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第22話 静かな変化

葵は答えられない。たださっきの“止まった感覚”だけがまだ体の奥に残っている。動かしたわけでも、抑えたわけでもない。ただ存在そのものを留めたようなそんな違和感が消えない。


風が遅れて吹く、止まっていたはずの空気が今になって動き出したみたいに少しだけ不自然な流れを残していた。


葵は自分の手を見る。震えているわけじゃないのに、どこか現実から浮いているような感覚がある。


――境界に触れた


頭の奥で、あの声がもう一度だけ響く。それ以上は何も言わず、ただ余韻だけを残して静かに消えていく。


リリスはしばらく何も言わずに葵を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……今日はここまでにする」


その一言で張り詰めていた空気がわずかに緩む。


「これ以上は、今の君じゃ持たない」


視線を外しながらそう言うが、その声にはさっきまでとは違う重さがあった。


葵は何も言えないまま、その場に立ち尽くす。


さっきまでの“練習”とはもう違う。自分が触れてしまったものがどこまでなのか分からないまま、ただひとつだけ確かに残っている。


止めた感覚。


それがまだ、消えていなかった。


少しの沈黙のあと、リリスが小さく息を吐く。


「……お腹すいたわね」


唐突な一言だった。


「え……?」


葵が戸惑った声を出した瞬間、リリスはくるっと背を向ける。そのまま軽くスキップするように歩き出し、鼻歌まじりにリズムを刻む。さっきまでの張り詰めた空気なんて最初からなかったみたいに、足取りはやけに軽い。


「ん〜♪」


短く音を転がすような調子で、そのまま家の方へ向かっていく。


葵はその背中を見たまま、一瞬だけ言葉を失う。


……能天気か。


思わずそんな言葉が頭をよぎる。それでも否定しきれないのは、さっきまでの圧とこの軽さが同じ人物から出ていることだった。


少し遅れて歩き出す。頭はまだ整理できていないのに、体だけがついていく。


家に入ると、外の空気が嘘みたいに静かになる。生活の匂いが残る空間に戻ったことで、現実に引き戻される感覚が少しだけ強くなる。


リリスは先に中へ入ると、くるっと振り返る。


「ねぇ葵、なにか作れる?」


その声はさっきまでとはまるで違う、いつも通りの軽さだった。


葵は一瞬だけ言葉に詰まるが、小さく頷く。


「……簡単なものなら」


「それでいいわ」


満足そうにそう言うと、リリスは椅子に座る。その仕草もどこか機嫌が良さそうで、さっきの戦いの面影はほとんど残っていない。


「ご飯~ご飯ー!♪」


「なんか凄く幼い子みたいだ...」


葵は台所に立つ。包丁を手に取るといつもと同じはずの感覚なのにどこかだけがずれている気がする。


野菜を切る。トントン、と一定のリズム。


その音に少しだけ安心する。


けれど。


一瞬だけ、包丁の軌道が“止まる前の形”として見えた。


ほんのわずか、気のせいみたいに消える。


葵は手を止める。


「……あ」


思わず小さく呟く。


リリスはその声に反応して、視線だけを向ける。


「どうかした?」


その問いに、葵は少し迷ってから首を横に振る。


「いえ……なんでもないです」


嘘だった。


でも、どう説明すればいいか分からない。


再び包丁を動かす。


今度は何も起きない。ただ普通に、食材が切れるだけ。


それなのに、さっきの感覚だけが消えずに残っていた。


――まだ繋がってる


頭の奥で、あの声がほんのわずかに響く。


葵は何も言わず、手を動かし続ける。


日常の音の中に、ほんの少しだけ異質なものを混ぜたまま。




やがて火を止める音がして、軽い湯気が立ち上る。派手なものじゃないが、温かい匂いが部屋に広がっていく。


「できました」


そう言って皿を並べる。今日作ったのは、軽く味付けした野菜炒めと卵のスープ、それに白いご飯。どれも特別なものじゃないが、落ち着く匂いだった。


リリスは椅子に座ったまま、少し身を乗り出す。


「へぇ、ちゃんとしてるじゃない」


どこか楽しそうに言いながら、箸を手に取る。そのまま迷いなく一口食べる。


葵は一瞬だけ動きを止める。


「……あ」


言いかけて、そのまま止まる。


リリスがこちらを見る。


「なに?」


「いや、その……」


少し迷ってから口を開く。


「食べる前に、何か言わないんですか」


リリスは一瞬だけきょとんとした表情になる。


「……なにそれ?」


素直な反応だった。


葵は少し言葉に詰まる。


「えっと、その……“いただきます”っていうか」


リリスは少しだけ考えるように間を置く。


「聞いたことないわね」


あっさりと言って、もう一度料理に手を伸ばす。


「必要なの?」


「必要っていうか……習慣みたいなものです」


曖昧な説明になる。


リリスは軽く頷く。


「ふーん」


それ以上深くは気にしない様子で、そのまま食べ続ける。


「まあ、美味しければいいんじゃない?」


いつも通りの調子だった。


葵は少しだけ間を置く。言うか迷って、結局やめる。


そのまま何も言わずに箸を取った。


口に入れると、確かにいつも通りの味だった。おかしなところはない。ただ普通に美味しい。


「どうですか」


少し遅れて聞く。


「普通に美味しいわね」


あっさりした言い方だったが、そのあともう一口食べる。特に不満はなさそうだった。


「その“普通に”って褒めてますか」


「褒めてるわよ。変に凝ってないし、無駄がない」


リリスはそう言いながらスープにも手を伸ばす。


「こういうのでいいのよ、こういうので」


どこか満足そうに呟く。


静かな時間が流れる。食器の音とわずかな会話だけが続くごく普通(?)の食卓。


それでも。


一瞬だけ、箸が止まる。


視界の端に、ほんのわずかな違和感。“次にすくう動き”が先に見えた気がした。


葵はそのまま動かす。何も起きない。ただ普通に食べ物を口に運ぶだけ。


「……どうしたの」


リリスが何気なく聞く。


葵は少しだけ迷ってから首を横に振る。


「いえ……ちょっと考え事です」


「ふーん」


それ以上は追及しない。ただまた一口食べる。


しばらくして、リリスがふと口を開く。


「葵」


箸を動かしながら、視線は向けないまま。


「さっきの、忘れないでおきなさい」


その一言だけが、少しだけ重く残る。


「多分、あれが君の“本質”に近い」


葵は答えない。ただ静かに、もう一口食べる。


味は変わらない。


なのに、どこかだけがさっきまでと違っていた。

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