淡くて優しい
コツコツと早足の足音と、何かを喋りながらなのだろうか、声が近づいてくる。
私は薄暗い部屋の中で、耳をすませていた。
けれど、すぐに分かる。
聞き覚えのある声。
善光先生だ、ほっとして私は顔を上げて立ち上がろうとした。
「分かった分かった、デートだろう、約束するって。それより、この階で間違いないな、あとどのくらいの距離だ」
途端に、悲しみと情けなさが同時に襲ってきた。
先ほどまでの恐怖で頭が麻痺しているのか、嫉妬と言うにはまた少し種類の違う感情が込み上げてくる。
どうしてこんなことばかり、耳にしてしまうのだろう。
どうしてこんなことばかり、聞いてしまうのだろう。
デートの約束って、きっと環さんだ。
いや、やはりこれは嫉妬だ。
怒りと嫉妬と悲しみと恐怖がない混ぜになって、私を襲う。
「瑠衣、ここか?」
優しい声。
がちゃりとノブが回され、背の高いシルエットが入ってくる。
「瑠衣、瑠衣」
暗闇の中、先生の声が優し過ぎて。
「先生、」
私はふらつく足で先生にしがみついた。
背中に腕が回されて支えられ、ようやく立っていられる。
「せんせえ、先生、」
涙が溢れて止められない。
「大丈夫だ、もう大丈夫だから。怖かったな、もう大丈夫」
必死でしがみついて、先生の背中の服を握り締める。
きっと今、私の顔は涙と恐怖と疲労とやきもちで、ぐちゃぐちゃになっているだろう。
もしかしたら、鼻水もプラスされているかも知れない。
そんな汚い顔を先生の肩に擦りつけている。
「ひっく、ごめんね、先生。服、汚れちゃう、うえっ」
嗚咽と同時に、激しくごほごほと咳く。
背中を摩る手が、優しくて。
「気にすんなよ、そんなこと。瑠衣、もう大丈夫だかんな、」
胸につかえて私を苦しめている塊のようなものを、吐き出したい。
「先生、お願い、他の人と……デートなんて、しちゃ嫌だあ」
ようやく自分の気持ちが言えた。
嫉妬って、こんなにぐちゃぐちゃになるものなんだね。
「嫌だよう、うっ、うえっ、」
しゃくり上げる私の背中を優しく摩る。
「お前、何言ってんだ、こんな時に……」
先生の苦しそうな声。
「そんなこと言ったら、おまえ、」
はは、と力無く笑う。
「バカみたいに俺、……勘違い、しちまうだろ」
背中に回された腕に力が入る。
そして、るい、と呼ばれ、首元にそっとキスをされた、気がする。
そこからは、記憶がない。
るい、と何度も呼ばれたような気はしたけれど、私はそのまま先生の腕の中で、眠ってしまった。
✳︎✳︎✳︎
起きて、思い出して、恥ずかしくなって、ひええぇっと布団に潜り込む。
わあーって布団から出て、思い出して、恥ずかしくなって、またひええぇっと布団に潜り込む。
それを何度か繰り返した後、ちょっと自分に呆れ気味になって、もういい加減にして起きるべ、とベッドから這い出る。
あれから善光先生は眠ってしまった私を、ずっと抱き締めていてくれた。
ふと目を覚ますと、先生の腕の中にすっぽりと包まれていた。
その頃には、ついさっきまで薄暗かったリネン室は、真っ暗で。
「起きたか? 大丈夫か?」
優しい先生の言葉が暗闇の中、胸に響く。
「瑠衣、送ってくから。立てるか?」
私は、うんと頷くと、先生に支えられながら立つ。
そして、それからタクシーに乗って自宅まで帰ってきた。
少し横になれと言われ、そのまま眠ってしまったらしい。
時間を見ると、もうどっぷりと夜になっていた。
そして、そんな風に先生に抱っこされていたことを思い出し、再度ひええぇっとベッドに突っ伏す。
