点であり得ないが勉強もこれといって秀でているわけでもない。聞き取りづらいダミ声でただゴニョゴニョ話すだけで、話題を振っても苦笑いをするだけの存在。
はっきり言っておくが、もし入学初週に戻れるのなら間違いなく俺は藤田以外の人間を選んでいただろう。1人陰鬱な表情を浮かべていたところを態々選んでやったというのに、当の本人はこんな不遜な態度なのだ。我ながら本当に大外れの貧乏くじを引いてしまった、と2年経った今でも悔やむ。
そんな諸々の愚痴を溢せる相手の元へと俺は今から向かう。連絡を入れると向こうも2限を履修していた筈だが、即刻返信が来た。
「よぉサボり魔」
「お前も同類だろ」
まだ人が疎の食堂に向かうとそいつはいた。
シワのついたズボンに、寝癖まみれの髪に清潔感のない肌。気色の悪いにやけヅラを浮かべながら挨拶を交わすコイツこそが、俺のもう一人の友人である佐藤だ。藤田と違いまだ会話がある程度成立する上、趣味も履修している講義も俺と殆ど被っているので、居心地はまずまず。なんなら済んでる場所も割と近い。
「で、今年の単位は2桁行きそう?」
「分からん。可能性はある」
「俺たちこれで落とせば2留とかマジ笑えねぇだろ」
「山内はいいだろ。俺は3留も視野だぞ」
「もうそのまま1周してホームベース帰ってこいよお前」
「俺逆張りだから野球興味ねんだわ。スキャンダルとかゴシップは除いてな」
太古より伝わる劣等感を拭い去る言葉
『赤信号、みんなで渡れば怖くない』
この文言同様に、俺の目の前に広がる不安をある程度解消してくれる存在が斎藤なのだ。
言ってしまえば、地獄に堕ちようともまぁその時にはこいつも隣にいるだろう、という集団心理のような安堵だろうか。
「課題どうする?来週のレポート今やるか?」
「いーややらね。めんどいしあのハゲ頭キモいし」
こういう『ダリィ』みたいな強者感ムーブを醸し出す奴は大概裏ではガリ勉なのだが、斎藤は違う。コイツは「やらない」と言えば本当にやらない終わってる奴だ。
「そんなんだから早々留年確定するんだろ」
「山内も同じだろ。俺は講義に出てないだけで、お前は単純に地頭がバカ。はい俺の勝ち」
「しょーもな、努力すらしてない奴と同類にすんなよ」
「努力の方法が間違ってんじゃねーの。あと俺は努力さえすれば普通に留年回避じゃなくて、転学してたわ。国立か早慶ら辺の大学にな」
「お前みたいなのが国立とか行って何すんの?」
「知らん。なんか行けばホワイト企業入れるだろ。てかお前うるせぇって。周りめっちゃ見てんじゃん」
斎藤が言った通り、周囲の奴等は俺たちに冷ややかな目線を無言で送ってきた。コイツらも殆ど同類なのに、他人を軽蔑する余裕だけはあるらしい。
「…で、何すんの?勉強?」
「食堂で勉強をする奴がいるのかよ」
「じゃあ、やるか。おい俺もまだログインしてねぇから、ちょっと待っとけよ」
「最初からそのつもりでお前を呼んだんだよ」
そうして俺たちはいつもの様に講義をバックレて、日課に勤しむことにした。