猛烈な恥ずかしさがこみ上げてくる。
けれど、さすがにそれにも飽きて、ベッドを出てリビングに向かった。
ドアを開けて、驚く。
「わあっ、居たの?」
リビングの机で新聞を読む、善光先生の顔が見られない。
そして、善光先生も私を見ないで言った。
「居たのって、何、ひでえな。ここまで連れて来てやったのによ。それにさっきから何吠えてんだよ、恥ずかしいヤツだな」
う、聞かれておった。
「それにしても、お前知らない奴にひょいひょいついていくのやめろっての。学習しねえな」
うちは新聞は取っていないから、先生が持参したものだと分かる。
こっちを全然見ない。
「だって、丸井のおじいさんは、知ってる人だし」
「お前、あん時だってどんな目に合ったのか覚えてねえのかよ」
「あの時は、先生にヒドい目に合わされたんだもん。頭打って、死にそうになったんだからね」
先生に、の部分を強調して言う。
先生がようやく私を見た。
「そうじゃなくてよ、拉致られただろ」
「拉致ったの、先生じゃん」
私はむすっとした顔をしているだろう、顔の筋肉がそう物語っている。
「と、とにかく誰にでもほいほいついて行くなって言ってんの‼︎ このバカっ‼︎」
バカと言われて、ムッとくる。
もう良いよっ、冷蔵庫のドアをバタンと力一杯閉めて、取り出した牛乳をそのまま飲み干す。
寒いぃ、やっぱりチンすれば良かった。
「……他の女とデートとか、絶対しねえから」
情けないほど小さな声でそう言ったのが、聞こえてきた。
牛乳がぶほっと口から出るところだった。
私は、それでも何とかうんと小さく頷くと、
「私以外の人とデートすんの禁止っっ‼︎」
そして、顔が真っ赤になるのを感じて、自分の部屋へと走って逃げた。
✳︎✳︎✳︎
「丸井のじいさんがな。すまなかったって、謝っておいてくれって」
竹澤先生が、マグにコーヒーを注ぎながら、話しかけてくる。
「うん、もう良いよ。おじいちゃん、悪気は無かったんだよね。私が怖がり過ぎたのかもって、後から思った。触られたからって、すぐに入られるわけじゃないのに、ね。訓練した意味ないなあ。パニくっちゃって、ダメだったあ」
「でも、現にウェイリンには襲われてるんだしな。仕方がない反応だと思うよ。けど、お前を連れてくるなんてなあ、本当に予想外だった。俺らの仲間内ではお前のこと、前々から話題になってたし、ここ最近俺らが接触を始めたっていうのもあって、興味津々だったからなあ。腹を空かせた狼どもの中に、子ヒツジ入れちゃったようなもんだ」
ぶはっ、子ヒツジて‼︎
私はブラシで髪を後ろにまとめて、飾りのないシンプルなゴムで縛ると、鏡を片しながら言った。
「先生、お願いがあるの。訓練するの、もう止めようと思う。そういうの抜きで普通に暮らしたい」
手を止める。
「私、恐いの。不安で仕方がない。こんな力、無かったら良かった」
「善か」
え、
顔を上げた瞬間、顎を掴まれキスをされた。
顎を掴んだ手が首の後ろにそろりと移動し、ぐいっと掴み上げられる。
私は驚いて目を見開いていた。
先生の顔が、目が。
唇が、
離れていく。
「お前、目ぇ、つむれよな。恥ずいぞ、俺が」
そう言って、リビングから出て行った。
玄関でがちゃんと音がする。
上着を掴んで持っていったから、多分、帰ったのだと思う。
私は少しの間そこで呆然としていたが、え、え、え、と何度も言うと、現実が逆再生されて、私を混乱の中に突き落とす。
「何で……」
その言葉しか思いつかず、そして頭の中でそれは何度も繰り返された。
いつまで経っても、何で、と。




